落ちて落とした恋の先(後編)

 一瞬、火がついたかと思った。


「っ、ぁ……」


 点火した感情そのままに、全てを破裂させそうになった。けれど、再度様子を確かめにきた職員の姿が目に入って、織音は喉を叩く熱気を思い切り飲み込む。


 ここで短気を起こし、職員に咎められたら。もし内定に影響が出るような事態に拗れたら。


 自分は構わない。それで就職が駄目になっても、仕方ないと笑っていられる。

 だけど、樹生は。きっと――。


 ぎちりと奥歯を噛み締めた。急げ、急げと、当たり障りのない言葉を頭から引っ張り出して口へ送り込む。


「……ありがとう、ございます。頑張ります」


 定型文みたいな礼を述べて、織音は教室を出る。胸元をきつく押さえ、じりじりと加速する。


 両立したと言った。当然だ。相手は人気講師。質問してきた学生相手に、両立できなかったなんて言うはずがない。あれは、模範解答のようなものだ。

 

 そうやってなだめても、織音の内側はふつふつと沸き続ける。

 彼女の目は、嘘なんかひとつもないように澄んでいた。自分の歩んできた道を誇っているような顔だった。


 使えるものすら使わず、何の手段も取らなかった人が。学生の憧れる女性像として教壇に立つ。真実を知らなければ、彼女はキャリア形成と母親業を立派にこなした成功者だ。




 校舎を出たら、もう学生の姿はほとんどなかった。

 正門への道を大股で歩く。耳の奥が痛い。喉も感情に締め付けられて苦しい。それ以上に心臓が熱い。きつく歯を食いしばって、正門までたどり着く。


 そうしたら、樹生が立っていた。コートのポケットに片手を突っ込んで、涼しい顔で、織音を見つけて「よっ」と手を上げる。


「なんで?」

「ここんとこソワソワしとったし、帰り、遅なるとか言うし。今日、なんかあるんやろなぁて。まさか講演会とはなぁ」


 もう陽が落ちようという中、からっからと、晴れた空みたいに樹生が笑う。

 織音は唇を噛んで鞄の紐を握りしめた。うつむいたまま早足で正門を出て、樹生の前まで進む。こつんと、つま先同士を軽くぶつけた。


「ごめん。勝手した」


 上手くやれなかったとか、たくさん失敗したとか。

 何かひとつでも彼女の後悔を見たかった、なんて。そんなもの、誰の慰めにもならないのに。


「なんで謝っとんの。ありがとぉな」


 樹生がほらと手を差し伸べてくる。

 けれど、ヘーゼルの視線は織音の顔を逸れて、校舎のほうへ向かう。織音がハッとして振り向いたら、そこには土田沙綾の姿があった。


 樹生が目を伏せ、会釈する。沙綾はそんな樹生を見て、それから織音を見て、上品な笑みで会釈を返してきた。


 歩くリズムを欠片も乱さす。表情も崩さずに。立ち尽くす織音を追い越して、彼女は自身の道を歩いていく。

 振り向くことはない。ピンと伸びた背中がゆっくりと遠ざかる。


 ふいに、織音の手に樹生の指が触れた。ハの字に下がった眉で、樹生が穏やかに笑う。いつもなら繋いでいいかと許可を取る彼が、断りなく、人差し指一本だけを織音の指に絡めてきた。


 ――無理だ。


 指一本が、織音の我慢を断ち切る。寂しいという言葉を捨ててしまった笑みは、声を張り上げる理由として充分すぎる。


「あたしの彼氏っ、すごいから!」

「ほん!?」


 唐突な発声に樹生がぎょっとして、さすがに沙綾も足を止めた。背中を向けたままだが、視線ひとつがこちらを確かめてくる。横顔が樹生に似ている。それが、あまりに悔しい。


 確かに、沙綾は子育てに成功したのかもしれない。織音に繋がった指一本の持ち主は、最強の彼氏で、出来過ぎ魔神で、織音が世界でいちばん自慢したい人だ。


 沙綾自身は、何ひとつ貢献しなかったのに。


「全国模試、ふた桁に入ってた。本、一回読んだら全部覚えんの。予備校いかずに公立大学一発合格で、すっごい器用で、ヘアアレンジ上手くて!」

「織音」


 くいっと腕を引っ張る樹生に抵抗しながら、言葉を投げ続ける。織音の思考全てを使って、目の前の理不尽に殴りかかる。


「料理もできて、部屋も綺麗で、周りのことよく見てて、あたしが苦しいときはいつも助けてくれて」

「織音。ええって」


 沙綾は織音を見極めるようにしていたが、やがて、聞く価値がないとでもいうように視線を外した。


「なのに自分は苦しいって言わないの。言えなくしたんだよ、岡嶋さんが!」


 去っていく背中に、勝ち誇った笑みを向ける。

 惜しいことをしたと、今夜後悔で眠れなくなればいい。こんな素敵な青年を、息子だと誇る権利を手放したのだと。両手から零れ落ちたものに気付いて、頭を抱えてやけ酒でも飲めばいい。


「だからあたしが言わせる。あたしが幸せにする。岡嶋さんの何倍も、何十倍も、樹生はあたしのとなりで幸せになるって決まってんの!」

「もうええんや!」


 樹生に強く肩を引かれて、織音はぶんっと頭を振った。


「ええことない! まだ降参って言わせてない!」

「いや、もうオレが降参」


 織音の両肩に手を置いて、樹生は大きなため息をつく。ハの字眉はいつもより寄り気味で、眩しいものでも見るように目を細める。心なしか、顔が赤い。


「突然の褒め殺しとか、ずるいて。何回オレを落とす気ぃなん」

「……何回、でも。落とすって言った」

「有言実行やなぁ、オレの彼女は」


 沙綾の姿はもう遠くて。代わりに織音の視界は樹生だけになって。その樹生の顔が、ぼやけて上手く見えなくなる。


「あれ、他人やから。もうオレとは関係ない。そんな人に泣かされんの、もったいないやろ」


 樹生は織音の手にタオルハンカチをねじ込み、言い聞かせるように「な?」と顔をのぞいてくる。


「……絶対、可愛かったもん」

「ほん? なにが?」

「ちっちゃい頃の、樹生も。可愛かったに決まってる」


 ぷひゃっと吹き出した樹生は、織音の手もろともタオルハンカチを目元に押し上げてきた。


「五歳頃までの写真は高砂の家にあるはずやで。親父と月イチで会えとったから、そん時のやつ。あとは卒アルぐらいやけど」

「パパさんなら額に入れてそう」

「可能性はある。つぎ、向瀬行ったら聞いてみましょかね」


 ふにふにと涙を拭われながらうなずいた。


「まぁ、二十二歳のオレでは可愛さがないわなぁ」

「ばかぁ。世界一可愛いに決まってんでしょぉ」

「マジか……オレそんな可愛いん?」


 両手を頬に当て小首を傾げてみせる二十二歳男子は、織音の贔屓目ひいきめにより宇宙一可愛くなる。


 涙は勝手に止まるまで流し尽くすべしというのが、樹生の持論だ。そんな彼がおふざけで涙を止めようとしてくる。沙綾のことで織音が泣くのが、どうしても嫌なのだろうとわかる。


 落ち着いてきたところで残りの涙を無理やり飲んで、タオルハンカチをぎゅっと両目に押し当てる。すっきりとした目で見たらもう辺りは薄暗くなっていて、織音は一月の寒気に冷やされた樹生の手を握った。


「樹生、早く家に帰ろ。梅じゃこ作って食べよ」


 なぜか一瞬、樹生が目を見開く。すふっと吸い込んだ息を止めて、やや間を置いてからゆっくり吐いて肩を下ろした。

 そして、表情を思いきり柔らかくして、樹生はうなずく。


「せやな。一緒に……家、帰って。飯食お」

「うんうん。ブリ大根作っといたから、それと、あとはー……」


 軽く繋いだ手を、指をしっかり絡めた貝殻つなぎに変え。ゆっくりと、同じ歩幅で歩き出した。



 * * *



 うたた寝から覚めると、日付が変わったばかりだった。また先に寝落ちてしまったと、一度ベッドに顔を埋める。となりに座る樹生の手櫛が、織音の髪を軽く整えた。


「……また寝顔観察されたぁ」

「許して。オレの癒し時間」


 夜を苦手とする樹生が常夜灯も音楽も消してこの時間帯を過ごすのは、織音がそばにいるときだけだ。アパートの裏手に街灯があって、灯りを消した樹生の部屋にはぼんやりとした光が届く。その中で織音の寝顔を見るのが至福だなんて言われたときは、カフェオレで盛大にむせたものである。


 織音はころんとうつ伏せになって頬杖をつく。樹生がうんと伸びをしたら、ラフな部屋着の裾が浮いて引き締まった腹部が見えた。へそから手のひらひとつ分ほど右に、まん丸い火傷痕がふたつ並ぶ。織音はその痕に、そっと指で触れる。

 くすぐったそうに軽く身をよじってから、樹生は織音の指を握った。


「あの人の作品やないで?」

「うん、前にも聞いた」

「暴力振るうほどの関心もなかったんやろうけど。そこは感謝しとる」

「感謝っ!?」


 予想外の言葉に、夜中だというのに織音は声をひっくり返してしまった。


「あくまでもオレが会った中でやけど。殴られて育ったヤツて、相手のこと殴るまでのハードルが低めやった。こいうこともな、躊躇なくやりよる」


 樹生は脇腹に軽く手を当てて苦笑する。変色してぷくりと盛り上がった丸い形。煙草でつけられたこの痕ふたつが、見知らぬ人たちと路地裏や公園で夜を過ごすための許可証だったという。


「そういう経験がなかったから、オレはどんだけ荒れても殴り合いと無縁やったし」

「樹生の性格がそうってだけだと思う……」

「まぁ、実際の影響はわからんけど。産みの親にマイナス感情しか持てへんのも疲れるから。こじつけでもなんでも、一個ぐらい感謝しといたほうが気ぃ楽なんや。伊澄さん直伝」


 こういうときの樹生はあっけらかんと笑って、ヘーゼルの瞳の奥深くだけで泣いているように見える。

 織音は布団から這い出し、樹生の前に座って背中を預けた。樹生の腕が肩に乗り、織音のお腹あたりで両手が組まれる。


「織音にも、優しくできてる?」

「できてるよ。ずーっと優しくしてもらってる」

「ほな、やっぱり感謝しとく」


 冷たい指が織音の髪を通る。簡単に三つ編みをしてみたり、それをまたほぐしたり、しばらく黙って好きなように遊ぶ。


「親ハズしたけど、オレ、意外と運はええから。前科付くようなことにならんかったし、伊澄さんみたいな人に拾われたし。兄姉きょうだいが迎えにきてくれて。親父も、オレ他人やのにあんな感じで――そんで、織音に会えた」


 髪をいじる手が止まる。かと思ったら、耳を指先でくすぐられた。不意打ちのイタズラにひゃっと肩をすくめたら、ふっと鼻息ひとつで笑われてしまった。


「もー、何すんの」


 織音が耳を押さえながら振り向いたら、そこにいる樹生は笑顔じゃなかった。冬の夜の空気みたいに澄んだ目で、まっすぐ織音を見つめてくる。


「……樹生?」

「これ以上の欲は、贅沢かもしれんけど」


 樹生の片手が、ベッドサイドの壁をコツコツと叩いた。


「最近、この壁が邪魔になってきた」


 驚いて、織音は体ごと回して樹生と向き合った。ついつい前のめりになって、彼の服を掴む。握った手に伝わる鼓動が早くて、彼が緊張しているのだとわかる。


「織音、今日。家に帰ろて、言ぅたやん」

「言ったね」

「家て。ただいまぁて、入るやろ」

「入るね。そんで、おかえりーってお迎えするね」

「オレ……織音に、そう言いたい」

「それ、どこが贅沢?」

 

 うたた寝なんかするんじゃなかったと軽く頭を振る。ひと言たりとも聞き逃すまいと、全神経を叩き起こす。

 意味を取り違えていないか、自信が持てない。余計なプレッシャーにしたくなくて、いっさい考えずにきたことだったから。


「願い事は、声に出して」


 先の自分を描けないと苦しんできた彼が、いま、勇気を振り絞ろうとしている。だったら、織音にできることはひとつだ。


 笑顔で迎える。マロンブラウンの髪をなでて、織音の全部で樹生を包む。ここに彼の願いを聞く者がいるのだと伝える。


「あたしには届くよ。だから、唱えて」


 樹生の手が織音の背中に回る。その手がぎゅっと服を掴んできた。


「新しい部屋、借りて。織音と一緒に住みたい」

「大賛成ーっ!」

「おわっ!」


 思いきり体重をかけたら、樹生は織音もろともベッドに沈んだ。危うくヘッドボードに頭をぶつけるところだ。


 徒歩三秒。壁一枚隔てただけの彼氏。大学の友人たちには、同棲と変わらないじゃないかと笑われた。高校時代から今日までを知らなければ、絶対にわかってもらえない。


 樹生がこの壁一枚を取り払うために、どれだけの葛藤を越えたかなんて。


「すっごい! 嬉しい! あーどうしよ、あたし嬉しすぎて今日徹夜かもしれないっ」

「……て、言いながら。織音はさっさと寝るんや」

「わかるー! あたしはそういうヤツ!」


 樹生の胸に頭を預けたら、まだ早い鼓動が聞こえてくる。


 ずるずると上に移動して、軽く身を起こす。樹生の手が耳あたりまでやってきて、織音を誘う。ひたい同士を当てるいつもの意思確認のあと、織音のほうから軽いキスをひとつ。掠れたささやきが「ありがとう」と耳を撫でるから、少し重さのあるキスもひとつ。


 気を緩めたら眠気がきたのか、樹生はふぁっと飛び出したあくびを噛み潰して苦笑した。


「緊張した。同棲でこれやったら、次は息止まるかもしれん」


 息が止まるのはこちらのほうだ。

 織音は一瞬目を丸くして、けれど樹生に見つからないよう、胸に顔を埋めてこっそりと微笑む。


 一月。俊也の家で聞いた樹生の「ええな」の意味を、どうやら織音は取りこぼしていたらしい。

 あのとき樹生の横顔が見せた羨望は、愛される浩晴だけでなく、その愛情を与える俊也にも向けられていたのか。


 同棲の次なんて、ひとつしかない。

 自分がはっきりと未来を口にしたことに、樹生はまだ無自覚でいる。それを織音から指摘するのは違う。目を逸らせないぐらいに気持ちが育てばきっと、彼の耳は正しく自分の言葉を拾う。そうすれば、自分で一歩踏み出してくれる。そのときを信じて、織音は待つ。


 今日が、そんな大切な前進の一日だったように。

 いつか、必ず。


 ――だって、あたしの彼氏、すごいんだから。


「樹生」

「ん?」

「訂正しまーす。二十二歳の樹生くんは、世界一カッコいい」

「急に何ぶっ込んできたん!?」


 驚かせたり、笑いあったり。両手を繋いで。髪に触れられて、頬に触れて。互いの特別を確かめ合って、キスをいくつか。


 大好きはたくさん。ありがとうは、もっとたくさん。


 何度も立ち止まり、一緒に深呼吸してまた歩き出し。織音は言葉と体の全てで、樹生の背中を押し続ける。



 織音が高砂の希少価値を訴え、樹生は三原の響きの良さを諦められず。

 お互いがお互いの氏を欲しがって、書きかけの届出用紙を挟んでじゃんけん三本勝負に挑むのは――まだ遠いけれど、いつかふたりがたどり着く未来の話。

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