二十四歳、秋(大阪)

「好きです」

「おーきにー」


 通算八十一回目を唱える、高砂たかさご 都美みやび、二十四歳。

 対するは、ソファの上でだるんだるんの野上のがみ 伊澄いずみ、三十歳。


 いつ訪ねても、オフ日の伊澄はこんな感じである。仕事中の輝きが幻のようだ。


「もう少し嬉しい顔を作りましょ。出張ついでにわざわざ訪ねてくれた美人さんですよ」

「いやー、パンツスーツがよぉお似合いで。いよ、ミヤちゃんカッコいいー」


 気のないおだてを右から左に流し、都美はミニテーブルに散乱している雑誌を片付けて棚に戻す。背中をつつかれるから何事だと振り向いたら、伊澄がダイニングテーブルの上を指した。


「たまごリッチプリン」

「なんと! 気が利くじゃないですか」

「せやろせやろ。おもてなしの心が澄みきってる俺やで」

「澄みきったから無に近いんですね。いつもプリン一個きりな謎が解けました。でもこのプリンは素晴らしいので良しです」


 都美はテーブルに向かい、ガラス瓶に入ったプリンを箱から出す。プリンとスプーンをお供に戻ると、寝そべる伊澄の頭を避けて、ソファの空いたスペースに座る。そして、プリンをひと口。


「んー、絶品っ!」

「そら、よぉございました」

「来月もきますので。ぜひぜひご用意ください」


 ひと口分を乗せたスプーンを、仰向けで寝そべる伊澄の唇に当てる。彼は大口でプリンを食べたあと、ふっと笑った。


「ほんま、諦めの悪いミヤちゃん」

「お褒めに預かり恐悦至極」

「褒めてへん」

「だったら、エントランスを開けなければいいではありませんか」


 なんだかんだ通してくれるくせに。そうぼやいたら、鼻で笑われた。ムッとして、黙々とプリンを食べ進める。

 大事に味わっていたら、唐突に体を起こした伊澄が、都美の手首を掴んでプリンを奪った。


「ああ! 最後のひと口っ――」

「このケーキ屋、今月で閉めるんやて。『また来月』はここまで」


 スプーンと空のガラス瓶を都美から取り上げ、伊澄はソファを離れる。ここまでなのはプリンだけの話だとか、そんな甘い受け取りかたをできるほど鈍くない。


 樹生が無事に歩き出したから。もう、伊澄にはこの縁を繋いでおく理由がないのか。


 都美は鞄から本を取り出し、伊澄の背中に思い切り投げつけた。


「っあ! おまえ、本は丁重に扱え!」

「あなたもだからですか」


 伊澄の足元に本が落ちる。五年前、伊澄から俊也へ渡されたものだ。愛着障害についての基本知識と、そのケア。関係修復に向けたアプローチなんかが書かれている。

 美容師の伊澄とは無縁のはずの専門書。それを、中学三年の樹生はここで『勝手に』読んだ。


 初めから、この部屋にあった本だから。


 ひとり暮らしには広すぎるリビング。成人男性が寝そべっても余裕があるサイズのソファ。やたらと大きな冷蔵庫。部屋数は全部で四つ。その中に、ほとんど使わず持て余している部屋があると、樹生から聞いた。


 伊澄のこの住まいは、誰かと暮らすために用意されたものだ。


「俺より。相手が、顕著やったけどな」


 空いた手で本を拾った伊澄は、瓶と一緒にダイニングテーブルに置いて両手を空にした。こちらに背を向けたまま奥の部屋のほうへ顔を向け、ゆっくりと言葉にし始める。


「似たような境遇で育ったから。お互いのこと、わかっとる気でおった。結婚しよかて話が出てからやな。些細なことで疑われて、何っ回も試されて、目ぇ離したら自傷に走るしで。職場にもだいぶ迷惑かけてしもて。最後は知らん男と手ぇ繋いで出てった。それきりや」

「樹生に会ったときには、もう?」

「その本読み切った頃やから……せやな、四ヶ月は経っとったんちゃうか」


 背中を向けられていても、彼が指折り数えるのは見える。関節が張ってごつごつとした指は長い。職業柄、少々荒れ気味。


「俺にも思い当たるとこあるわー、気ぃつけよーとか。さっぱりやった相手の行動がなんとなく意味わかってきたぐらいで、迷子のタツキを拾ったんや。奇縁やろ」


 くつくつと笑う背中が揺れる。部屋でダラダラしているくせに、引き締まった背中がずるい。都美は推しの美しい体型に近づくために、ストイックに自己管理しているのに。


「自分が上手くいかんかった分まで、タツキに期待かけてしもたけど。良かったな。あのお嬢さんやったら、うまいことタツキの手ぇ引っ張ってくれるやろから」


 俺にはできんかったけど。そんなつぶやきと一緒に伊澄が大きく伸びをした。これで自分の役目は終わったと言わんばかりだ。


「その人を、忘れられないんですか」

「ちゃうわ。二度とらんと思うぐらい、結末が悪かった」


 瓶とスプーンを持って、伊澄はカウンターキッチンの奥に入っていく。話は終わりと背中で告げられる。


 二度と要らないと言われてしまっては。

 これ以上追いかけても、きっと伊澄は変わらない。


 どんな人だったのだろう。

 手先が器用だろうか。料理が上手だろうか。笑いのセンスが良くて、大人しくて、趣味に散財したりしない人だろうか。

 彼の最後のひとりとして、永遠に彼を縛る人が。せめて、都美では逆立ちしたって敵わないところを、たくさん持っている人だったらいい。


 都美は鞄を掴み、中から紙一枚を取り出した。市役所でもらったその用紙を、真ん中で破って二枚に分ける。


 名前も住所も、都美ひとりで書けるところはみんな埋めた。捺印も済ませた。いつ届け出ても構わないと。自分にはここまでの覚悟があると宣言したくて持ってきたけれど。頭が冷えてきたら独り相撲で恥ずかしくなってきた。やり口がストーカーじみていて、我ながら恐ろしくもある。


 だいたい。五年落ちてくれなかった人が、こんな紙一枚でほだされるはずもない。


 二枚を重ねて、さらに破り、四枚に。何事かという顔で伊澄がこちらを向いたけれど、説明するのも恥の上塗りだ。四枚からさらに八枚にした紙をとことんまで丸めて、ぽいと近くのゴミ箱に放り込んだ。


「樹生が本当にお世話になりました。どうぞこれからも、弟の良き理解者であり、兄の友人であってください」


 伊澄がカウンター越しに笑う。都美も笑い返す。


「大阪までの距離に怯まず、返事のないLINeにもめげず、同じ学科同じサークル同じバイトと運命的なまでの縁がある超ド級イケメンにも一切目移りせず、そんな恋を私でもできました。ありがとうございました」


 一礼して、早足でリビングを出る。ローヒールのパンプスで良かった。これなら走れる。


 玄関ドアを開けて廊下に出る。ドアが閉まるのを待たず、振り向かずに、都美は走り出した。エレベーターは待てなくて、階段を一気に駆け下りる。


 雨音が聞こえる。

 さっきまで曇天をキープしていたのに。


 エントランスを出て見上げた空は、まだ降り出したばかりという具合だった。折りたたみ傘を開く時間を惜しんで、そのまま駅へと走る。走り出した途端に雨が強くなって、スーツは積極的に水分補給を始めた。

 大阪の空はまだ、夏の夕立を手放したくないらしい。



 都美にとって、恋は恐怖だった。

 父を激情のままに罵倒する母の声を、ずっと覚えているから。


 遥か北の大地の彼女と長々遠恋中の兄はタフだ。兄の中で、両親と自分の切り分けがしっかりできているのだろう。


 当時十一歳の俊也と、六歳の都美。自己の確立度合いが違ったせいか。割り切りのいい俊也と違って、都美は当時の母の姿に自分の行き着く先を重ねてしまう。


 自分に恋はできない。ずっとそう思ってきた。二次元の恋で心を満たすのがいい。好きを好きと言葉にすることなく命を落とすリリーティアは、母よりずっと美しかった。


 それでも好きになった。

 原色ピンクの髪になった都美を前に、笑うでも呆れるでもなく「綺麗やな」と目を細めたあの人を。


 言葉は雑でも、おちょくる悪癖があっても、他人のいちばん柔らかいところは踏み荒らさず、ここぞというところで核心を突く。樹生が回復していく姿を通して、都美はずっと、そういう伊澄のことを見てきた。


 そうやって並べると立派な人だが、オフはだるんだるんで。

 けれど、オンは別人のようにキリリとしている。そのギャップを味わうために、関西開催のコスイベントに合わせて伊澄の美容室に予約を入れたりもした。


 追いかけて、追いかけて。全力で恋をできたから。

 また、いつか。誰かと――


「無理ですってぇーっ!」


 誰もいない横断歩道で赤信号に止められたと同時に、雨に紛れて叫ぶ。


 もう一度、誰かと出会って惹かれるところからやり直しなんて。そんな面倒なこと、考えただけでげんなりする。


 大阪行きの交通費を捻出するために、イベントをいくつも諦めた。開けるまでどのキャラが出るかわからない、いわゆるブラインドグッズと呼ばれるものにも手を出さなくなった。初めて趣味にかける金を惜しんだ。見返りなんて、たまごリッチプリンひとつで良い。


 彼が見えないところに抱える傷を知りたかった。あの本だけじゃない。両手で収まらないぐらい類書を読んだ。理解できたと自信を持って言えるのは、父と兄から与えられた愛情のありがたみだけだ。

 本では足りない。著者の講演を聴きに行った。経験者の話も聴いた。そのパートナーの話も聴いた。


「せっかく、勉強したから。樹生と織音ちゃんのために、使います」


 信号が青に変わる。振り切って一歩を踏み出そうとしたのに、足は前に出ない。


「無駄じゃ、ないですから! ない、ですっ……けど……」

 

 唇を強く噛んだら、信号がまた赤になった。

 次は渡る。絶対に渡る。けれど、せめてもう一度青になるまで。この雨に少しの塩気を足してやりたい。それぐらいはいいだろう。五年も走り続けたのだから。


「もうっ、恋なんか二度とごめんですっ!」

「やけっぱちでも敬語混じるんか、面白おもろいな」


 突然、雨がやんだ。

 頭上に傘がかかっていて、振り向いたら、だるんだるんしていない三十歳が苦笑していた。


「……母みたいに、ならないようにと……思って」

「ミヤちゃんの傷はそこか」


 大きな傘の下で、伊澄は都美の濡れた髪を後ろに流した。


「傘、あります」

「あるんかーい」

「あと、今さら傘、意味ないです」

「アホか。この状況で俺だけさしたら見た目最悪やんけ」


 荒れた指先が、次は都美の目元を拭う。


「婚姻届なんか、ホイホイ書くもんとちゃうぞ」

「ゴミ漁りはどうかと思います」

「分別や分別。プラゴミに紙ゴミ放りこんだらアカン」


 しくじったなと舌打ちをひとつ。バツが悪くて伊澄からふいっと視線を外すと、彼の大きなため息が聞こえた。

 そんなに面倒なら、追ってこなければ良いのに。ぎゅっと唇を引き結んだときだった。


「交際、すっ飛ばしてええか」

「……ぇ?」

「お付き合いから破局はもうしんどい。やから、その先からでもええか」


 口周りに力が入らない。

 間抜けな顔をしていると自覚しながら、伊澄と視線を合わせた。おふざけじゃない。だるんだるんしていない。仕事中と同じ、真摯な瞳がこちらをとらえている。


「……伊澄さん。私のこと、好きなんですか」

「毎度毎度クッソ高いプリンぉて、雨ん中わざわざ追っかけるぐらいやで。俺がそんなマメなこと親切心でやるように見えるかぁ?」


 やる。弟のこともそうやって拾ったんじゃないか。ぶぅと口を尖らせたら、「アヒルか」と笑われた。その笑いかたが、いつもよりずっと柔らかい。


「まだ二十四やろ。遊びたい年やん。月曜定休じゃ休みも合わんし、この距離も負担がデカい。仕事頑張っとるのに、俺の都合で辞めさせたぁない。ミヤちゃんのデメリットしかないんや。もっと近場でのんびり恋愛するほうがええんやないかて思た」

「大阪への異動、誘われてます。というか、採用のときから打診されてました」

「こっから通えんの?」

「片道四十分。リモートも可です。うなずいたら年明けには異動になります」

「準備万端やないか」


 目を丸くした伊澄は、じりじりと眉を寄せ片手を腰に当てて、頭上に開いた傘を見上げた。


「っあー……ええんかなぁ。俺も感情安定しとるとは言いがたいで? ええの? ほんまにぃ?」

「誰に訊いてるんですか、それ」

「天と自分の良心に。タツキほどやないけど、踏ん切りつけんのに覚悟いるんや。ブランク五年でなんやかんや三十やし」


 タイミング良く、遠くの空がごろごろと鳴る。


「天……お怒りみたいですけど」

「せやなぁ。雨強なってきたし、とりあえず帰ろや。明日休みて言うてたやろ」


 都美に傘を押し付けて、伊澄は背を向けてしゃがむ。


「歩けます」

背負しょいたい気分」

「こども扱い」

「嘘やん……俺基準で最大級の彼女向けサービスやのに」


 引き締まった背中にのしかかったら、すぐに視界が高くなった。規則的な振動に揺られて、都美の前髪からポタポタと雫が落ちる。


「伊澄さん……好き」

「通算八十二回目」

「そういうとこ、ほんと性格悪いと思います」

「ミヤちゃんこそ趣味悪いて」


 帰り着いて、エントランスを抜けて、階段を上がって。

 伊澄の部屋の前でやっと下ろされる。廊下まで降り込むような土砂降りも、玄関ドア一枚を隔てたら少し遠くなった。


 結局、お互いにずぶ濡れで。玄関のたたきに水たまりを作りながら黙っていたら、伊澄の片腕が伸びてきて、ぐっと胸に引き寄せられた。


「都美。俺んとこ、おいで」

「ほんと、に?」

「ほんとほんと。なんやったら今日からでもええ」

「それは……引き継ぎあるから、無理です」

「おー仕事ちゃんとしててえらい。けど今日はこのまま泊まれ。これからのこと、ちゃんと話そうや」


 挑戦開始より、五年。

 通算、八十二回。

 決め手。フライングすぎる婚姻届。たぶん。


 外は豪雨。雷鳴轟く中。

 高砂 都美は雨にも負けぬ大号泣をもって、ついに野上 伊澄を落とす。

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