弟、姉の日常を観測する(と、疲れる)

啓史けいしくん、お絵かきじょうずだねー。キャプテン・ブルーかな?」

「すーぱーひーろーです」

「おっ、先生の知らないヒーローだなー」

「すーぱーひーろーは、おねえちゃん、です」

「そっか。啓史くんのおねえちゃん、ヒーローなんだねぇ。かっこいいねぇ」

「おねえちゃん、かっこいい、です!」


 嬉々として言うことか。


 未熟児で産まれた分、周りより際立って小さかったから。佐伯さえき 啓史けいしは周りからいじられるタイプで、姉の結衣ゆいはいつもそんな弟を守ってくれた。


 姉を最初にヒーローにしたのは、姉の同級生でも、ご近所に住む川上かわかみ ひな子でもなかった。間違いなく啓史であり、ゆえに、啓史は長い間、自分にひな子を責める資格などないと思っていた。


 ああ、どうか。

 姉が素敵な人に囲まれて、その人たちが姉の自信を取り戻させてくれますように。


 本気でそんなことを、正月に神頼みしたこともある。姉のヒーロー化現象に、啓史は重い責任を感じていた。


 だから、良かった。

 姉に彼氏ができて、支えてくれる友人もたくさんできて、本当に嬉しかった。

 ただ。


 ――叶えるにしたって、ここまでとは思わなかったんだよ、神様。



 * * *



 向瀬むこうせ高校のブレザーを着て、毎朝晴れやかな気持ちで正門をくぐる四月。中学と高校の違いに戸惑いつつも、啓史は充実した日々を過ごしていた。生徒会からの学校案内や、部活紹介。進学校というだけあって、早い段階で先々を見据えられるようにという配慮で、三年の進路別クラスの様子を見学したりもして。


 理系クラスに在籍する姉、結衣に手を振ったら、帰ってから少々お小言をもらった。結衣のクラスにひな子がいないようで安堵してまって、ついつい――というのは伏せておいた。


 ひな子は露骨に佐伯家を避けるようになった。結衣に対し、ひな子は友情以上の何かを抱いていたのかもしれない。だが啓史にはそこまでわからないし、どうあっても結衣にしてきたことを許す理由にはならないから、慮りもしない。


 教室で見かけた結衣の明るい笑顔より、守るべきものはないのだ。



 そんな結衣が、本人の預かり知らぬところで妙なふたつ名をつけられている。

 啓史がその名を知ったのは、周囲に姉弟関係が知れてからすぐのことだった。


 解氷のプロ。


 姉は高校生になってなお、勝手なイメージを周囲から押し付けられているのだろうか。そもそも、それは良い意味なのか、悪い意味なのか。


 何。解氷って。

 その疑問が解かれるまで、さほど時間はかからなかった。



 * * *



 朝練には間に合わず、通常登校にはずいぶん早い。そんな半端な寝坊をした朝は、結衣と同じ時間の電車に乗ることにしている。


 向瀬駅についたら、結衣のイケメンすぎる彼氏が改札前にいる。古澤こざわ はるという、名前もどことなく端正な彼氏殿だ。啓史もちょこちょこと顔を合わせていて、容姿もさることながら、穏やかで気遣いもできて良い人だと思っている。


 そう、穏やかな人の、はず。


 券売機近くの柱に背中を預け、黄色いイヤホンを片耳に突っ込み。アパレルブランドの広告にでも載りそうな悠が、絶対零度の眼差しで他校の女子を凍りつかせている。


「あ、また捕まっちゃってるや」


 結衣は慣れた様子で改札に向かう。


「いつ見ても、温度差ぁ……」

「え、何?」

「いや、姉ちゃんの動じなさが俺は怖い」


 小首を傾げた結衣が、早足で改札を抜ける。結衣が近づいた途端、凍結状態だった他校生は逃げるように去っていった。そして、冷気を漂わせていた悠は、結衣を出迎えた途端に草木芽吹く春になる。


 啓史と顔を合わせるときの悠は、いつもこの春モードだったから。校内で初めて知った悠の極寒ぶりに、双子か何かかと我が目を疑ったものである。


 果たして姉が解いているのは、悠の氷か、悠に吹雪かれてしまった周囲の凍結か。


「あ、啓史くん」


 気さくな笑みで、悠がこちらに手を振ってくる

 この圧倒的温度差。何度見ても、慣れない。


 そりゃあ解氷とか言われるわ、という話である。



 * * *



 食堂併設の売店で軽食用にパンを仕入れた帰り道、職員室前で仁科にしな 朱莉あかりにばったり会った。


「あ、仁科先輩!」

「こんにちは」


 姉の大親友である。大人びて、いつも落ち着いていて、わちゃわちゃしがちな結衣とどうして仲が良いのだろうと常々疑問に思う。


「食料調達? 部活、大変そうね」

「運動部なんて、こんなもんですよー」


 そう、とつぶやいた朱莉が、ポケットから何か取り出してこちらに手を突き出した。


「うん?」


 受け取るべく差し出した啓史の手のひらに、個包装のチョコレートがころんと乗る。


「さっき結衣にもらったの。ひとつおすそ分け」

「わ、ありがとうございます」

「もともと結衣のチョコだけどね。部活頑張って」


 セミロングの髪を軽く舞わせながら、朱莉が去っていく。お姉さんってこうだよなぁと見惚れていたら、となりにいたクラスメイトが深々と息をついた。


「啓史、よく普通に喋れるな」

「え、仁科先輩? なんで?」

「委員会で一緒なんだけど。あの人近寄りがたくない? ちょっと冷たそうっていうか……声かけられたら緊張する」

「あー、まぁ」


 校内で会う朱莉は、確かに少々よそ行きだ。

 

 家に遊びにきたときは、もっと肩の力が抜けていて。実は地声が可愛いことも啓史は知っていたりする。その声はどうやら結衣の前でのみ解放されているようだから、聞かなかったふりを貫いているが。


「あ、でも。おまえのお姉さんといるときは全然違うよな。おれ、別人かと思ったもん」

「そう、かなぁ」

「なんかこう、雪解け感ある」


 なるほど。解かされているのは彼氏だけではないのか。



 * * *



 昼休み、三年九組の教室を訪ねる。今日は啓史が結衣より先に帰る日なのに、家の鍵を忘れてしまったのだ。最近の結衣は予備校通いで忙しい。


 七組の教室前に差し掛かったところで、三原みはら 織音おとが出てきた。これまた姉の大親友である。


 とんでもなく目を引くお顔立ちなのだが、人当たりがとんでもなくキツいことでも有名だ。特に男子相手となると寄るな触るな声を掛けるなという目で見られる――――


「およ! 啓史くんじゃん!」

「あ、どうもですー」

「なになに? ゆいこに御用?」

「家の鍵忘れちゃって」

「おー、思い出して良かったねーぇ」


 ――――らしい。


 これも姉の恩恵である。啓史はおそらく男子枠から除外され、結衣の弟という別枠にひとりはめられている。


 ――あー、刺さるなー。


 不特定多数のピシピシとした視線を感じる。あの三原が普通に喋っている、とか、誰あの一年、とか。そんなささやきが聞こえる。が、当の織音はおそらく気に留めてもいない。


「見て見て、啓史くん! メガめろんパンっ」

「え、デカっ! 先輩の顔面サイズと変わんないですよ。これ、ひとりで食べきれます?」

「残ったら食べてもらうからいいのだ!」


 残ったパンを胃に収めるのは、あの人だろう。思い当たる人物を啓史は頭に描く。


 九組の教室にたどり着いたら、ぺちっと背中を叩かれた。


「おっ、めっずらしーゲストやん」


 校内では珍しい関西なまり。今のところ、他に聞いたことがない。

 本日織音のメガめろんパンを手伝うことになるのだろう高砂たかさご 樹生たつきが、啓史ににっかと笑いかけてくる。

 方言ゆえに、一声を放つだけで存在感のある人だ。


「おうちの鍵忘れちゃったんだって」

「ほーん。そか、ゆいこちゃん予備校やもんな」

「んだんだ。おーい、ゆいこー」


 ――いーやー、ますます刺さるぅ。


 男嫌いと名を馳せる織音と、喋りに特徴がある樹生。両者が絡むことで、さらに目立つ。廊下を歩く人の視線が痛い。


 跳ねるような足取りで、織音が結衣の元へ向かう。

 結衣が驚いた様子でこちらを見てから、いそいそと鞄を探り始める。


「入って大丈夫やで?」


 樹生のお誘いに、啓史はいやいやと両手を振ってやんわり断った。悠がおいでと手をこまねいたりするものだから、教室に残留している生徒の視線が一部こちらを向く。


 ――痛い痛い、古澤さん動かないで! 視線誘導しないで!


 もう、気分は全身穴だらけ。


「啓史ー、どしたの? 教室入っていいよ?」


 そこで暢気な姉が、教室入口で凍結している弟に呼びかけたりしてしまうのだ。教室全域どころか廊下までもが啓史の敵だ。


 ――あぁーッ! 刺さっ! 痛っ! アーッ!


 気持ちはわかる。同じ家で同じマナーを叩き込まれた姉弟だから。結衣はいま、お弁当を広げた状態で離席するのもちょっとな、とか思っているのだ。


 だが姉よ、どうか気付いてくれないか。

 五人集まると、あなたがたは校内有数レベルに目立つのだ、と。


 ええいと覚悟を決め、啓史は自らを解氷する。早足で姉の元に行き、特大のため息とともに鍵を受け取った。


「あ、あれ? なんか機嫌悪い? ごめんね、お弁当開けたままだしなぁって」

「いや……姉ちゃんが悪いわけじゃない。うん。ない」


 結衣と悠が不思議そうに顔を見合わせる。このふたりはわかっていない。

 織音がきょとんとした顔で、メガめろんパンを「食べる?」と差し出してくる。こちらもわかっていない。

 樹生は顔をそむけて背中を震わせている。状況はわかっているけれど面白がっているに違いない。


 朱莉が「気の毒に」という目でこちらを見てくれるのが、せめてもの救いである。



 * * *



 部活の休憩タイムに、啓史はダハァとため息をついた。


「どしたの、啓史」

「しーづー……」

「お、おう、弱ってんな。マジで、どしたよ」


 部活仲間の永良ながら 梓月しづきに、ぐったりとしなだれかかった。長身な梓月なので、啓史が全力で体重をかけてもびくともしない。


「姉の周りが……濃い」

「あー……解氷のプロな」

「しーづーも知ってんの?」

「あんだけ目立ってたら、なぁ」


 結衣本人は、ズバ抜けた外見でなく。素晴らしい好成績でもなければ、声がいいでもない。部活にも入らず、表彰されるような何かもなければ、委員会にも入っていないのに。


 ため息は止まらず、すがるように梓月の顔を見る。目元まで伸ばした前髪が悠に似ているせいか、啓史は入部早々に梓月に懐いてしまった。

 それぐらい、姉の彼氏のことは好ましく思っているのだが。


 そういえば、この春から悠の前髪がやや短くなった気がする。ますます解氷と姉の名声が立つのではあるまいか。


 あんなにも平々凡々な姉が、なぜこんなことに。


「本人が気にしてないんだから、いいんじゃないの?」

「だよなー……幸せなら何より……何よりなんだけど。近くにいったら刺さるんだよ! 視線が! すごいの!」

「そりゃもうアレだ。啓史に姉離れしなさいってことだ」

「えー……俺シスコンだったんだ。うぇぇしーづー……慰めてぇぇ」


 梓月の体にしがみついて、暑い暑いとずるずる引きずられながら泣き言を繰り返す。


 この梓月がまた、なかなか人付き合いに苦手意識があるタイプで。

 じりじりと、「解氷のプロの弟もやはりプロ」という噂が立ち始めていることを、啓史はまだ知らない。

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