落ちて落とした恋の先(前編)

 大学四年、十二月初め。


「待って、あかんて。壊れる壊れる。兄貴待って、手ぇ離さんとって」

「大丈夫大丈夫。はい、離すよー」

「あかんてぇ……あ、ぁぁぁ。乗った。乗っとる……」


 腕を完全に凍結させて、樹生たつきが小さな命を抱える。俊也としやとその妻、千津花ちづかのもとに産まれた男の子、浩晴こうせいだ。まだ生後二週間弱と落ち着かない時期なのに、どうしてもいま樹生に会わせたいと連絡を寄越した。正月の帰省では遅い、とのこと。


 どう考えても織音おとがいるべき場ではないのだが。千津花から是非にと電話口で直接誘われては、さすがに断れなかった。とはいえ親戚面しんせきづらをするのも躊躇ためらわれる。結果、ただいま織音は少々離れた位置から、赤ん坊を抱いて狼狽える樹生の姿を楽しんでいる。


「お、お義姉ねえさん。助けて」

「待って待って。織音ちゃんと並んで座ってよ。写真撮るから」

「よし、あたしの出番っ!」


 指示を受けて織音が樹生のとなりに座ると、千津花は活き活きとした顔で一眼レフカメラを構える。カメラが趣味で、北の大地に異動する前は、都美みやびのコスプレ会に嬉々として参加していたそうだ。


「あぁ、良い。良いなぁ。でも樹生くんの顔がちょーっとカタいなー。これまででいちばん美しいと思った瞬間の織音ちゃんを思い浮かべてみ?」

「無茶言わんとってください……ありすぎて選べま……せ……」


 樹生が急に言葉を止めた。何事かと思ったら、犯人は浩晴だ。赤ん坊特有のうるうるきらきらとした瞳が、樹生をじっと見上げている。


「ひゃー、かっわいぃねぇ」


 樹生はしばらくおいと目を合わせてから、「可愛いな」と、垂れ気味な目尻をさらに垂れさせた。


「ええ名前もろたなぁ、浩晴」


 シャッターを切る音がいくつも響くが、樹生の意識は浩晴に向かって一直線になったようで。カメラに目もくれず、彼は優しく浩晴に話しかける。


「兄貴に似たらあかんで。お義姉さんに似ぃや」

「こら、和やかな雰囲気出しながら兄を下げない。で、織音ちゃんも抱っこ、どう?」

「え!? あたしも?」


 俊也からの誘いに、織音は千津花の反応を確かめる。千津花はぐっと親指を立てて、早くもカメラをスタンバイしている。


「ふへへ。都美ちゃんが言ってたとおり。織音ちゃん最高に映えるぅ」

「ちづ。ほどほどにしないと織音ちゃんが引く」

「わかってますってー。それより俊也くん、ヘルプ行ってー。樹生くんがテンパってる」


 織音も樹生も、どうやって抱っこリレーすればいいかわからず。不気味な盆踊りを披露していたら、俊也が樹生から浩晴を引き取って、織音の腕の中に連れてきてくれた。


「ひょわぁ……ちっちゃ。柔らかぁ」


 こんな小さな体で、両親を頼りにこの世に出てこようとは。感動する織音の横で、体の自由を取り戻した樹生が浩晴の頬をつつく。


「大福や」

「それな。美味しそうなほっぺだ」


 続いて小さなもみじの手をつついた樹生の指を、浩晴がきゅっと握り込んだ。


「う、あぁぁ」

「しっかり。甥っ子に魂まで吸われそうだよ?」

「もう吸われとる……動けん」


 困り果てたへろへろな声に、織音はふひゃっと吹き出した。


「あっさり叔父おじさん倒しちゃった。こうちゃん、すごいねぇ」

「笑っとらんと助けてやぁ」

「無理だって、あたしも動けないもん。俊也さーん、ヘルプぅ」

「はいはい」


 可笑しそうに肩を震わせていた俊也が、織音から我が子をすくい上げる。腕にかかっていた四キロほどの重みがなくなると、ほっとすると同時にほんのり寂しくなった。


 ベビーベッドに向かう兄をしばらく眺めていた樹生が、ふいに「ええな」とこぼす。となりにいる織音でさえ、拾うのがやっとの声量だ。


「たっつ……いまの」

「ほん? どした?」

「……んや、気のせいだった!」


 きょとんとしたヘーゼルの瞳と、「ん?」と傾げた首。そんな樹生だから、織音は追求をやめる。


 合鍵を渡して、一緒にいる時間が格段に増えてから気づいた。樹生には、自分で声にした言葉がまったく聞こえていないときがある。特に、羨ましいとか、寂しいとか、不安だとか。そういった本音から生まれただろう言葉を、樹生の聴覚は遮断してしまう。

 心を潰すぐらいなら、みんな切り捨てる。幼い彼が生み出したその防御機構を解くには、きっと長い時間がかかる。


 一眼レフを置いた千津花が「コーヒーでもれよっか」と動き出した。産後二週間でこんなに動き回っていいのか。とにかくアクティブな人だ。本人いわく、じっとしていると息が止まるらしい。さながら、イワシ。


 妻を追って動こうとする俊也を手で制し、織音もキッチンに入る。となりに並ぶと、千津花が「きてくれてありがとね」と抑えた声で言う。彼女の視線の先には、ベビーベッドのそばで語らう樹生と俊也がいる。


「樹生くんのときはお義父とうさんがずっと抱っこしてたんだって。そういう光景を見て欲しくて。けど俊也くんが、余計つらくならないかって渋ってねー。だったら織音ちゃんにもきてもらおうかってなったのさ」

「大歓迎です。すっごい癒された。お正月も寄っていい?」

「もちろん! 都美ちゃんたちも来るし、みんなで集まろうよ。その頃にはもっとぷくぷくになってるはずだから、楽しみにしてておくれ」


 そこで、千津花がハッとして動き出す。


「そうだ! 写真は今日持って帰ってもらおう。ちょっと印刷してくる。あ、コーヒーの面倒よろしくぅ」


 そう言って、キッチンカウンターに置いていた一眼レフを手に、リビングを出ていこうとする。本当にじっとしていない人だ。俊也が気付いて、千津花の手から一眼レフを奪った。


「僕がやるから。そろそろ座って」


 俊也の表情が、樹生や織音の前で見せる兄としてのものと違う。呆れ顔の中に、いたわりとか愛おしさみたいなものを同居させている。


 ――夫婦、かぁ。


 親しく、深く、遠慮が抜けたような。恋人とは少し空気感が違って見える。そんなことを考えながらドリップコーヒーのパックにお湯を注いでいたら、「織音ちゃん、ちょっとこっちに来れる?」と俊也の声が飛んできた。注ぎかけのコーヒーを千津花に預け、リビングを出て奥の部屋に向かう。


「俊也さん、呼んだ?」

「選別、手伝ってもらえないかな。ちづが張り切って連写してた」


 パソコン画面いっぱいに、樹生の写真がこれでもかと並んでいる。動画のコマ送りみたいだ。


「たっつ、どれもいい顔してる」

「ね。会わせて良かったみたいで安心した」


 織音が写真をいくつか指差して、俊也が別のフォルダにデータを移す。自分が浩晴を抱っこしている写真になると気恥ずかしくて、薄目で見たりしてみた。


 選び抜いた精鋭たちを、プリンタで写真用紙に印刷する。印刷モードを最高品質に設定したから、一枚一枚に時間がかかる。


「あのさ、織音ちゃん」

「はーい?」

「就職のこと。タツに合わせて我慢してくれたとか、ない?」

「え!? 違うよぉ。あたし、熱いこころざしとか職へのこだわりとか持ってないもん」

「そっか。だったら、良かった」


 写真の選別はおまけで、本題はこちらだったのか。俊也の心配を、織音はからからと笑って跳ね飛ばした。


 織音は精密部品メーカーの事務職で採用された。我慢どころか樹生のおかげだ。ものづくりの会社という世界は、機械工学科の樹生と関わらなければ織音の視野に入らなかった。面白いと思える会社で、少し遠いが現在の住まいから通える。大満足の結果だ。


「心配するなら、たっつのほうだよ。もっと選べたんじゃないのかなぁ」


 出来過ぎ魔神の就活は、織音から見れば光速の域だった。就活スケジュール例の『早ければこのあたりで』の時期に、工作機械メーカーから内々定を貰ってあっさりと終了した。


 そして、涼しい顔で言ったのだ。「オレ、春からもここに住むことになるわ」と。

 それ以上の言葉はなかったけれど。


「おとなりさんの継続を優先しちゃったんじゃないか……とか。あたし、自惚うぬぼれすぎ?」

「いや、間違いなくタツにとっての最優先だよ。僕はそれでいいと思ってる」


 俊也は印刷された写真を一枚手に取った。柔らかに目を細め、その写真を織音に差し出してくる。


「タツはずっと、危ういぐらい無欲で。いつか、ふらっと消えてしまうんじゃないかって、僕はそれが怖くてさ。ひとつでいい。譲れないものを見つけて欲しかった」


 写真の中の樹生が、浩晴を抱く織音を見つめている。俊也が千津花に向ける表情とよく似たものを浮かべて。


「拒絶が怖いから、残って欲しいとか言えなかったんだろうけど。織音ちゃんが引っ越さないって決まって心底ほっとしたと思う。面倒な弟だよ、ほんとに」

「全然。そこも可愛いとこだし」


 印刷の終わった写真をまとめて受け取り、織音はむふっと笑みを浮かべた。


「いつか、そういうおねだりも言えるようになるよ。というか、する。たっつの心を全裸にするのがあたしの目標」

「全裸……」


 一拍おいて吹き出した俊也を残し、織音は先にリビングに戻る。


 樹生はまだベビーベッドのそばにいた。近づいてみたら、浩晴はすっかりお休み中だ。


「寝ちゃったんだ」

「織音。見て、ここ見て」


 樹生が浩晴の小さな口を指す。なんだろうかと観察していたら突然、唇が何かを吸うようにふにふにふにっと動いた。


「ややっ? 可愛いぞ? お腹すいたサイン?」

「あ、それねー。エア授乳ちちくれーって呼んでる。夢の中でも飲んでるのかも」


 千津花のユニークな命名に笑いをこらえ、浩晴を起こさないようにふたりともベッドを離れる。


「やっばいわぁ。永遠に飽きへん気ぃする」

「新生児、魔性ー」

「赤ちゃんて、どんどん変わっていくからさ。樹生くん、良かったらまた会いにきてあげてよ。織音ちゃんと一緒に」


 樹生はまじまじと千津花を見て、ハの字眉で目を伏せ、小さく首肯した。




 向瀬むこうせを出る前に、和菓子屋に立ち寄って大福を買う。もちもちほっぺにすっかり魅せられてしまった。


 帰りの道中、樹生はまだ興奮気味で、スマホで赤ちゃん向けおもちゃを検索し始めた。正月に渡す贈り物をふたりで真剣に選んでいたら、一時間半の帰り道などあっという間だ。


 とっぷり日が暮れた頃に、アパートに帰り着いた。ひとまず大福を食べようかと、そのまま織音の部屋に集まることにして。


 部屋に入り、玄関ドアに鍵をかけた途端だった。


「……っ」


 くぐもった声ひとつとともに、樹生が堰を切ったように涙を溢れさせる。


 織音は樹生の肩から鞄を引き下ろした。自分の鞄と一緒に壁際に置き、顔を覆い隠そうとする樹生の手を掴まえる。


「隠すぐらいなら、あたしの肩にちょうだい」

「……ごめ……急に。なんでやろ、よぉわからん」

「うん。わかんないままでいいよ」


 俊也の家で、樹生の耳は自分の言葉を切り捨てた。「ええな」という小さなつぶやき。愛され祝福される甥へ向けた羨望。これまでなら切り捨てて終わりだった本音。


 行き場なく抱え続けた孤独を吐き出すように、嗚咽が交じる。切り捨てられた本音を、織音に伝えてくれる。


 肩に樹生の涙をもらって、背中をさすりながら思う。耐えて、耐えて。ここまで帰ってきて吐き出したのなら。少しは、彼の頼る場所になれているだろうかと。



 落ち着いてきたところで、織音は樹生にタオルハンカチを渡した。上がりかまちに並んで座り、肩を寄せ合って手を繋ぐ。


「また会いに行こうよ。今度はおもちゃ買って。絵本もいいかも」

「……オレ、親バカならぬ、叔父バカになるかもしれん」

「いいじゃん、溺愛しちゃえ。浩ちゃんはみんなから愛されておっきくなるんだ」


 樹生の肩に頭を預けて、織音は笑った。すん、と鼻をすすったあと、樹生も「せやな」と笑ってくれた。



 * * *



 大学四年、一月。

 織音は心静かに、登壇中の女性を見つめた。


 講師、土田つちだ 沙綾さあや。教卓に置かれた簡易なネームプレート。これは彼女の三つ目の苗字なのだなと、あらためて思う。


 就活を終え、卒業も間近に迫り。もう織音には必要のないセミナーだ。それでも、ビラを配られたその場で、下部に付いていた申し込み用紙に名前を書いて提出した。用紙を切り取った残りを樹生に発見されかけたが、以降、特に追求されなかったから大丈夫だろう。


 学生に向けて上品に語りかける彼女は、メイクでカバーしているが垂れ目で。どうして前回は気づかなかったのかというほど、樹生や俊也との血縁を感じる。


 沙綾が学生に激励の言葉を述べて、セミナーを締めくくる。大学二年で同じ言葉を聞いた時は、胸にじんとくるものがあった。


 織音は席についたまま、ほかの学生が帰っていくのを待つ。案内係の学生課職員が一度教壇に近づいたが、沙綾は案内を断って全員が退室するまで壇上に立ち続ける。これも、前回は素敵な振る舞いだと思った。


 ようやく最後のひとりとなって、織音は沙綾の元に向かう。沙綾は待っていたとばかりに微笑みを浮かべた。


「前回、ボールペンを探してくださったかたでしょう? またお会いできて嬉しいわ」

「そんなに特徴的な顔してますか?」

「ふふ、記憶力には少し自信があるの」


 そんなところを、彼との共通点と思いたくない。似ているのは目元だけでも充分すぎる。


「変なこと、聞いてもいいですか。就活とは全然関係ない、人生相談なんですけど」


 織音が尋ねると、沙綾は驚いたように目を見開く。そしてすぐに、上品な微笑を取り戻した。その変化を肯定と捉え、織音は返事を待たずに切り出した。


「土田さんは。子育てって、ご経験ありますか」

「え?」

「その……キャリアプランっていうのかな。いろいろ、考えて。仕事と両立って、できるのかなとか。先のこと考えたら不安になってきて」


 駆け引きが得意じゃない頭で精一杯練った、就活講師に聞けそうな質問。たどたどしくなってしまったけれど、これはこれで、悩んでいる姿を装うことができる。


「もしかして、今年でご卒業?」

「はい。だから本当は、このセミナー参加しちゃいけないんですけど。どうしても土田さんにお訊きしたくて」

「いけないことなんて無いわ。頼っていただけて光栄です」


 沙綾は目を細める。優しい笑みのお手本のような顔で「そうね」と口を開いた。


「経験者としてアドバイスするなら。完璧を目指さないこと。それから、使えるものは何でも使う、かしら」

「使えるもの、ですか」

「そう。地域のサポートや、民間の代行サービス。ひとりで全て完璧にしようとせずに、抜ける手は抜くこと……私はそうやって両立したけれど、手段はたくさんあるから。いまから真剣に考えられる貴女なら、きっと大丈夫よ」

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