積もり積もった恋の先(後編)
強すぎた制止に、柊吾の表情が曇る。大事な言葉を遮ってしまったことに心苦しさを抱きつつも、朱莉は続ける。
「柊ちゃん。おじさんと話そう?」
柊吾の中に、深く積もってどうしても溶けないものがある。七年をかけて凍りつき、朱莉でも届かない奥底に閉じ込めたものが。
親の同意がなくとも進める。けれど朱莉にはどうしても、それが最良の道とは思えない。
「お願いします。わたしにとっても大切な、柊ちゃんのお父さんです。ちゃんと認めてもらいたい。柊ちゃんがつらいなら、わたしから話します」
たとえ、いまの自分たちでは認められなくとも。溶けないままの重石を彼に抱かせ続けるより、ずっといい。
沈黙は、重く、長く感じた。時計の秒針がやけに大きな音をたて始めた頃、柊吾はふっと相好を崩した。
「大丈夫。俺から話せる」
ローテーブルに置いてあったスマホに、柊吾の手が伸びた。右耳にスマホを当てたあと、左手を朱莉に差し伸べてくる。手伝ってくれと仕草ひとつに乞われて、朱莉は両手で彼の傷跡を包んだ。
「父さん、俺。今日、夜時間もらえる? 俺と朱莉のこれからのことで、話がしたい」
そうして、ずいぶん時間をかけて返答を聞き。
柊吾は「へっ!?」と素っ頓狂な声をあげた。ちらりとこちらに視線を寄越し、さらにその視線を天井方向へ落ち着きなく泳がせる。
「……わかった。じゃあ、いまから用意して帰るから」
難しい顔で、柊吾はスマホを下ろす。
「何かあった?」
落ち着かない胸を押さえて朱莉が尋ねると、柊吾は首を傾げた。
「珍しく休みらしくて。朱莉は仁科家に待機で。先に悠と俺と三人で話したいって」
「……え、悠も?」
「うん、まったく話の想像がつかない」
◇ ◇ ◇
実家に戻ると、門前に悠が立っていた。心配そうな朱莉を仁科家に帰し、柊吾は悠の元へ向かう。
「わざわざ出迎え?」
「いや、リビング異様な雰囲気で……父さんとふたりきりは無理」
「ふたりって……母さんは? 仕事?」
「おとなり」
「えぇ、なんだそれ」
朱莉の吸い込まれていった仁科家をちらりと見やる。まったく状況が掴めない。
「ごめんな、悠。そっちも大事なときだろうに」
「今日はもともと予定なかったから、そこはいいんだけど。これってつまり、朱莉と……ってこと?」
「そう。その話で電話したら、こうなった」
すると、悠がバシンッと背中を叩いてきた。
「やったじゃん! ほんとに!? あー、そっか! そっかぁぁぁ!」
ひと言ひと言に一打が添えられる。
「悠っ、痛っ、痛いっ!」
「あ、ごめんごめん……」
まったく、と振り向いたら、弟はじんわりと目を潤ませていた。
「ふたりが
悠がくしゃっと潰れるような笑みで、自身のひたいに手の甲を当てる。柊吾は幼い頃に戻ったような気持ちで、悠の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。お互いにもう、ほとんど身長は変わらない。それでもやっぱり弟が可愛い。
ひとしきり悠から祝ってもらい、ふたりで我が家を見つめる。
「行ってみるか」
「俺も結衣さんのこと言われんのかな」
「そのときは悠だけでもさっさと出かけな」
「いーや。いずれ通る道」
悠にどうぞと先を譲られ、柊吾は門を開けた。
なるほど、異様だ。
冬の夕方ともなると、リビングは薄暗い。そんな中、照明もつけずにダイニングテーブルでじっとしている父、
初手から重い。柊吾はため息混じりに壁のスイッチを叩き、リビングを明るくした。
亘が驚いたように顔を跳ね上げる。
「ああ、きたのか」
「いま着いたとこ。時間もらって悪いね」
母はまだしも、父の顔をまじまじと見るのはいつぶりか。悠の一件以来、亘は海外行きを減らしてはいたが、相変わらず土日の別無く忙しかった。顔を合わせる機会がそれほどなくて、柊吾としては気楽だったが。
亘の真向かいに座る。悠がとなりの椅子に落ち着いて、では早速と柊吾から話を切り出そうとしたときだった。
テーブルにひたいを落とすほど深く、亘が頭を下げた。
「すまなかったと、思っている」
「ちょっと、急に……なに?」
亘は頭を上げ、柊吾と悠の顔を順に見た。
「実はな。おまえたちの下にもうひとり。妹がいた」
唐突に何を言い出すのかと反応に詰まった。悠もやはり同じようで、
「悠のふたつ下になるはずの。順調に十二週を過ぎて、安心した矢先だった」
「……全然、知らなかった」
「話せる状態じゃなかった。芙由子が自分を責めてな。しかも、芙由子の実家に知られた」
この家に引っ越してくるまで、自分たち兄弟の面倒を見てくれたのは母方の祖父母だ。
祖母は古い考えの持ち主で、芙由子が結婚後も仕事を続けているのを良く思わなかった。柊吾の前でもよく、芙由子について愚痴をこぼしていた。
流産は仕事のせいに違いないと、祖母は芙由子を責めたてたのだという。
「それで、芙由子は母親としての自信を持てなくなった。覚えてないか? 小学校にあがる前。母さん、柊吾のことを箸遣いひとつで叩くようになっただろう」
言われて、柊吾は首肯する。幼い頃、母は一時期しつけに熱心だった。ちょっとしたことで手の甲を何度も叩かれた。祖母と母がそのたびに衝突していたのも、うっすらと覚えている。
「芙由子を育児から仕事に逃がしたのは、父さんなんだ。このままでは、芙由子にもおまえたちにも良くないと思った」
仕事に重きを置くことで、芙由子はいくらか落ち着きを取り戻した。だが、それは祖母の望む母親像ではなく、祖母と芙由子の不和は深まるばかりだった。
やがて、わずかながらも緩衝材となってくれていた祖父が亡くなり。亘は芙由子の心を守るために、祖母と距離を置くことを決めた。
「そこで父さんが転職なりして、子育て重視にシフトすべきだった。ただ……いや、言い訳だな」
「なに? この際、全部話してよ」
柊吾がせっつくと、亘は厳しい顔を和らげて苦笑した。父の目尻に刻まれる皺が、知らぬ間に深くなっていることに気づく。
「父さんは生活が苦しい家の出で、しかも早くに親を亡くして。教育格差だの体験格差だのを散々味わった。転職で失敗したらおまえたちに皺寄せが行くのかと思うと、踏み切れなかった」
長年どうしてと思っていたことが、ひとつひとつ解けていく。ふと悠の顔を見たら、悠もやっぱりこちらを見ていて、やれやれというように肩をすくめた。
「おかげで。俺も悠も、そういう苦労は知らずにきたよ」
「ん。ありがたいと思ってる」
亘がふと、リビングの壁に顔を向けた。その向こうには隣家、仁科家がある。
「おとなりの
「ゲーム? 父さんが!?」
「難しかった。『初めてのランニングシャツ』を作りたいだけなのに、ゾンビに追い立てられた」
真面目な顔で亘が言うから、悠が息を止めて震えている。
それは名作ゲーム『マイクロ』で、腰巻きひとつでスタートする主人公がまず獲得を目指す服だ。先に下を履かせてはと思うが、何度リメイクを経ても必ずランニングシャツから。チュートリアルも同然。それを明かせば悠の腹筋が陥落しそうだから、柊吾は黙って話の先を促す。
「芙由子は朱莉ちゃんに、迎えられなかった娘を重ねているところがある。だからあのとき、朱莉ちゃんの平穏を最優先にした。芙由子より柊吾のほうが精神的にタフだと。そういう判断で柊吾を退かせた」
そうして、亘はもう一度頭を下げた。
「親としてあまりにも至らなかった。取り返しのつかない傷をふたりに負わせた。すまなかった」
柊吾は自分の左手に視線を落とし、次いで、悠の顔を見た。悠がひたいの傷に触れ、まぶたを閉ざして口元に弧を描く。
左手を軽く握って、テーブルの下で悠へと伸ばす。悠の右手も拳を作り、お互いの手がこつんと当たった。
「これからふたりが何を選ぼうと、口を出すつもりは――」
「もう、いいんじゃない? 父さん」
柊吾が遮ると、亘が驚いたように顔を跳ね上げる。
「いろいろあったけど。俺はいま、朱莉と一緒にいる。悠は……」
「こっちも。きつかったけど、なんでって何度も思ったけど。お釣りがくるぐらい良いことがあった」
いや、とか。しかし、とか。亘がまだわだかまっているようだから、柊吾は逆に頭を下げた。
「なにぶん若輩者ですので。今後、立ち行かなくなるようなことがあれば、そのときは頼らせてください」
亘は呆気に取られたような顔をして、ひと呼吸ののちに破顔した。父のこんな顔を見るのは初めてかもしれない。
「頑張りなさい。何かあれば、力になる」
「はい」
となりの悠がなぜか半眼で頬杖をつく。
「どしたの?」
「四歳差を羨んでるとこ」
「あー……」
交際歴五年越えの弟に、いまになって大きな試練が訪れている。出会いの早かった同い年特有の難しさだってあるのだと、弟を見て思う。
それでも悠と結衣なら大丈夫だろうと。柊吾は悠の肩をぽんと叩いた。
「悠。父さんはまだ会わせてもらっていないんだが」
「父さんが基本いないからだろ」
やや拗ねる父と複雑そうな弟を横目に、柊吾は立ち上がった。直後全身に走った緊張を、伸びひとつで蹴散らす。
「じゃ、行ってきます」
軽い挨拶で、リビングを後にした。
* * *
靴も脱げず、玄関で座って。スマホを握りしめて待ち続ける。
インターホンが鳴ると同時に、朱莉はドアを開けて飛び出した。
こんなふうに柊吾の元へ駆けていった夜があった。
とっぷりと日の暮れた二月の空の下、門灯の光に照らされて柊吾が立っている。
門扉を開けたら、緊張とあの日の残像に襲われた。動けなくなった朱莉に、柊吾のほうから一歩踏み出してくる。
「おじさん……何て?」
「『マイクロ』をチュートリアルで断念したらしい」
ぽかんと開いた口を、ひと呼吸おいて動かす。
「……なんの話?」
「聞いてよかった話。俺も、悠も」
晴れやかな柊吾の顔が雪解けを語る。
ほっとしたら足の硬直が解けて、朱莉のほうからも一歩、柊吾に近づいた。
向かい合って、笑みを交わして。お互い、ほとんど同時に手を伸ばす。
七年前の十一月、ここで抱きしめられた。あの夜、目の前にいる柊吾があまりにも遠かった。
いま、二月の夜に、ここで手を繋ぐ。それだけで、全身で触れ合うほど近くに彼を感じる。
「朱莉。結婚してください。これからの人生を、俺と一緒に歩んでください」
言葉より先に、うなずいた。
言葉より先に、涙がひとつ落ちた。
けれど、追いついた言葉が決して震えることのないように。彼の愛してくれる声で、大切に包んで送り出す。
「はい。柊ちゃん……柊吾さん。わたしと家族になってください」
柊吾に優しく抱き寄せられる。朱莉も応えて彼の背中に腕を回した。
やっとあの夜を越えられた、と。
柊吾のささやきに、腕の中でうなずく。
しばらくお互いの温もりを分かち合って、どちらからともなく、ゆっくりと離れた。
「遅くなっちゃったな。お祝いご飯、外食にしようか」
お祝いと聞いた途端。
いま仁科家で起きている全てが、朱莉の中で腑に落ちた。
「柊ちゃん……」
「ん?」
「すき焼きなんだって」
「……はい?」
「みんなで、すき焼き。おじさんも悠も一緒に。お母さんたちがもう準備万端」
「え、と。俺たちのことは」
「わたしからは、何も……けど。たぶん、お祝い的な……かと」
柊吾がくるりと踵を返し、駅方面へ歩き出そうとする。
「どこ行くの?」
「スーツ着てくる」
「いまから!? すき焼き終わっちゃう! すごく良いお肉なのに!」
「肉質の問題じゃない! 末永くよろしくする格好じゃないよ俺!」
そこで古澤家のドアが開いて、悠が顔を出した。
「あ、いた。母さんがいますぐ兄ちゃん連行しろって言ってるんだけど」
「悠ぅ! スーツ貸してぇ!」
「あ。クリーニングの引き取り、まだ行ってない」
「のぉー! 俺の末永くよろしくがぁ!」
悠が半ば強引に、柊吾を仁科家に連れ込む。リビングに入ると、待ちかねたとばかりに芙由子が朱莉に抱きついてきた。義之は四年前に聞いたも同然と柊吾の挨拶から逃げ回る。しょぼくれる柊吾の肩を悠がぽぽんと叩き、母、友恵が冷蔵庫から上質な肉を出して皆をどよめかせた。
そして最後に、亘がリビングに入ってきた。
かっちりと。スーツに着替えて。
「仁科さん。今後は家族として、どうぞ、末永くよろしくお願いします」
「なんで父さんがそれやっちゃうの!?」
リビングが笑いで満ち、柊吾が盛大に拗ねた。
悠がひと足先に古澤家に戻り、親同士が語り合う中。朱莉はそっとリビングを抜け出して、自分の部屋へ向かった。
古澤家に面した窓辺に立ち、カーテンを開ける。右に視線を動かすと、柊吾の部屋の窓が見える。
いつも見ている景色なのに、今夜は懐かしい。
「あーかり。どうしたの?」
柊吾が朱莉のとなりにやってきて、半年前まで寝起きしていた部屋の窓を見つめる。
「俺、初対面であそこから落ちかけたよね」
「……ふっ……ふふ」
「もっと笑ってやって。自分でも呆れる」
声が推しに似ているなんて、冗談みたいな偶然から始まった。
九歳で出会った彼は、憧れの兄になった。
十一歳で憧れは恋になった。
十四歳で恋は消え、彼は推しになった。
十七歳で再び恋になり、十八歳で恋が叶い。
二十二歳で。彼と将来を誓う。
柊吾がカーテンを閉めて、朱莉の左手を掬う。薬指に彼の唇が触れてきた。朱莉も彼の左手を取って、薬指と傷跡にお返しをする。ウェディングベールをめくる動きを柊吾が真似て、軽く唇を重ねる。
くすぐったさに笑って。ひと呼吸分、目を合わせ、気持ちを確かめあって。
今度は触れ合うだけじゃない、熱と深さのあるキスで。朱莉はいつも上手く息が継げなくて、頭の奥深くを溶かされるような心地で柊吾にすがりついてしまう。
誓いで倒れるわけにはいかないから、神前式がいい。そんな希望を口にしたら、柊吾は真っ赤な顔で「俺だって挙式中は加減できるつもり」とへそを曲げてしまった。
そんな本番は、まだしばらく先のことになるけれど。
新しい指輪をはめ。
証人欄に両家の父の名が書かれた届出用紙を持って。
ほころび始めた桜に祝福され、手を繋いでともに歩き出す日が、もうすぐやってくる。
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