第11話――『ワタシは****する』

 ラニが不定の狂気に陥った。

 次に彼女がどのような行動に出るのか、俺には分からなかった。


 ただ、その何かを仕出かす前に処置することは可能だ。


 俺は無言のまま。

 ありったけの力を込めて。


 ラニの鳩尾みぞおちに拳を加えた。


「うぁっ……」


 不意を突いた強打。

 ラニはがくりと頭を項垂れて、気絶した。


 これで一つ、問題が片付いた。


「さて、どうしたものか」


 俺の心はどこまでも凪いでいた。

 思考は鮮明に、今必要なことは何か、すべきことは何なのか、その把握に努める。


 俺には、『衝動』というモノがないのかもしれない。

 彼女にかけた言葉も、その一連の判断も、戦略的に基づく決断でしかない。

 俺はただ、記憶の幻影が持つ、記憶の模倣をしているだけなのかもしれない。


 この絶望的な状況に置かれても尚。

 彼女の内に秘めた叫びを聞いても尚。


 俺はどこまでも、物事の全てを俯瞰ふかんしていた。


「天井が崩落しない、現実が侵食されているのか。このままだと取り込まれるな」


 俺は荷物から、直径50cmの棒状のくさびを取り出した。


 このくさびは『現実性の値』を固定する力が宿っている。くさびを基点に周囲の空間へと作用して、我々が認識する『現実』を保つことが出来る。


 現実の正常性を保ち、『現実改変』を防ぐことが出来るのだ。


 俺はこのくさびを石畳みの床に突き刺して、安全地帯を確保する。


「怪物を倒すための手段が必要だ。だが、あの図体だ。仮に大砲といった兵器を持ち込んでいたとしても、奴に触れた瞬間に現実が変わってしまう。遺物が必要だな」


 俺は荷物から二着の白い手袋を取り出し、それを両手に嵌める。

 右手を頭上高くに掲げて、周囲にある大量の『線』を一点に集約させる。


 ――くさびと線。

 この二つの遺物は、俺の大切なだ。


 異形に変貌した犠牲者たちの命を救い上げ、俺という存在を共同体に押し留めてくれる大切な仕事道具。俺を『人間』として扱ってもらうための身分証明。


 多くの人間を線で紡ぎ、その命を救い上げてきた。

 その大切な道具を今、命を奪うために使用する。


「お前の撒いた糸が、仇となったな――――っ!」


 俺が構築する『空想』が、より強大なものに変わっていく。

 怪物の身体から飛び出た糸が、遺物の神秘に引っ張られていく。


 その巨大な図体を雁字搦がんじがらめにして締め上げる。


「堕ちろっ!」


 頭上高く掲げた右手を真下に振り下ろす。

 一点に集約させた『線』は膨大な質量を伴って、怪物ごと地面に叩きつけられた。


 衝撃で部屋全体が軋み、悲鳴を上げる。

 粉塵が舞い上がり、視界が白く染まった。


 怪物の姿は確認できない。

 だが、手応えはあった。


 次第に視界が晴れていくと、中央に巨大な穴が空いているのが見えた。


「やったか?」


 その発言は、フラグだったのだろう。

 視界が歪み、鈍い痛みが左脇腹を起点として体全体に響き渡った。


 その後すぐに別の衝撃が二度、身体全体に駆け巡った。

 視界が宙を映し出し、暗転。その後、俺の背中を強打した。


 体が動かない。感覚が働かない。

 身動ぎすると、どうも壁に背を預けているように感じた。


 俺はようやくそこで、あの怪物に吹き飛ばされたという事実を認識した。


「うっ……くそっ、化け物め」


 視界がぼやけて全体を見据えることができないが、奴もあの一撃を受けて無事に済んだわけではないらしい。生まれたばかりの頃に比べて、随分と小さくなった。


「もっ、もう一度、『線』の構築を……」


 頭では理解していても、身体が思うように動かない。

 怪物が徐々に此方へと迫っている。時間はもう残されていなかった。


「ここで、終わりか……」


 呆気ない終幕だ。だが同時に、頭の片隅のどこかで認識していたはずだった。

 冒険を続ける限り、このような時が来るだろうと。


 俺は全てを諦め、意識を投げ出そうとした。




 ――その時だった。


「うおっりゃああああ――――っ!」


 誰かが雄叫びを上げて、怪物に立ち向かおうとしていた。

 ぼやける視界には、兎のシルエットが映りだされる。


 気絶と発狂から立ち直った、ラニの姿だった。

 彼女の手には、棒状のくさびが握り締められていた。


 確かにあのくさびなら怪物に対抗できるだろう。

 だが、その先にある勝機は皆無に等しい。


「……っ」


 記憶の幻影が、ワタシの身体を焦がす。

 記憶の幻影が、ワタシの身体を突き動かそうとする。

 記憶の幻影が、やり場のない感情を『彼女』に向けて訴えかけていた。


 だがワタシの理性は、どこまでも冷めていた。

 だがワタシの理性は、もう手遅れであると述べていた。

 だがワタシの理性は、どこまでも機械的に事実だけを並べていた。


 ――自分オレは今、自分ワタシを見失いそうになっていた。


「これでも喰らええええぇぇっっ!!」

「――――!?」


 幸運は彼女に傾いた。ものの見事に、怪物の額にくさびが撃ち込まれた。

 くさびが抜かれない限り、怪物が発する強大な力――現実改変が起こることはない。


 だが、怪物は触手を振り回して『原因』を吹き飛ばした。


「がっ――――!?」


 その矮躯わいくが地面に跳ねるようにして転がってきた。

 彼女もまた、その身体に致命傷を受けてしまった。


「うっ、ううっ……まだ、まだぁ!」


 それでも尚、彼女は立ち上がって見せた。

 再び、あの怪物に立ち向かう意思を見せた。


「……なぜ、そうになってまで立ち上がろうとする?」


 純粋な疑問だった。

 なぜ諦めないのだろうか?


 その死に体。今に潰えてしまいそうな矮躯わいくを、なぜそうまで動かせるのだろうか?

 彼女がそこまでするほどの原動力が、俺には分からなかった。


「わたしが、あなたを巻き込んでしまったから……!」


 巻き込んだ?

 たったそれだけの理由で?


「これは、私の責任ケジメだから……だから私が、あいつを倒さなくちゃいけないの!」


 そう『自分』に発破をかけて、ラニは再び立ち向かっていった。

 どこまでも不格好な姿を晒して、勝ち目なんてないにも関わらずにだ。


 だがワタシは、その姿を一際眩しく、ように見据えていた。


 ――この感覚は一体なんなのだろうか? ……これは、衝動なのだろうか?――


 10年前、ワタシという存在が覚醒してから一度も感じることがなかった感覚。

 10年前、記憶の幻影だけがそれを有し、ワタシの身を焦がし続けた存在。


 そうか。今『自分』はのか。

 焦がれているのなら、『自分』にさらなる火花をべよう。


 『自分』という存在がより色彩を帯びて、生の欲動を形作るために。

 ワタシという生命個体がより『自分』を自覚して、己を定義するために。


 『自分』がより人間らしく変われるかもしれないという、希望を抱いて。


 そうと決めたら、あの小さな灯が消えないよう身体に鞭を打つべきだ。

 『自分』を動かすための原動力は、一体どこにあるのだろうか?


 記憶の幻影だけが、冷めきった『自分』をくすぶらせている。

 記憶の幻影だけが、自分の身体を突き動かそうとしていた。

 記憶の幻影だけが、やり場のない感情を『彼女』に向けて訴えかけていた。


 そうか、そうか。

 ならば、それならば、そうであるのなら。


 ワタシは『自分』を否定せず、向き合うことにしよう。

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