降って降られた恋の先(前編)

 猫飼いが愛猫をけなされると激昂するように。

 結衣もまた、トイレの個室に閉じこもったまま、クマ飼いとして感情を仄暗くした。


「おそろいのクマって。小学生並み」


 結衣ゆいは黄色のリボン、はるはピンクのリボンのクマを。お互いのバースデイ・ベアを預け合う、クマ飼い歴五年のベテランだ。手のひらサイズのクマは年齢を重ねた分だけ貫禄がある。こんなに立派になってと、リボンの端のほつれをハサミで整えてやる時間のなんと幸福なことか。


 この癒しを世界は知らなさすぎる。讃えよバースデイ・ベア。


「いまだに指輪なしとかさぁ。古澤こざわくん、遊びで割り切ってんじゃない? どうせ就職でお別れでしょ。佐伯さえきっち、どんまい」

「相手が古澤くんなら遊びでも歓迎しちゃーぅ」

「だいたい、本気なら同棲ぐらいするでしょ。五年て!」

「手繋いでるのも見たことないよぉ」

「ままごとじゃーん」


 最後に大笑いをタイル壁に跳ね回らせて、彼女らは賑やかに去っていった。

 四年間、同じ学科で親しくしてきたつもりだったが仕方ない。彼女らとは卒業で縁を切ろう。そう決めながら、結衣はゆっくりとドアを開ける。


 腹立たしさで水しぶきを跳ねさせながら、ざざざと手を洗う。鏡に映る自分の顔は般若のそれである。


「そんな人じゃ、ない」


 結衣自身に欠けがあるならば耳も貸そう。悔しいのは悠を軽んじられたことだ。彼が遊びで交際するような人だなんて、どこに目を付けているのか。顔か。顔しかない。顔に付いているのに見えていないなら、いますぐ眼科をおすすめしたい。


 こういうとき、饒舌じょうぜつに言い返せない自分にも苛立つ。織音のように怒りを放つ自分を想像したら、全然口が回っていなくて滑稽だ。今夜から早口言葉の練習を始めたい。


 鏡を見ながら、卒業式のために伸ばしている髪を雑になでつける。本日は襟足がご機嫌に跳ねすぎて、これまたモヤモヤする。


 卒論発表会が先ほど終わり、これで大学課程の全てを修めた。残るは三月の学位授与式のみで、実質学生最後の春休み。開放感たっぷりに今日を終えるはずだったのに、残念なオマケがついてしまった。


 荒れた心に潤いを注ぎたくとも、今日は悠に会えない。卒論発表会は学科ごとに日が異なり、悠の機械科はすでに発表日を終えている。


 それに、この二月は。悠と会うのを二回と定めている。新生活のための訓練だ。


 四月から二年間、遠距離恋愛になる。二年という数字は確約ではなく、延びる可能性もある。悠は富山の社員寮に入ることになっていて、距離と費用を考えると頻繁に顔を合わせるのは難しい。


 高校二年の冬から五年以上。結衣は望めばいつだって悠に会えた。そんな恵まれた絶景の山頂からいきなり、年に数回会えるかどうかの地底世界に突入する。ジェットコースターとしてはかなり攻めた高低差。


 先にコースがわかっているなら、戦いようがある。いま、心に余裕のあるうちに、ふたりでコースターの楽しみかたを覚えようとしている。


 悪いことばかりではない。会えないかわりにビデオ通話を増やしてみた。五年間ほとんど使わなかった機能で、なかなか新鮮だったりする。




 家に帰ると、リビングで啓史けいしと母――実咲みさきがくつろいでいた。結衣も椅子に座り、ぐったりとダイニングテーブルに突っ伏す。


「なぁに、結衣。失敗でもしたの? 別に卒業に響くわけじゃないんでしょ?」

「終わって気が抜けただけ」

「そう。ま、お疲れ様でした。プリン食べる?」

「食べるー」


 実咲が冷蔵庫からプリンを出して、結衣のそばに置いてくれる。啓史の前にもひとつ。三連パックの定番焼きプリンかと思えば、見知らぬ洋菓子店のものだ。くるんと絞った生クリームとイチゴが乗って、ミントの葉まで添えられた贅沢仕様である。


「まぁ! 私へのねぎらいですか、お母様っ」

「残念、母の思いやりではありません。午前中ねー、お客様が来てたの。で、いただきもの」

「それはそれは。では、心していただきます」


 実咲は結衣の正面に座る。組んだ両手にあごを乗せ、やたらと嬉しそうにしている。そんなに美味しいのかと、結衣は張り切ってプリンをひと掬いする。となりの啓史とほぼ同時にスプーンをくわえた。


「うわ、旨っ!」

「美味しい! どこのお店だろ。行ってみたい」

「えー、待ってね。ちゃんと教えてもらったから」


 実咲が店のホームページをスマホに表示する。結衣は画面をスワイプして、最下部の住所を確かめた。


「へぇ、中尾寺なかおじにあるんだ」


 悠と朱莉あかりの最寄り駅だなと、またひと口。あまりに美味しいので、今度朱莉にでも訊いてみるか、なんて考える。


「ところでね、結衣。今日、卒論お疲れ会でどこか食べに行こうって言ってたけど。あれ、延期で」

「お父さん、今日遅いの?」

「急用なんですって。年度末が近くなるといろいろね」

「……仕事ってやっぱり大変だねぇ」


 ぽつんとこぼしてしまって、いけないと首を振る。耳敏い啓史がちらりとこちらを見るから、ふいっと視線を逃がしてプリンを食べ進める。


「姉ちゃんさぁ」

「なーにぃー」

「いや。あいかわらず抱え癖、治ってないなーと思って」

「悪口かな?」

「いや、呆れ口」


 なんだそれと笑って、最後のひと口をうむうむと味わった。



 * * *



 二月十四日。

 今月の悠チケット、一枚目を切る。

 紙製のマフィンカップで焼き上げたガトーショコラがお土産だ。


 古澤家にお邪魔して、まず驚いた。


「祭壇が撤収されている!」

「だからっ! 祭壇じゃなくて想い出コーナー!」


 悠の部屋のカラーボックス上段に設けてあった、ライトアップもできてしまう例のアレだ。ふたりで撮った写真を結衣が勝手に追加したりして、ずいぶん祭壇らしさが薄まってきたところだった。その一段がすっかり空になっている。


「向こうに移設するつもり」


 悠は部屋の隅に積んだダンボールを指す。


「寮だよね?」

「寮って言っても、普通のアパートのワンルームだから。自分だけの城なら、いまより飾り放題!」

「……増やしちゃだめだよ?」

「…………善処、します」


 不自然な間が恐ろしい。富山に祭壇ができる日も遠くない。


 飾る場所がなくなったからか、今回の悠は早速ガトーショコラに手を付けてくれる。


「美味し! 結衣さん、ますますレベル上がってない?」

織音おとちゃんという凄腕講師が付いてますので」


 親友を誇って胸を張ると、唇にとんっと指が当たってきた。ガトーショコラをひと口分フォークで掬って、悠が微笑む。


「一緒に食べて」


 こういう罪なことを自然体でやるのが悠だ。結衣は頬を熱しながらお裾分けをいただく。


「ん! やっぱり織音ちゃんのレシピにハズレなしっ」

「そうだ、三原さんといえば。あれ、聞いた?」

「聞いた! すごいね!」


 三月中に同棲を始める織音と樹生たつきは、ただいま内見に走り回っている。二択まで絞ったというから、今日にも決まるかもしれない。どちらの物件を選んでも、地元までのトータル乗車時間が三十分以上も短くなる。


「一時間ぐらいで行けるようになるかなぁ」

「嬉しい?」

「うん。これなら春からもあ――」


 安心、と言いかけて、結衣は咄嗟に回線を切り替えた。


「遊びに行けると思って」


 悠が瞬き二回で苦笑してうなずく。


「俺も、三原さんが近くにきてくれるなら安心」


 全然誤魔化せていない。どうしても取り繕えず、悠のお腹に腕を回してくっつく。


「ごめーん。いまのは失敗!」

「無理して明るく保たなくて良いからね?」

「違う違う。心配じゃないんだよ。新生活への緊張です」


 悠は結衣を剥がし、向かい合わせになるよう座り直した。ふにふにと頬をほぐされて、結衣の心は温かさに溶ける。


「ね、結衣さん。三月はもう少し会う時間取らない?」

「んー。悠くんが準備で忙しいのにって気になっちゃいそうで」

「そっか……でも、ビデオ通話はいいよね?」

「もちろん!」

「俺、完全にはまっちゃった。結衣さんのお風呂上がりと部屋着見放題で」

「ぉふっ!?」


 ぼんっと顔を沸かせたら、悠が声をたてて笑う。からかわれたなと、結衣は悠の膝をぺちぺち叩く。悠は「ごめんごめんっ」と笑いを落ち着かせ、目を細めながら結衣の髪に触れてきた。まだ鎖骨に到達しない髪を、今日はあえて外跳ねにセットして誤魔化してみた。


「付き合い始めより長い?」

「新記録です。徳を総動員して頑張ってます。言うこと聞かないから毎日大変」

「跳ねてても可愛いのに」

「それは悠くんの贔屓目だと思いまーす」


 笑って受け流すと、悠が残念そうに眉を下げる。あいかわらず隙あらば褒めてくる彼氏だ。そのオーバーな褒め言葉で、結衣はいつも自信を補給してきた。彼に甘えすぎていたかもしれないと、自分の膝に置いた手をきゅっと握り込む。




 次の悠チケットは月末の土曜日に。今度はどこかに遊びに行こうかと話しながら、中尾寺の駅までのんびり歩く。


「悠くん。手、繋いでいいですか」


 悠の地元なら同級生に会うこともあるだろうと、古澤家を訪れるときは非接触を貫いてきた。それをいまさらになって結衣から破ってみる。


 軽く目を伏せ、片手を差し出す。すると、悠は結衣の手を強く握ってきた。そこから指を組み合う恋人繋ぎに変えて、お互いの手のひらをぴたりと密着させる。


「いつでも大歓迎」

「良かった」

「ほかにもやりたいことは言って。遠慮しないで」

「言ってるよ?」

「そう? もっと聞きたいけどなぁ」


 そう言われても、すぐに思いつくようなことはない。ただ悠の優しさが嬉しくて、結衣の顔は自然と緩む。

 悠は虚を突かれたような顔をして、目を泳がせながら首のあたりにぺしんと手を添えた。


「くれぐれも。そういう顔は、俺の前だけにしようね」

「そういうって……どういう顔?」


 何かおかしいかと追求するも、いやいやと回避される。心配だなぁという彼のつぶやきに首を傾げているうちに、駅が見えてきてしまった。



 中尾寺の改札前で、まだ手を繋いだまま。電車がくる直前まで話し込む。


「月末行きたいとこ考えといて。俺も考える」

「うん。あ、その前に旅行があってね。火、水と電話できないと思う」

「ん。了解」


 電車が近づく構内アナウンスに手を離す。それじゃと笑ったら、ひたいに軽いキスが降ってきた。


「はっ、る……くん。ここ、外」

「一瞬だから誰も見てません。バレンタイン、ありがとう」

「はひぃ……」


 感触の残るひたいを押さえつつ、わたわたと改札を抜ける。


 会う機会が減ると逆に接触が増えるのだろうか。

 遠恋リハーサルは、なかなか心臓に悪い。



 * * *



 今年の寒さはまだ厳しく、けれど空は抜けるように青く。

 織音がそんな青空めがけて、寒気を蹴散らすように高らかにうたう。


「二月だね、ああ二月だね、旅行だよーっ!」


 二年前に頓挫とんざしてしまった夏旅行が、卒業旅行と名を変えて実現した。タフネス・フェアリーランド。通称TFL、あるいは童話の国。世界的に有名なネズミのキャラクター、ミッチー・マッスルを擁する、日本最大のテーマパークだ。


「織音ちゃん、何から何まで手配ありがとう!」

「お任せあれ。あたしがキャンセルさせちゃったんだから、当然あたしプロデュースだっ」

「夏じゃなくて正解。さすが織音」

「もっと褒めてっ! 今回の織音サマはひと味もふた味も百味も違う!」


 そう。前回の計画とはずいぶん違うリッチな旅をご用意されている。

 三人とも、手荷物は小ぶりな鞄ひとつ。両手は空っぽにできる身軽さ。一泊旅行の大荷物は事前にホテルに配送済み。そのホテルは温泉付きで、夕食は豪華な部屋食。さらに、童話の国への通行券は、アトラクションの優先チケットが三枚もついた『なかなかマッスルパス』ときた。


「あのぅ、織音ちゃん。やっぱり金額間違えてない?」

「どう考えても計算が合わないわよ?」

「んふふふ。実は今回、強大なスポンサーがいるのさ」


 織音がさっとスマホを取り出して、LINeトーク画面を開く。


【 俊也 >> 弟が大変お世話になりました 】

【 都美 >> 高砂家一同、ささやかながら卒業旅行を盛り上げさせていただきます 】


 あの夏、俊也は結衣たちにまで何度も礼を言って、いつか埋め合わせさせて欲しいと話していた。そのいつかがここに全力投入されたらしい。


 織音がぐっと右手の親指を立てる。直後、彼女の左手に握られたスマホが震えた。


「おっ……では、そろそろ今日のサプライズぅ!」


 そろそろも何も、まだ入園したばかりなのだが。


 なぜか朱莉がうなずいて、結衣の背後に回る。間髪入れず、両手でぱふりとこちらのまぶたを覆ってきた。


「え、朱莉!?」

「織音、カウントダウンお願い」

「いくよぉー……さん、にぃ、いーち……どうぞ!」


 ぱっと両手の覆いが離れ、結衣はたたっと瞬きを繰り返す。


 どういうわけか。

 目の前に、悠がいる。


「……んへぇ?」


 古風で情けない声が出た。結衣は自分の頬をにーっと引っ張る。ほどよく伸びて、しっかり痛い。


「本物です。現実です」


 悠がくつくつと笑いながら、結衣の指を頬から剥がす。


 振り向いてみたら、織音と朱莉のそばに樹生と柊吾しゅうごもいる。柊吾に至っては有休を取ってここにいるはずだ。


 結衣はますます混乱して、悠の服を掴んだ。


「な、ん……ぇえ?」

「俺も結衣さんと旅行したいなーと思ったので、各方面にお願いしてみました」


 悠から封筒を渡される。中には、一筆箋が二枚入っていた。


『古澤くんとの一泊旅行を許可する』

『悠くんとのお泊り旅行を認めます。お土産は今年モデルのクッキー缶でよろしく』


 父と母、それぞれから。署名付きで。


「悠くん……もしかして、プリンくれた?」

「あれね。地元でそこそこ有名なお店で、仁科家のおすすめです」


 卒論発表会の日、父の帰りが遅かったのはそういうことか。ぎゅうと唇を引き結んでいると、両腕をそれぞれ朱莉と織音に掴まれた。


「とはいえ! こざーくんに独占はさせませーん!」

「わたしたちにとっても、結衣との大事な旅行なので」

「心得てます。二日間、俺たちはどこへなりともお付き合いしますので」

「いよぉし! ではみんな、全力で遊び尽くすよぉ!」


 織音が元気いっぱいに片手を天に突き上げ、卒業旅行(含・有給休暇一名)が始まった。

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