第2話
***
「ちょっと世宇。この脚本、どういうこと?」
脚本を読み終えた北見多紀の心境は、嵐が襲い掛かって来たように荒れていた。その乱れる感情を無理やり抑えながら、南条世宇に問いかける。
世宇はちょうど眼鏡についていた埃を拭っていたところで、掃除を終えてピカピカになったばかりの眼鏡を装着すると、
「どういうことって、今の私の心血を注いで書き上げた最高傑作のつもりだけど?」
「うん、分かった。確かに世宇の脚本を読んで、すごい心が踊らされたわ。純粋にワクワクもした」
今回、世宇が手がけた脚本の内容は、ある日魔法が使えるようになった女主人公であるナノの葛藤を描いたものになっていた。心の状態で周りに影響を与える魔法を持つナノ。ナノの気持ちを揺さぶった悪役の存在も、最初から最後までナノにきっかけを与えた叔母の存在も、そしてナノのことを陰ながら支えた幼馴染のチヒロの存在も、文字を見ただけでもみな活き活きと輝いていることが伝わって来た。
世宇の脚本は、現実とファンタジーを絶妙に掛け合わせた風潮が多く、まさに奇跡の賜物と表現しても過言ではない。その奇跡を役者として目に見える形に出来ることがどれだけ喜ばしいことか、長年一緒に活動して来た多紀なら分かる。
しかしながら――、
「だけどね、今回の舞台には相応しくない」
「……どういう意味?」
眼鏡越しでも、世宇が怪訝な視線を多紀にぶつけていることが伝わって来る。けれど、そんなことで動じる多紀ではない。
「この主人公、私の性格とはまるっきり別物よ。可愛らし過ぎるというか、少しあざとすぎる気がするの。この大事な時期に、私のクールな印象が崩れたらどうするのよ。分かるでしょ、私は今回成功を納めないといけない」
今まで多紀がセカイズで演じて来た役割は、容姿や雰囲気に似合った知的なものが多かった。クールでミステリアス、なのに感情が痛いほどに伝わって来る魂籠った演技に、見る人は惹きつけられて、その役柄を多くの人が願っている。そういうイメージが、多紀には根付いてしまっているのだ。
それを今更になって今回のような可愛いキャラを演じることは、周りの期待を裏切るようで演じることは出来ない。
「だから、書き直しよろしくね、世宇」
読み終えたばかりの脚本を、世宇に手渡そうとする多紀。しかし、世宇は多紀から脚本を受け取る素振りを見せることはせず、むしろ多紀を軽蔑するように、「逆だよ、多紀」と短く鼻で嗤った。
「私の脚本が多紀に合っていないんじゃないの。多紀が私の脚本に合っていないの」
世宇の言い方に、多紀は眉根をピクリと動かした。
「何を言ってるの、世宇。このセカイズは私の人気で成り立っていることは、あなたも重々承知でしょう?」
世宇の失礼な物言いに、怒り散らさなかった自分を、多紀は誉めてあげたかった。
次の新作の結果次第で、多紀の命運は分かたれる。活躍の場を広げられるか、このままセカイズに留まり続けるか。まさに多紀の一生を決める、大事な大事な公演になる。
だから、私に似合う脚本を作る必要があるのだ――、そう暗に含めて言葉にした。
しかし、多紀の主張を世宇は一笑に付す。
「それこそ何を言ってるの、なんだけど。周りにチヤホヤされて、思い上がってるんじゃない?」
多紀にとって痛い部分を、世宇は躊躇なく指摘してくる。
「いい、多紀。選ぶのは、あなたじゃない。ゼロから物語を作り上げる私なの」
迷いのない口調に、世宇が常々そう思っていることが分かった。
「確かに目立って見えるのは、表立って舞台に立っている役者だよ。でもね、役者は与えられる役割をこなすだけの存在。演じるための脚本がないと成り立たないし、更に言うなら、裏方に支えられたり、場を提供してくれる人がいなければ何の実力も発揮出来ない」
「……そんなこと、当然でしょ」
いの一番に答えられなかったのは、多紀自身の優先順位が、表立って立つ人間が一番上になっていたからだ。
世宇の言う通り、セカイズのスタッフに支えられていなければ演劇一つ作り上げることが出来ないのだが、最近の多紀は自分が有名になることだけに躍起になっていて、感謝の想いを失念していた。
しかし、多紀にも言い分はあった。
「裏で支えてくれる人達には、ちゃんと感謝してる。けど、演じる役者がいないと、物語は表舞台に出てこれない。違う?」
「うん。そうとも言えるし、違うとも言えるね。今は技術が進化して、プログラムだけで物語を動かすことが出来るし、文字でだって伝えることが出来る。言ってしまえば、個人で物語を作ることだって出来るんだよ。まぁ、そうしたら見る人を限らせてしまうかもしれないけど」
その時、もしかしたら世宇も脚本家という肩書きだけでなく、別の分野に進もうとしているかもしれないと、多紀は予測した。まさに今後活躍の場を広げようとしている、多紀のように。
「ちなみにね。メインの二人は、決まってるよ。まだ他は未定だけどね」
ぼんやりと別のことを考えていた多紀に向けて、世宇は配役表を手渡した。そこにある名前を見て、多紀は更に追い打ちを掛けられることになる。
「ナノ(主役):西野志乃、チヒロ:東谷八尋……?」
多紀は配役表を思い切り握りつぶした。多紀に合っていないキャラクターだったどころか、どうして主役の名前にすらも上がっていないのか。そもそも何故、新人の志乃が主役を演じていることになっている……。
「何よ、これ……。私の名前は?」
「今回の脚本を考えた時にね、残念だけど多紀の顔はメインで浮かばなかった。自然と志乃の姿で、動き出していたの」
多紀も同様だった。脚本を読んでいく内に、ヒロインに投影したのは志乃だった。志乃が浮かんでしまった時、多紀はすぐさま頭から消そうとしたが、世宇の文章力は凄まじく、志乃のイメージを覆すことはついには出来なかった。
そのことは頭で分かっていても、完全に受け入れることは難しい。
多紀は誰よりも努力している自信があった。感情を研ぎ澄ませ、心情を読み取り、空気を察知し、演技を磨く。その甲斐あって、多紀は舞台上で誰よりも光を放つ存在になり、セカイズの名前を更に世間に轟かせた。その自負が、邪魔をする。
多紀は先ほどの世宇のように、ふっと一笑に付した。もちろん、自分を誇示したいだけの見栄ゆえに、弱々しい。
「新人にあなたの脚本を委ねるなんて、練習台にでもしたいつもり? 世宇の脚本なら、ド新人でも輝かせることが出来るか試したいんでしょ」
そうでなければ、多紀を外すことなんて考えられなかった。先ほど脳裏に浮かんだ世宇の可能性が、多紀の中で現実味を帯びていく気がした。
世宇は落胆したように息を吐き、あからさまに肩を落とした。
「さっきも言ったでしょ。今回のイメージは、最初から志乃だった。ヒロインの天真爛漫さと、志乃の性格と若さから来る明るさが、このナノにはピッタリなの」
こうなったら、世宇の意見は変わらない。北見多紀という女優を輝かせるような修正を加えることなく、世宇は最後までこの脚本を貫き通す。
「話を振り出しに戻すけどさ。仮に、多紀にプロの役者だっていう自覚があるなら、どんな役にだって合わせてみせるのが多紀の仕事でしょ。それを役柄が合わないからって修正を強いるのは、お門違いなんじゃない?」
世宇の鋭い一言に、多紀は咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。
そんな迷いさえも許さないように、更に世宇は多紀を問い詰める。
「今の多紀は何がしたいの?」
「……っ、私は――」
「あ、言わなくていいよ。私ね、コピペのように薄っぺらい言葉って嫌いなんだ」
一瞬の逡巡さえも見逃すことなく、世宇は容赦なく多紀の言葉を割り捨てる。
実際、世宇の言うことは事実だ。世宇の描く脚本は、いつも活き活きとして、そこには貼り付けられたようなセリフは存在しない。そして、脚本に関してだけではなく、世宇の性格もまさしくそうだった。
世宇は誰の意見にも流されることなく、いつも確固たる自分の意志を持っていた。だからこそ、人を惹きつける脚本を書くことが出来るのだ。
「意見があるなら、自分の言葉でいいなよ。そうしたら、耳を傾けてあげる」
多紀は拳を握り締めた。
言いたいことは、たくさん頭の中にあった。けれど、今何かを言ったところで、世宇は決して耳を傾けないことを多紀は分かっていた。互いの性格を知り合っているくらいには、多紀と世宇の関係性は長い。
多紀は何も言うことなく、部屋を飛び出した。せめてもの反抗に、扉を思い切り締める。けれど、そんな反抗さえも物ともせずに、澄ました表情を貫く世宇がありありと想像出来て、更に多紀の胸が焦がされるだけだった。
「あ、多紀さん」
大きな歩幅で廊下を進む多紀の正面に姿を見せたのは、志乃と八尋だった。
二人並んで歩く姿は、多紀にとっては悔しいことだけれど、先ほど読んだばかりの脚本の主人公達にピタリと当てはまっていた。
志乃はちょこちょこと小走りをすると、「私、楽しみです」と屈託のない笑みを浮かべながら言った。
「今回の世宇さんの脚本って、どんなものになるんでしょうね?」
「……私が知るわけないでしょ」
これ以上、志乃のそばにいたくなくて、多紀はつい強く当たった。そして、脇目も振らずに、廊下を歩いていく。志乃と八尋が多紀を呼び止めたけど、聞こえないふりをした。
苛立っていながらも多紀の歩き姿は、やはりと言うべきか、モデルさながらに整っていた。すれ違う人みなが足を止め、振り返る。いつもの多紀なら、愛想の一つでも振り撒くのだが、今日の多紀にそんな余裕はなかった。
今頃、世宇は志乃と八尋に脚本を渡して配役を伝えている頃だ。そして、志乃と八尋は無邪気に喜んで、最高の劇を作るために必死に稽古に臨むだろう。爪弾きにされた多紀は、嫉妬にまみれて眺めるだけ。
そんな想像をしてしまって、多紀は自分自身に嫌悪を抱く。
まさか夢の一歩手前で道が阻まれることになろうとは、脚本を読む前の多紀は予想さえも出来ず、配役を落とした後でも現実として受け入れることは出来なかった。
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