積もり積もった恋の先(前編)
「やっぱり女の子は良いわぁ。朱莉ちゃん、おばさんとも写真撮って」
「もちろんです。でも、着付けがあるから悠よりかなり早く出ますよ?」
「あ、いいのいいの。もう男連中のスーツなんて見飽きちゃった」
古澤家の母、
「
「あ。
一生一度の晴れ着で登坂したくない乙女心は、金の力で解決する。
芙由子は「駅前かー」とつぶやき、朱莉の母、
「ともちゃん……やっぱり、学位授与式の看板がいい」
「そうよねぇ。最後だし、やっぱり行っちゃう?」
「ねぇ!」
となると、正門前で母たちが出迎えてくれるパターンだ。悠のため息が聞こえそうだと、朱莉はこっそり苦笑した。
「そういえば、
「どうせ有給取ってくるって。朱莉ちゃんの袴姿見逃すなんて、あの子が耐えられるわけないない」
芙由子があっさり言うものだから、朱莉は紅茶を喉に引っ掛けてしまった。そんな話はまったく聞かされていない。
「柊ちゃん、年度末で忙しいんじゃないですか?」
「気にしないで。私が言うのもなんだけれど、反面教師ってやつ。柊吾に限って、大事なイベントを仕事で駄目にはしないから」
ここは笑うべきところか。朱莉が反応に詰まると、芙由子はふふっと微笑んだ。
「社会も変わってきたことだし。柊吾はワーク・ライフ・バランス最優先で就活粘ってたしね。あの子見てたら、ほんと、旦那も私も今さら反省ばっかり。実家に寄り付かなくなっちゃうのも無理ないわ」
夏が終わる頃、
柊吾と両親、とくに父、
朱莉を救い導いてくれた大切な人の両親なのに、橋渡しひとつできないのが歯がゆい。柊吾を頼れる兄に育てたのは、やはり古澤夫妻だ。わだかまりはあれど、柊吾が両親に深く感謝していることも朱莉は知っている。
大学二年の夏に、
子を養う意志のある親が、当たり前の存在ではないのだと気づかされた。中学三年の、あの秋の終わり。朱莉も、悠も柊吾も、決して孤独ではなかった。
「たまには家に顔出したらって、今度伝えときます」
「いいのよ、そんなの。朱莉ちゃんが気にかけてくれれば、柊吾は大丈夫だもの。それに……この間怒らせちゃったばかりだしね」
「え!? 何か、あったんですか」
「う……その。もう就職して丸二年になるじゃない? そろそろ先のこと、考えてもいいんじゃないのーなんて」
マグカップをつるんと落としかけて、朱莉はあわあわと落ち着きなく両手で救助した。友恵はとなりで苦笑して、芙由子に向けた右手をぴっぴと動かした。
「駄目駄目、ふゆちゃん。柊くんにもいろいろ考えがあるんだから」
「ほんとよね。母さんは考えてなさすぎるーって、みっちり叱られちゃった」
その話は朱莉が聞いていいものではないだろう。まだ少し紅茶の残るマグカップを手に、朱莉はそそくさと二階に退避する。
けれど、退避は間に合わず。「そんなつもりで付き合ってるんじゃない、とか言うのよ!」なんて。心臓に悪い言葉がリビングから飛んできて、階段を踏み外しそうになる。
就職前は、よく先の約束をほのめかしていたのに。実家を出た頃から、柊吾は将来の話を口にしなくなった。
* * *
二月の第三土曜日。
『そんなつもりで付き合ってるんじゃない』を胸につかえさせたまま、柊吾に会いに行く。
電車は終点で一度乗り換え、さらにふた駅。
改札前にはすでに柊吾が到着していて、こちらに気付くなり、ぱぱぱと手を振ってきた。改札を通り抜けた朱莉の手を握り、その手を自身の胸に当てて、ふーっと息をつく。
「やっと充電だ」
「出張お疲れ様でした」
「ごめんな、誕生日過ぎちゃって」
「そんなの気にしてない。忙しいのにありがとう」
朱莉の誕生日は平日で、直前の週末を一緒に過ごすはずだった。けれど急遽、柊吾が代打で出張に出ることになって、約束は一週間後ろ倒しになっての今日だ。
「月末の旅行は絶対行けるようにしたから。ね!」
「ちゃんと休めてる?」
「いまこの瞬間、最高に羽伸ばしてるー。次元の壁も越えて行けそう」
「越えないで。三次元もなかなか良いところよ」
「知ってる。朱莉に会えるのは三次元だけ」
繋いだ手は柊吾のポケットに招かれる。その中で指同士が絡まった。
「外食じゃなくてほんとに良いの?」
「良いの。
「次の部屋はキッチン広めにするってこだわってるらしいね、ふたり」
「俊也さん情報?」
「そう。さくっと見つかりそうだって。不動産関係に
羨ましそうに言う柊吾は、かなり持て余し気味な2LDKに住んでいる。家賃は優しいとはいえない額で。駅近の単身物件は学生が多くて避けたのだとか、築年数やセキュリティがどうとか、色々と彼なりにふるいにかけた理由はあるらしい。
俊也に相談してみても良かったんじゃないか。朱莉が言うと、柊吾は「最初ぐらいは自力で」と苦笑する。元『隣家の頼れるお兄さん』は、人に頼るのが不得手だ。
リビングのローテーブルには、ノートパソコンがスタンバイしていた。
「仕事してたの?」
「私用。仕事は絶対に持ち帰りません」
目の前に紅茶の入ったマグカップが置かれる。朱莉用にと、柊吾が買ってくれたものだ。
柊吾は自分のマグをテーブルに置き、朱莉のとなりであぐらをかく。
「今日ね、しっかり相談したいことがあって。その準備してた」
相談という活字がブロック化して降ってくる図を幻視した。
タイミングがすこぶる悪い。芙由子の世間話を聞かなければ、なんだろうと首を傾げる程度のものだったはずが。
「あ、あれ? 朱莉、凍ってる?」
「んー……んー……」
顔のパーツを全て中心に集める気分で唸る。ぐるぐると小人の自分が脳内を三周したあたりで、柊吾の左手をぐっと掴んだ。
「柊吾さん!」
「は、はいっ、こちら柊吾です! え、どうしたの!?」
ひとりで悪い方向に考えない。受け身にならない。これまでの学びを胸中で唱えて、良しとうなずく。
「先に『そんなつもりで付き合っていない』についての解説をお願いしていいでしょうか」
「……なに、それ」
「おばさんと、ケンカしたんでしょう?」
「……ぁ……あ!? それ
柊吾は目を閉じ天井を仰ぐ。ぶつぶつと芙由子への文句を
「何をどこまで聞いてる?」
「ほぼ、そのひと言だけ。あとは怖くて逃げちゃった……半端に聞きかじってごめんなさい」
「むしろ助かる。俺から話す前に暴露されるとか洒落にならない」
柊吾はノートパソコンを手前に引き寄せて、スリープを解除する。数字の並んだ表が画面に映ると、マウスのカーソルを横長な表の端っこに移動させた。
「自分が年取っていくのが可視化されてちょっと傷つくね」
苦笑混じりに言われてやっと、並んだ数字が意味するものに気づく。西暦年とお互いの年齢が、半年刻みで表になっているのだ。
「開発職はほぼ異動のない会社なんだけど。あと三年ぐらいしたら、一年縛りの出向はあるかもしれない」
カーソルが動いて、カチンと別表に飛ぶ。柊吾の予想貯蓄額やら、賃貸の場合、持ち家の場合の試算。進学先に応じた教育費相場まで書いてある。
「朱莉が就職して、せめて一年。よく聞くのは三年ぐらい……でも、その時期だと俺がこっちにいる保証ができなくて。タイミングが難しくてさ。考えれば考えるほど迷走してきた」
頭の後ろで両手を組んだ柊吾は、眉間に軽くシワを寄せる。
「なのに、勢いでいいんだとか母さんが言うから。そんな雑に突っ走れるような軽い気持ちで付き合ってないって、電話口でプツンとね」
柊吾を怒らせて落ち込んだ芙由子が悠に泣きつき、悠が心配して柊吾を訪ねてくるという
自分にも余裕がなかったとか。芙由子の言うことにも一理あるとか。いつを選んでもデメリットは必ずあるとか。柊吾が反省をつらつらと並べる。
「七年前ってさ。俺が一方的に朱莉のこと突き放したじゃない? 悠と話してて、またひとりで勝手に最善を決めようとしてるなって気づいた。だから、朱莉と相談しようって」
柊吾からマウスを借りて、表を行き来する。いつか家族になりたいと言った柊吾は、その言葉通りに、家族になる未来をここに描いている。
「これ、最近作ったの?」
「作ったのは年明け。卒業頃から頭の中にはあった」
マウスを持つ朱莉の手に、柊吾の手が重なる。
「こんなつもり。重すぎて引かせちゃってたらごめん。そのときは忘れて」
柊吾はこういうところがよくない。好意を持っているのが自分だけかのような言い回しをすることがある。こんな大きな気持ちを見せつけておいて、忘れてくれなどと。
「柊ちゃんて、たまにひどい」
軽く視界を滲ませ、鼻をすんっと鳴らしてつぶやく。柊吾が慌てた様子で箱ティッシュを寄越した。
「だよね! まだ卒業もしてないのに早すぎたね! 今すぐ考えろって言うつもりじゃなくて、前にも言ったとおり俺は何の約束もいらないし」
「そういうことじゃないのよ!」
「あ! そもそも主婦職志望かもってこともちゃんと頭にある。学費試算も一応書いてるだけ。妊娠出産はどうしたって代われないから、朱莉のほうが負担大きいし。そこは朱莉の希望を最優先に」
「もぉぉ! そうじゃないんだってば!」
「ぃぃいひゃいっ!
んぎーっと柊吾の両頬を引っ張ったら、ギブギブと太ももをタップされた。ぱっと両手を離し、朱莉は座卓にひたいをごんっと落とした。
「朱莉ぃ……ほんとに、プレッシャーかけたいんじゃなくて」
「かけてよ」
「え?」
「柊ちゃん、全然わかってない」
顔を伏せたまま、朱莉は手探りで柊吾の袖を掴んだ。
「また、自分ばっかり欲しがってるって思ってるでしょ。柊ちゃんはずっとそう」
「それは……そうでしょ。俺、重たいってちゃんと自覚してるよ?」
あっさり肯定されたものだから、ついでに指二本で腕をつねってみる。
「いだっ! 朱莉ちゃぁん、何でそんな怒ってるのぉ」
「笑えばいいわ」
「何をぉ?」
ガバっと顔を上げ、朱莉はやけくそで叫んだ。
「入社直後に結婚しても差し障りないかなんて、最終面接で訊いた学生はわたしぐらいでしょうよ!」
「……はい?」
顔面が急速に熱くなっていく。両手で柊吾の顔を覆い隠し、朱莉は羞恥に耐えて続けた。
「だって。柊ちゃんが何年待ってくれたか知ってるのに。どんなに気持ちがあっても、タイミングが合わなくて駄目になることってあるもの。だったら、人生設計を柔軟に受け止めてくれる会社を探そうって」
「……就活、それで時間かけてた?」
「各地で重役を
「で、決まった会社は?」
「自分の部下も入社二ヶ月で挙式したからご安心くださいって言われた」
「前例!」
柊吾に両手を掴まれる。朱莉の作った即席の覆いをぐぅっとこじ開けた彼は、えくぼを浮かべて破顔した。
「あは、真っ赤だ」
「うぅ」
下唇をきゅっと噛んだら、柊吾の親指に「噛まない」と引っ張られる。
「不安にさせてた? 急に家出ちゃったもんね」
「違う。柊ちゃんが、将来の話しなくなったから」
「あー、大学の頃は能天気だった。働き出してあれこれ考えたら、軽はずみに言えなくなってさ」
その気持ちならわかると、大きく首肯した。考えれば考えるほど悩んだのは、朱莉も同じだ。
「何をするにも、お金かかる。わたしの仕事がちゃんと続くかもまだわからないのに。一年とか三年ってなるのも当然……ごめんなさい、わたしこそ甘いこと言ってる。一度忘れて」
「そこは、二年先行してる俺を頼ってくれていいんだよ?」
「柊ちゃんの負担になるのは嫌」
「言うと思った! でももう遅いっ。朱莉の本音、聞いちゃった!」
柊吾は笑って朱莉を腕に閉じ込めた。慣れ親しんだ彼の香りに包まれて、全身の力が抜けていく。負担になりたくないと言いながら、朱莉は彼の胸に体を預ける。
「今日はふたり暮らしの相談だけって思ってたけど。朱莉もそのつもりなら、ブレーキかけない」
「でも……柊ちゃん引っ越したばかりなのに。また敷金とか、かかるじゃない」
「かからない。もう払ってる」
「うん?」
「駅から徒歩十分、オートロックエントランス有りの2LDKなんだけど。お安いとは言い難いから、すこーし家賃援助してくれると助かるなぁ」
ひとり暮らしには過剰な広さのリビングで、柊吾は勝ち誇るように口端をにゅっと上げた。そういえば、彼がひとり暮らしを始めたのは朱莉が内々定をもらった後だ。柊吾の通勤時間を考えると、もっと近い物件があるだろうにと思ったものだった。
「そういえば。内見、一緒に行ったものね」
「悠に怒られた。そこまでして、何で朱莉と相談してないんだって。本当にそう。反省してます」
「わたしも鈍すぎて、いま自分にびっくりしてるところ……」
柊吾がほっとした様子でうなずいた。変化が目の前に迫ってくる。
ここできっと、自分たちの形は大きく変わる。
それは、朱莉にとってもずっと願ってきたことで。
けれど――。
「朱莉、俺と――」
「待って!」
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