第3話
***
劇団セカイズが新しく公演する演劇『私の世界を覆す魔法』の稽古が始まってから、多紀の足はピタリと稽古場へ運ばれなくなった。
今日も、セカイズは休演日でありながら、他のメンバーは新作の稽古に臨んでいる最中だというのに、多紀は目的もなく散歩をしているところだった。
「はぁ」
何度目になるか分からない溜め息。
稽古に参加しないという事実は、セカイズに所属してから今まで毎日のように稽古場に残っていた多紀にとって、天変地異が起こったかのようだった。
また、多紀に変化が起こったことは、足を運ばなくなったことだけではなかった。
多紀は公演が終わった後、すぐに帰宅するようになった。もちろん、すでに割り振られている役割は、しっかりと演じている。主演を務める時は、ちゃんと主演としての振る舞いをした。しかし、演技の入り方は今までと明らかに異なり、見る者からしたら差は明確だった。更に、裏口に待ち構えるマスコミの対応にも、多紀はろくに言葉を返すことはなかった。
この変化の原因は、すべて多紀の心境にあった。
目の前の道が途絶えてから、多紀は目的を失くしかけていたのだ。いや、目的と言うと齟齬が生じる。多紀の夢は、ずっと変わらない。
「――皆間真奈美さん」
多紀はスマホの待ち受けにしている人物に目を落とした。そこに写っているのは、同性問わずに目を惹きつけるような、凛々しい姿の女優――皆間真奈美だった。
昔、多紀が住んでいた東京郊外の小さな商店街で、ロケが行なわれていた。そこのロケで一際目立っていたのは、当時から有名だった女優の皆間真奈美だった。真奈美を中心にして、ドラマが進んでいく。いつも慣れ親しんだはずの商店街は、いつしか自分とは掛け離れた世界の一部になっていく感覚を、幼い多紀は敏感に察していた。
真奈美の一挙手一投足は、世界に彩を与えていく。そんな人並外れた才能を持っているのに、演技が終わると、普通の人よりもへりくだって接する。
皆間真奈美は、そういう人物だった。
今は表舞台から姿を消してしまい、どこで何をしているのかは一切知られていない。けれど、彼女の名前を出せば、百人中百人が顔と名前とその功績を一致させることが未だに出来るだろう。それほど有名な女優だ。
その女優に、多紀の心は一瞬で持っていかれた。夢も目標もなく、ただ時間だけが虚しく過ぎていく退屈な多紀の世界が覆された瞬間だった。
一方的に憧れを抱くようになり、いつしか真奈美と一緒のステージに立つことを望み、多紀も演技の道を歩むようになった。
それからは、真っ直ぐだった。ひたすらに夢に向かって真っ直ぐ突き進んだ。普段から人に見られていることを意識し、凛とした佇まいを振るった。その全ては、真奈美のような有名な女優になるためであり、真奈美と一緒に同じ作品を作るためだった。
しかし、前述の通り、真奈美は演技の舞台から引退するようになった。
多紀の夢は叶わなくなったが、もう一つの夢までなくなったわけではない。真奈美の存在関係なく、多紀は演技の道に惹かれ、多紀の意志で有名になりたいと思うようになっていた。
演技の幅を広げたい、大勢の人に演技の楽しさを知ってもらいたい。
その想いの果てに、今の多紀が形成されるようになった。
「……なのに」
まさか、たった一度だけ主役を外されてしまうだけで、ここまで意気消沈してしまうとは多紀自身思いもしなかった。
今回のセカイズの新作『私の世界を覆す魔法』の主人公像は、多紀の性格とは百八十度異なっていて、たとえ主人公に抜擢されたとしても多紀は苦労を強いられたことだろう。
まだ現実を完全に受け入れることは出来ないけれど、新作の主人公は新人の志乃しかいないことは理解していた。
「お役御免、ってね」
呟いた言葉に、自分自身で嘲笑を漏らしてしまった。配役がなくなった女優の多紀に、なんとピッタリな言葉だろうか。
稽古場に行く必要がないとしても、ただ部屋でジッとしているというのは、多紀にとって苦行でしかなかった。
しかし、町に赴いたからといって、多紀の心が動かされることはない。
誰一人、北見多紀の存在に気付くことなく、己が道を進んでいる。セカイズでもてはやされ、テレビに出て、取材も受けて有名になった気でいたが、どれだけ高慢な考えに陥っていたのかを多紀は思い知らされていた。
気の向くまま真っ直ぐに進んでいると、一つの建物が――否、その建物の前にある看板が、多紀の目に映り込んだ。普段の多紀だったら看板になんて興味を抱かないが、その看板には「全国高校演技 地区予選」と書かれていた。演技と記されていれば、話は別だ。
「よかったら、どうですか?」
まじまじと看板を見つめる多紀に気さくに声を掛けて来たのは、「スタッフ」という腕章を左腕に付けた女子高生だった。
「今なら、まだ何校かは見れると思いますよ」
「私、保護者でも関係者でもないけど……」
「そんなの関係ないですよ。みんな、一人でも多くの人に見てもらおうと頑張って練習していたので、お時間に余裕があれば是非ご覧ください」
屈託なく笑みを見せる女子高生に、多紀は「じゃ、じゃあ……」と根負けするように会場の中へと入っていった。
一つの作品を作り上げるために費やされる時間というのは膨大だ。セカイズがこれから演じる『私の世界を覆す魔法』だって、相当な時間を費やしている。そして、その相当な時間を、作品に関わる人物みなが注ぐのだ。
エンタメの世界に関わる中で、努力の甲斐を感じられなくなる一番の瞬間というのは、見向きもされない時だ。
その事情も気持ちも知っている多紀は、高校生の想いを無下に扱うことは出来ない。
建物の中に入ると、男子生徒のスタッフが嬉しそうにプログラム表を手渡してくれた。多紀は一言礼を言うと、更に奥へと進んでいく。ホールに入った途端、観客たちによる雑談が押し寄せるように耳に響く。前の高校の演技が終わって、次の高校の準備段階に入っているのだろう。その間、観客たちは先ほどの演劇の感想や、次の演劇の推測を話し合っているわけだ。ということは、
「次の高校の演技は、最初から見れるのね」
途中から見るよりも初めから見る方が、当然のことだが好ましい。多紀は内心ホッとした。
ホールの中は思ったよりも広かった。その小さめの空間の中でも、空席がちらほらと目立っている。高校生の演劇、しかも規模も小さそうな地区予選だと、仕方のないことだろう。多紀は空席に腰を落とすことはせず、一番後ろの壁際に背を預けて観劇することにした。
この場所なら、高校生の演劇も会場の空気も、俯瞰的に見ることが出来る。そうすることで、多紀に必要なものを余すことなく吸収するのだ。
「……まぁ、高校生からは学べないと思うけど」
プロである多紀が、高校生の拙い演技を見て、今更何になるというのか。有名な劇団の舞台を観るというなら、話は異なるのだが。
こんなところまで来て、何をしているんだろう。私がいる場所は、もっと――……。
多紀の口から漏れた「……はぁ」という小さな溜め息を打ち消すように、ホール全体にブザーが鳴った。多紀は反射的に真正面へと意識を向ける。まるで多紀に倣うように、雑談に耽っていた観客たちも口を閉ざして、舞台へと顔を向けた。
幕が開ける前の、何が始まるんだろうという期待が籠った空気は、プロだろうと高校生だろうと変わらない。多分、観客であろうと役者であろうと裏方であろうとも、変わらない。多紀も同じ思いだった。
胸中を宿っていた感情は、舞台の前では水泡と帰す。そうしなければ、長い時間準備した人々に、失礼に値する。
それぞれの想いを籠めた眼差しが舞台に集まり、
「――」
幕が、開ける。
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