降って降られた恋の先(前編)
猫飼いが愛猫を
結衣もまた、トイレの個室に閉じこもったまま、クマ飼いとして感情を仄暗くした。
「おそろいのクマって。小学生並み」
この癒しを世界は知らなさすぎる。讃えよバースデイ・ベア。
「いまだに指輪なしとかさぁ。
「相手が古澤くんなら遊びでも歓迎しちゃーぅ」
「だいたい、本気なら同棲ぐらいするでしょ。五年て!」
「手繋いでるのも見たことないよぉ」
「ままごとじゃーん」
最後に大笑いをタイル壁に跳ね回らせて、彼女らは賑やかに去っていった。
四年間、同じ学科で親しくしてきたつもりだったが仕方ない。彼女らとは卒業で縁を切ろう。そう決めながら、結衣はゆっくりとドアを開ける。
腹立たしさで水しぶきを跳ねさせながら、ざざざと手を洗う。鏡に映る自分の顔は般若のそれである。
「そんな人じゃ、ない」
結衣自身に欠けがあるならば耳も貸そう。悔しいのは悠を軽んじられたことだ。彼が遊びで交際するような人だなんて、どこに目を付けているのか。顔か。顔しかない。顔に付いているのに見えていないなら、いますぐ眼科をおすすめしたい。
こういうとき、
鏡を見ながら、卒業式のために伸ばしている髪を雑になでつける。本日は襟足がご機嫌に跳ねすぎて、これまたモヤモヤする。
卒論発表会が先ほど終わり、これで大学課程の全てを修めた。残るは三月の学位授与式のみで、実質学生最後の春休み。開放感たっぷりに今日を終えるはずだったのに、残念なオマケがついてしまった。
荒れた心に潤いを注ぎたくとも、今日は悠に会えない。卒論発表会は学科ごとに日が異なり、悠の機械科はすでに発表日を終えている。
それに、この二月は。悠と会うのを二回と定めている。新生活のための訓練だ。
四月から二年間、遠距離恋愛になる。二年という数字は確約ではなく、延びる可能性もある。悠は富山の社員寮に入ることになっていて、距離と費用を考えると頻繁に顔を合わせるのは難しい。
高校二年の冬から五年以上。結衣は望めばいつだって悠に会えた。そんな恵まれた絶景の山頂からいきなり、年に数回会えるかどうかの地底世界に突入する。ジェットコースターとしてはかなり攻めた高低差。
先にコースがわかっているなら、戦いようがある。いま、心に余裕のあるうちに、ふたりでコースターの楽しみかたを覚えようとしている。
悪いことばかりではない。会えないかわりにビデオ通話を増やしてみた。五年間ほとんど使わなかった機能で、なかなか新鮮だったりする。
家に帰ると、リビングで
「なぁに、結衣。失敗でもしたの? 別に卒業に響くわけじゃないんでしょ?」
「終わって気が抜けただけ」
「そう。ま、お疲れ様でした。プリン食べる?」
「食べるー」
実咲が冷蔵庫からプリンを出して、結衣のそばに置いてくれる。啓史の前にもひとつ。三連パックの定番焼きプリンかと思えば、見知らぬ洋菓子店のものだ。くるんと絞った生クリームとイチゴが乗って、ミントの葉まで添えられた贅沢仕様である。
「まぁ! 私へのねぎらいですか、お母様っ」
「残念、母の思いやりではありません。午前中ねー、お客様が来てたの。で、いただきもの」
「それはそれは。では、心していただきます」
実咲は結衣の正面に座る。組んだ両手にあごを乗せ、やたらと嬉しそうにしている。そんなに美味しいのかと、結衣は張り切ってプリンをひと掬いする。となりの啓史とほぼ同時にスプーンをくわえた。
「うわ、旨っ!」
「美味しい! どこのお店だろ。行ってみたい」
「えー、待ってね。ちゃんと教えてもらったから」
実咲が店のホームページをスマホに表示する。結衣は画面をスワイプして、最下部の住所を確かめた。
「へぇ、
悠と
「ところでね、結衣。今日、卒論お疲れ会でどこか食べに行こうって言ってたけど。あれ、延期で」
「お父さん、今日遅いの?」
「急用なんですって。年度末が近くなるといろいろね」
「……仕事ってやっぱり大変だねぇ」
ぽつんと
「姉ちゃんさぁ」
「なーにぃー」
「いや。あいかわらず抱え癖、治ってないなーと思って」
「悪口かな?」
「いや、呆れ口」
なんだそれと笑って、最後のひと口をうむうむと味わった。
* * *
二月十四日。
今月の悠チケット、一枚目を切る。
紙製のマフィンカップで焼き上げたガトーショコラがお土産だ。
古澤家にお邪魔して、まず驚いた。
「祭壇が撤収されている!」
「だからっ! 祭壇じゃなくて想い出コーナー!」
悠の部屋のカラーボックス上段に設けてあった、ライトアップもできてしまう例のアレだ。ふたりで撮った写真を結衣が勝手に追加したりして、ずいぶん祭壇らしさが薄まってきたところだった。その一段がすっかり空になっている。
「向こうに移設するつもり」
悠は部屋の隅に積んだダンボールを指す。
「寮だよね?」
「寮って言っても、普通のアパートのワンルームだから。自分だけの城なら、いまより飾り放題!」
「……増やしちゃだめだよ?」
「…………善処、します」
不自然な間が恐ろしい。富山に祭壇ができる日も遠くない。
飾る場所がなくなったからか、今回の悠は早速ガトーショコラに手を付けてくれる。
「美味し! 結衣さん、ますますレベル上がってない?」
「
親友を誇って胸を張ると、唇にとんっと指が当たってきた。ガトーショコラをひと口分フォークで掬って、悠が微笑む。
「一緒に食べて」
こういう罪なことを自然体でやるのが悠だ。結衣は頬を熱しながらお裾分けをいただく。
「ん! やっぱり織音ちゃんのレシピにハズレなしっ」
「そうだ、三原さんといえば。あれ、聞いた?」
「聞いた! すごいね!」
三月中に同棲を始める織音と
「一時間ぐらいで行けるようになるかなぁ」
「嬉しい?」
「うん。これなら春からもあ――」
安心、と言いかけて、結衣は咄嗟に回線を切り替えた。
「遊びに行けると思って」
悠が瞬き二回で苦笑してうなずく。
「俺も、三原さんが近くにきてくれるなら安心」
全然誤魔化せていない。どうしても取り繕えず、悠のお腹に腕を回してくっつく。
「ごめーん。いまのは失敗!」
「無理して明るく保たなくて良いからね?」
「違う違う。心配じゃないんだよ。新生活への緊張です」
悠は結衣を剥がし、向かい合わせになるよう座り直した。ふにふにと頬をほぐされて、結衣の心は温かさに溶ける。
「ね、結衣さん。三月はもう少し会う時間取らない?」
「んー。悠くんが準備で忙しいのにって気になっちゃいそうで」
「そっか……でも、ビデオ通話はいいよね?」
「もちろん!」
「俺、完全にはまっちゃった。結衣さんのお風呂上がりと部屋着見放題で」
「ぉふっ!?」
ぼんっと顔を沸かせたら、悠が声をたてて笑う。からかわれたなと、結衣は悠の膝をぺちぺち叩く。悠は「ごめんごめんっ」と笑いを落ち着かせ、目を細めながら結衣の髪に触れてきた。まだ鎖骨に到達しない髪を、今日はあえて外跳ねにセットして誤魔化してみた。
「付き合い始めより長い?」
「新記録です。徳を総動員して頑張ってます。言うこと聞かないから毎日大変」
「跳ねてても可愛いのに」
「それは悠くんの贔屓目だと思いまーす」
笑って受け流すと、悠が残念そうに眉を下げる。あいかわらず隙あらば褒めてくる彼氏だ。そのオーバーな褒め言葉で、結衣はいつも自信を補給してきた。彼に甘えすぎていたかもしれないと、自分の膝に置いた手をきゅっと握り込む。
次の悠チケットは月末の土曜日に。今度はどこかに遊びに行こうかと話しながら、中尾寺の駅までのんびり歩く。
「悠くん。手、繋いでいいですか」
悠の地元なら同級生に会うこともあるだろうと、古澤家を訪れるときは非接触を貫いてきた。それをいまさらになって結衣から破ってみる。
軽く目を伏せ、片手を差し出す。すると、悠は結衣の手を強く握ってきた。そこから指を組み合う恋人繋ぎに変えて、お互いの手のひらをぴたりと密着させる。
「いつでも大歓迎」
「良かった」
「ほかにもやりたいことは言って。遠慮しないで」
「言ってるよ?」
「そう? もっと聞きたいけどなぁ」
そう言われても、すぐに思いつくようなことはない。ただ悠の優しさが嬉しくて、結衣の顔は自然と緩む。
悠は虚を突かれたような顔をして、目を泳がせながら首のあたりにぺしんと手を添えた。
「くれぐれも。そういう顔は、俺の前だけにしようね」
「そういうって……どういう顔?」
何かおかしいかと追求するも、いやいやと回避される。心配だなぁという彼のつぶやきに首を傾げているうちに、駅が見えてきてしまった。
中尾寺の改札前で、まだ手を繋いだまま。電車がくる直前まで話し込む。
「月末行きたいとこ考えといて。俺も考える」
「うん。あ、その前に旅行があってね。火、水と電話できないと思う」
「ん。了解」
電車が近づく構内アナウンスに手を離す。それじゃと笑ったら、ひたいに軽いキスが降ってきた。
「はっ、る……くん。ここ、外」
「一瞬だから誰も見てません。バレンタイン、ありがとう」
「はひぃ……」
感触の残るひたいを押さえつつ、わたわたと改札を抜ける。
会う機会が減ると逆に接触が増えるのだろうか。
遠恋リハーサルは、なかなか心臓に悪い。
* * *
今年の寒さはまだ厳しく、けれど空は抜けるように青く。
織音がそんな青空めがけて、寒気を蹴散らすように高らかに
「二月だね、ああ二月だね、旅行だよーっ!」
二年前に
「織音ちゃん、何から何まで手配ありがとう!」
「お任せあれ。あたしがキャンセルさせちゃったんだから、当然あたしプロデュースだっ」
「夏じゃなくて正解。さすが織音」
「もっと褒めてっ! 今回の織音サマはひと味もふた味も百味も違う!」
そう。前回の計画とはずいぶん違うリッチな旅をご用意されている。
三人とも、手荷物は小ぶりな鞄ひとつ。両手は空っぽにできる身軽さ。一泊旅行の大荷物は事前にホテルに配送済み。そのホテルは温泉付きで、夕食は豪華な部屋食。さらに、童話の国への通行券は、アトラクションの優先チケットが三枚もついた『なかなかマッスルパス』ときた。
「あのぅ、織音ちゃん。やっぱり金額間違えてない?」
「どう考えても計算が合わないわよ?」
「んふふふ。実は今回、強大なスポンサーがいるのさ」
織音がさっとスマホを取り出して、LINeトーク画面を開く。
【 俊也 >> 弟が大変お世話になりました 】
【 都美 >> 高砂家一同、ささやかながら卒業旅行を盛り上げさせていただきます 】
あの夏、俊也は結衣たちにまで何度も礼を言って、いつか埋め合わせさせて欲しいと話していた。そのいつかがここに全力投入されたらしい。
織音がぐっと右手の親指を立てる。直後、彼女の左手に握られたスマホが震えた。
「おっ……では、そろそろ今日のサプライズぅ!」
そろそろも何も、まだ入園したばかりなのだが。
なぜか朱莉がうなずいて、結衣の背後に回る。間髪入れず、両手でぱふりとこちらのまぶたを覆ってきた。
「え、朱莉!?」
「織音、カウントダウンお願い」
「いくよぉー……さん、にぃ、いーち……どうぞ!」
ぱっと両手の覆いが離れ、結衣はたたっと瞬きを繰り返す。
どういうわけか。
目の前に、悠がいる。
「……んへぇ?」
古風で情けない声が出た。結衣は自分の頬をにーっと引っ張る。ほどよく伸びて、しっかり痛い。
「本物です。現実です」
悠がくつくつと笑いながら、結衣の指を頬から剥がす。
振り向いてみたら、織音と朱莉のそばに樹生と
結衣はますます混乱して、悠の服を掴んだ。
「な、ん……ぇえ?」
「俺も結衣さんと旅行したいなーと思ったので、各方面にお願いしてみました」
悠から封筒を渡される。中には、一筆箋が二枚入っていた。
『古澤くんとの一泊旅行を許可する』
『悠くんとのお泊り旅行を認めます。お土産は今年モデルのクッキー缶でよろしく』
父と母、それぞれから。署名付きで。
「悠くん……もしかして、プリンくれた?」
「あれね。地元でそこそこ有名なお店で、仁科家のおすすめです」
卒論発表会の日、父の帰りが遅かったのはそういうことか。ぎゅうと唇を引き結んでいると、両腕をそれぞれ朱莉と織音に掴まれた。
「とはいえ! こざーくんに独占はさせませーん!」
「わたしたちにとっても、結衣との大事な旅行なので」
「心得てます。二日間、俺たちはどこへなりともお付き合いしますので」
「いよぉし! ではみんな、全力で遊び尽くすよぉ!」
織音が元気いっぱいに片手を天に突き上げ、卒業旅行(含・有給休暇一名)が始まった。
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