マイペースな恋でいい
会場はひとり暮らしな
そんな流れなら、朱莉の交際開始当時の話で盛り上がるのも必然である。
「いいじゃーん! ファーストキスは水族館! 外! やるなぁブラザー!」
織音が興奮気味に言うと、お酒でほんのり赤らんでいた朱莉の顔がぼぼんと燃える。
朱莉と
「もう、わたしの話はいいって。織音だってそんなものでしょ?」
「たっつが大阪から帰ってきたときー。怒らせちゃって、ガブって食いつかれた」
「え、
「だめだめ。かじり返したから、おあいこ」
盛大にケンカをして、やっと樹生の本音を見せてもらったのだと。織音が嬉しそうに目を細める。こちらにも結衣はぐっと心を掴まれ、グレープフルーツ&ソルトをまたひと口。
困難を乗り越えて、いま、ふたりとも幸せそうだ。缶を片手にご機嫌でいたら、そのふたりが唐突にこちらを向いた。
「素知らぬ顔してるけど、結衣は?」
「ゆいこのそういう話、聞いたことなーい」
「……ふん?」
「ふん、じゃないのよ」
じとっと朱莉が視線で刺してくる。織音が握った拳をマイクに見立てて突きつけてきた。
「さ、ゆいこさん。ハジメテはいつですかっ!」
「誤魔化しは無しよ?」
アルコールで勢いづいて、いつもより押しが強いふたりを前に。参ったなぁと、結衣は缶を両手できゅっと握り込んだ。
この話題が、大の苦手なのだ。
「高三の夏休み。八月だったよ」
* * *
受験生にも息抜きは必要だと、夏祭りに行った帰りの夜道。
そのまま家に向かうかと思ったら、悠は途中の小さな公園前で寄り道を提案してきた。
「近々、結衣さんとしたいことがあって」
誰もいない公園に入り、隅に落ち着いて。さぁ、なんだろうと結衣が顔を見上げたら、悠はなぜか空を仰ぐ。かと思えば、両眼からレーザーでも放つ気かと問いたくなるほどに、長々と地面を見つめる。
彼はスニーカーのつま先でずずっと砂利を鳴らしてから、手の甲で結衣の口に触れてきた。その手は次いで、悠自身の口にも触れる。
「こういうの……」
「それはつまり、キ――」
「名称は伏せてっ……くだ、さい」
食い気味から一気に
悠の表情がいつもよりずっと硬い。
手を繋ぐことすらなく終わった交際しか経験のない結衣だ。想像することはあった。憧れも興味もあった。
けれど今は、何もかもを上回る緊張に支配されてしまう。
今日。いま。この場で、だろうか。いや、近々と言っていたから、今日ではないのか。
どんどん膨らんでいく緊張で、繋いだままの手にじんわりと汗をかく。
「結衣さん。まだ時間、いい?」
柔らかな問いかけに、首肯ひとつで応じる。声にすると緊張がバレてしまうと思って。
すると、悠は「よしっ」とうなずいて、結衣の手を離した。
「では。今からきっちり説明します」
「…………ん?」
「何事も認識のすり合わせが大事なので」
至極真面目な顔をして、悠は手振りを交えつつ語り始める。
「海外文化なイメージがあると思いますが。なんと平安時代にはもう、親愛を示す手段として日本にあったようです」
何か、予測から八十度ぐらいズレたものが始まった。
いわく、
知らなかったなぁと興味深くうなずきながらも、脳をもうひと働きさせて結衣は考える。
思いやりが分厚い。そして、明後日の方角を向いている、と。
悠にはふざけている様子も、照れ隠しといった様子もない。真剣な顔でキスとはなんぞやを語る。まさかの事前説明会だ。
これが高校三年女子に必要な説明か否かはさておき。そもそも、説明を受けるべきことかという点も、さておき。
彼は誠心誠意をもって、結衣の不安を除こうとしてくれている。交際前は盛大にすれ違ってしまった自分たちだから。彼は常々、言葉にする労力を惜しまない。
となれば、結衣も前のめりで聞かねばならない。
ならないのだが。
そもそも、結衣のほうには不安がないのである。
「でも実際に吸うかといえば、そればかりではなくて、いろいろと手法がある奥深いものでして」
「う、うん」
「本日、初回に向けて俺からご提案させていただくのは基本形。いわば入門。単純に口で触れるというタイプです」
「触れる……はい」
「好意を伝えるために、相手に口で触れます。このタイプは海外だと、家族とか友人間でも挨拶がわりに使うもので。ここまで大丈夫?」
「私もそのように認識してます」
「よし、ここからが肝要なので! 俺の場合は、挨拶という意味じゃなくて。結衣さんにもっとわかってもらうために……えー……そう、結衣さんを好きだってことを、より具体化してお伝えする手段として採用したくて」
「うん、だいたいわかってるつもりです」
「ほんと? でも、ここは絶対押さえておきたい。好意伝搬を主目的にする以上、おでことか頬とかではなくて、その」
結衣はすっと右手を挙げた。
「悠くん、いいですか」
「はい! 心配ごとがあったら何でも言って」
「想定内です」
「想定、内?」
「うん」
「それ、俺とで。想定されてる?」
たたたと瞬きする顔は、いつもながらの造形美で。けれど彼はごくごく普通の、同い年の男の子で。
その男の子は、結衣にとっていちばん近しい特別な人になった。そういう意味ではもう、ごくごく普通ではないのに。
もしかしたら、そんな結衣の気持ちこそ、きちんと彼に伝わっていないのかもしれない。精一杯の彼のプレゼンテーションを噛み締めて、結衣は笑った。
「悠くん以外に、誰と想定できるの?」
綺麗な二重の目をまん丸にした悠は、ぼんやりとした街灯の灯りでもわかるほど、顔面を真っ赤に色づけていく。
「俺、すっごい空回りしてる?」
「してないよ」
「嘘だぁ。結衣さん呆れてるんじゃ」
「呆れてない。たくさん気遣ってくれてありがとう」
説明役として忙しく動いていた悠の手が、脱力してしゅるしゅると下りる。結衣はその両手を軽く握った。
「近々じゃなくて。今で、いいよ」
「場所とか。こだわり、ない?」
「平気」
「ほんとに? 今日じゃなくても。ここじゃなくて、もっと特別なとこでとか。俺、全然待てるし」
それは無理だ。
緊張に汗をかいた悠の手を握ったら、こっちがもう待てない。
「どこだって。特別な場所で、特別な日になります」
結衣が笑ったら、悠もいくらか緊張を解いて笑った。
そっか、と。
そうだよ、を。
何度か繰り返して。
ゆっくりと、悠が顔を近づけてきた。結衣の心臓がととっとリズムを変える。けれど、平気だと自分に言い聞かせ、静かにまぶたを下ろした。
目を閉じても気配でわかる。
吐息が鼻の頭をくすぐるから。もうそこに彼がいる。
あと少し、というところだった。
ガサッと大きな物音がして、背中にびりりと電流が走る。その衝撃に乱されて、お互いの前歯がガチンと当たった。
「ぃだっ!」
「ひぐっ!」
実際はそれほど痛くない。けれど、雰囲気としてかなり痛い。
ふたりとも奇声を上げて口元を押さえる。それから音の出どころへ同時に顔を向け、
ひょこりと、植え込みから黒猫が顔を出した。かぎしっぽを揺らし、一度足を止め。くぁぁとあくびをしてからまた、とととと歩いて。
猫はすぐそばの塀を軽やかに飛び越えて、夜の散歩へと消えていった。
「……猫に邪魔されるとか、ほんとにある?」
悠が呆れたようにつぶやいて。
「ふ……、ふふ……」
勝手に湧き上がってくる笑いに、結衣は顔を伏せた。
「ちょっと。結衣さん」
「だって……ねこ……歯、かちんってなった」
「もー、なんだこれ。全然締まらないし」
しっとりした雰囲気と自分は相性が悪い気がしている。そんな結衣だから、猫に邪魔され歯がぶつかるぐらいでちょうどいいのかもしれない。
「悔しい……」
口をむぅっと曲げてため息をついた悠から、結衣は手を離した。力を込めていた手を一度大きく開いていて、緊張を解く。
見上げたら、悠がずいぶん拗ねている。そんなところが可愛いと思う。
「私も、実はとても残念」
正直に。そんな本音を口にした瞬間だった。
悠の両手が結衣の頬にかかった。そのまま、顔を軽く上向かされる。突然のことに驚いて喉を震わせたら、出しかけた声もろとも口を塞がれた。
温かさが、唇に触れる。
すぐそこにある長いまつ毛が揺れて。ごく薄く、まぶたは開いていて。わずかな隙間から結衣の様子をうかがっている瞳が、あまりに綺麗で。
――あ。『好き』だ。
熱と瞳が伝えてくるたったひとつの想いに、胸の奥を打ち震わされる。その情動は涙になって、出口を求めて上がってくる。
結衣はしっかりとまぶたを閉じた。悠の手に涙が届けば、彼はきっと結衣を離す。心配性で優しい彼は、拒絶の意思だと誤解してしまう。
塞がれたままの口では、何ひとつ言葉にして渡せないから。結衣は全て預けるつもりで悠の胸元を掴んだ。
瞬きほどの間だけ、唇が離れて。すぐに角度を変えて再開されて。より深く繋がるためか、悠の右手は結衣の後頭部を支えるように添えられた。
唇を重ねる以上のことは何もなくて。ただ、長く。長く。息することも忘れるほどに、悠の好意を熱として与えられ続けて。
ついに、結衣の膝が降参した。その場に崩れそうになった体を、悠の腕が抱え込んで受け止めてくれる。
「ごめんっ!」
「大、丈夫。けど、足が。力、入らない」
そばのベンチに着席させてもらって、結衣はほふっと息をついた。
悠の指が、結衣の目尻を軽くなでてくる。
「嫌だったとかではない?」
悠の頭にしょぼんと垂れた犬耳が見える気がする。結衣は慌てて首を左右に往復させて、悠の服の裾を捕まえた。
「嬉しすぎて、出てきた」
悠はベンチの背に両手を乗せ、ぐっと屈んで結衣の肩に頭を置いた。
「俺も、途中で泣きそうだったりした」
「悠くんも、嬉しさ?」
「そう。嬉しくて堪らなくて。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう。それと」
他に誰が聞いているわけでもないけれど。結衣はすぐそこにある悠の耳に、秘め事を打ち明けるつもりでささやく。
「これから。こんな時間も増えると、もっと嬉しいです」
直後、悠は耳まで真っ赤に染めながら、小さくガッツポーズを作った。
* * *
「八月ってことは……交際八ヶ月ぐらい?」
織音の問いに、結衣はうなずいた。クリスマスに正式に交際を始めた自分たちが歩みを進めたのは、八月の終わり頃だった。
朱莉も織音も即日だったなら、結衣はとんだスローペースだ。
同じ学科の友人たちに、この八ヶ月という数字を盛大に笑われたことがある。今どき小学生でもずっと進展が早いと。そこに明らかな
そうして、結衣はこの思い出話を自分の中にしまうと決めた。
高三の八月。他人に開示するのは、その一点だけで良い。
結衣が黙っていると、織音は確かめるように両手の指を折ってから、カッと目を見開いた。
「八ヶ月って、早くない!?」
「早くないよ。普通、そんなにかからないって」
「いやいや早い。なんなら大学入ってからだろなって思ってたもん。こざーくんのこと完全に舐めてたな、あたし」
結衣が両手で握り込んでいた缶を、朱莉がするりと引き抜いて座卓に置く。
「夏頃の結衣、男子の注目集めてたから。悠、内心焦ってたんじゃない?」
「えっ、私、なにか悪目立ちしてた!?」
「いいのいいの。気づかない結衣でいて」
「やー、こざーくんも男の子だねぇ!」
きゃっきゃと盛り上がるふたりを見ていたら、不意に涙がこみ上げて、結衣はぎゅっと唇を噛んだ。アルコールが後押しするせいでブレーキが効きづらい。
笑って流したけれど、本当は悔しかった。
ゆっくりと結衣に歩みを合わせてくれた悠のことを。自分たちが大切に刻んできた時間を。その数字だけを聞いて馬鹿にされて。
背中に朱莉の手が添えられる。肩には織音が重さをかけてきた。
「何が普通かなんて、ふたりが決めたらいいことよ」
「そーだそーだ。ゆいこにとっての最速だ!」
「……そっか」
自分たちなりの歩幅で良い。それだけのことだ。
頑なになっていた気持ちを解いたら、全身がふっと楽になった。
「うん。私たちは、お付き合い八ヶ月が初めてでした」
「デート中?」
「お祭りの帰り道」
おおー、と織音が拍手する。照れ隠しに、結衣はもう一度缶チューハイに手を伸ばした。飲みかけのグレープフルーツ&ソルトを口に流し込む。
「帰り道とはまた意外っ。こざーくんなら事前申請してスペシャルな場所と時間用意するかと思ってた」
「わかるわ。初回のキスはこちらのスタイルで行こうと思いますとか、大真面目にプレゼン始めそうよねぇ」
むせた。盛大に。
「ゆいこ!? どした!?」
「や、うん。だい……じょうぶ」
さすが、長い付き合いである。皆、悠の解像度が高い。
「で? で? 詳しくは? どこで? どんな感じで?」
「ほら。笑ってないで教えてよ、結衣」
ああ、これは。たとえ大事な友人ふたりであっても、悠の名誉のためには絶対に明かせない。
結衣は思い出を胸にしまい、厳重に鍵をかけることにした。
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