パースペクティブ論

モリシュージ

第3話 マルクスの進歩史観

私はマルクスの「資本論」を読んだことがない。18歳の時に知り合いに本の内容を教えてもらった。それを聞いた時の私は嫌悪感でいっぱいだった。

「資本論」によれば、経済(社会体制)にもいろんな形態があり、原始共産制から始まるのだという。やがてそれが「歴史的必然」によって奴隷制に移行するという。

その奴隷制は、「歴史的必然」によって封建制に移行し、封建制もまた、「歴史的必然」によって資本主義に移行する事になっている。

だがマルクスによれば、社会体制の「進歩」はこれで終わりではない。やがて資本主義も「歴史的必然」によって、革命が起こって、社会主義になり、最後に共産主義になるが、これも「歴史的必然」によってである。

だがこの考え方を「進歩史観」と呼ぶのではないか。

私が「資本論」に嫌悪感を感じたのは理由があった。その三年前にHGウエルズの「宇宙戦争」という小説を読んで感激していたのだ。

この小説は今から126年前に発表されたにもかかわらず、「進歩史観」を批判していたのだ。

「進歩史観」は批判されなければならない。なぜなら環境破壊や人種差別といった、人類が克服せねばならない問題は「進歩史観」がもたらした。

もっとも、「マルクスの進歩史観」と「一般の進歩史観」は全く同じではない。

「マルクスの進歩史観」は純粋に社会体制の進歩を意味しているが、「一般の進歩史観」はずばりサイエンスとテクノロジーの進歩を意味している。

しかし、「マルクスの進歩史観」を疑う事の出来なかった人間が、「一般の進歩史観」を疑うだろうか。そんなはずはない。

すると、「環境活動家」とか「LGBT」の人たちは矛盾していることになる。彼らは共産主義を信仰しているからである。

そもそも、「歴史的必然」って何なんだ。そんな概念がどこから湧いて出たのか。

根拠が全く無いではないか。

そのせいか、共産主義のロジックも破綻していると思う。

ちょっと想像してみて欲しい。日本に革命が起こって、社会主義の国になった時のことを。

社会主義、共産主義とは平等主義のことである。貧富の差を無くさなければならない。

だからまず、国民から財産を没収するわけである。その直後にすべての国民に同じ額の財産を与える。そこから「よーい、どん」で社会主義経済をスタートさせる。

最初の世代はそれでいいだろう。

だがその息子の世代はどうなる?

社会主義、共産主義とは平等主義のことだから、息子の世代も平等にしなければならない。

そのためには息子の世代のスタートラインを揃えなければならない。

だが、息子の世代のスタートラインは親の世代にとってはゴールを意味する。

だから親の世代のゴールを揃えなければならない。

これを「結果の平等」という。

親の世代にも「努力する人」と「努力しない人」がいるわけである。「努力する人」の給料の額が増えたり出世したりすると、息子の世代が不平等になる。スタートラインが揃わなくなる。

すると、努力が報われない社会を作るしかない。

「因果応報の否定」である。

「結果の平等」は「因果応報の否定」を意味するのである。

こうして、「社会主義の日本」は誰も努力しない社会になったのだった。

工場の労働者が努力を放棄しただけでは済まない。医者も警官も努力を放棄したのである。

これではただのディストピアである。





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