大学一年、夏(大阪)

 大阪のセミのほうが鳴きかたが雑だ。なんてことを思うから、間違いなく今日の都美みやびの精神状態は悪かった。


 父が岡嶋おかじま 沙綾さあやと面会する間、俊也としやは弟のところへ行くのだという。それも、都美を伴って。


 覚えているのは、二歳の天使だ。都美は当時六歳。弟は驚くほどに色素が薄くて、瞳は不思議な色をしていて、幼い乙女心は嫉妬と憧憬しょうけいに燃えたものだった。それはもう、まだ掘り出したばかりのプライドが炭になるほどに。


 なぜ弟だけがこんな天使なのか、当時はまったく理解していなかった。


 天使だから、母に選ばれた。自分は黒髪で黒目だから、母に捨てられたのだ。そう考えた。


 だから、今さら弟を連れてこようと奔走する兄をまったく理解できなかったし、余計なことをと思った。わざわざ自分が大阪まで連れてこられたのもすこぶる不満だった。


 本当なら今日は、街中まちなかコスプレ会のはずだったから、余計に。都美の部屋ではきっと今ごろ、より完成度を高めたリリーティアの衣装があるじの不在に泣いている。



 そんなこんなで。

 二歳の天使がいなくなって、十三年を経て。

 暑い暑いと、文句ばかりを垂れながら大阪の見知らぬ町を歩き。



 野上のがみ 伊澄いずみなる男の部屋で、都美は呆然と立ち尽くした。


 ひとり暮らしにはずいぶん広いリビングの隅。美容雑誌と図書館の本を積み上げて、まるで自分の巣でも作っているかのような少年は、記憶の中より濃い髪色をしていた。


 慌てて指折り確かめる。都美の四つ下。育ち盛りな中学三年生。母の不貞をわかっていても、父は樹生のために金を渡し続けた。その潤沢な金で養われている少年がどうして、簡単に折れそうな細腕をしているのか。


 都美に気を遣ってか、少年は立ち上がって頭を下げた。来年には高校生になる男子が、こんなに華奢きゃしゃなものだろうか。おかしいのは都美の感覚か、この少年か。


 混乱のあまり、救いを求めて俊也の顔を見た。動揺は全て表に出ているのだろう。俊也は真剣な顔でうなずいて、少年に近づいた。


「覚えてないだろうけど、こちらがきみの姉の都美」

「……樹生たつき、です。どうも」


 声変わりの終わった低い声が、容姿と噛み合わない。都美が黙ったままでいると、樹生はもう一度へこりと頭を下げた。


「わざわざお姉さんまで……迷惑かけてしもて、すいません」


 途端、都美の中の感情専用バケツに、あらゆるペンキが流し込まれた。


 どう動けばいいかわからない。頭が七色の感情に翻弄ほんろうされて、まったくついてこない。

 だから、思考を放棄して体に任せた。


 本で作り上げた樹生の巣に近づいて、所在なさげに立つ彼に、右手を差し出す。


「久しぶり……でいいのかな」


 樹生は戸惑った様子で、自分の右手を何度もTシャツに擦りつけた。それから、都美の手を軽く握り返してきた。ささくれとあかぎれだらけで、ひどく荒れた手をしている。


 十三年ぶり。再会の、握手。

 その直後だった。


 あ、と小さな声を上げた樹生が、都美の手を振り払って両手で口を押さえた。そのまま、自分の巣にうずくまる。


「あかん! タツキ、ちょい耐えて!」


 家主の伊澄が、慌ててレジ袋を手に駆け寄る。樹生は都美に背を向けて隠れるようにしながら、袋に頭まで突っ込みかねない勢いで嘔吐を繰り返した。


 なんだこれは。


 母に唯一選ばれし天使は、大阪で幸せに暮らしているのではなかったのか。父に会うのがストレスだと拒否するほど、満ち足りた日々を送っているようだと。さびしそうに父が語ったあれは、なんだったのか。


 足元が大きくかしぐ心地がした。ふらふらと三歩たたらを踏んで、背中から俊也にぶつかる。都美を支えて両肩に手を添えた俊也が、束の間の沈黙のあと、口を開いた。


「伊澄。こういう反応は、今までも?」

「女性美容師はアウトやった。姉弟やったら大丈夫かなて思たんやけど……読みが甘すぎた。都美ちゃんやっけ、驚かしてごめんやで」

「い、いえ……や、驚き、ました。はい」


 えずきを繰り返す合間で、小さな声が謝罪を繰り返している。その声に、頭を殴られる。


「都美、母が樹生に何かしたわけじゃないから。あの人は樹生に、何もしなかったんだ」


 耳元で、俊也がささやいた。何も、とずいぶん強調して。それは、母親としてするべきことすら、という意味だ。


「養育費は?」

「あの人、大学に入り直してた。大半はそこに消えたんだと思う。ただ、返還請求するもしないも父さん次第だから。僕らが考えるべきはそこじゃない」


 ようやく落ち着いた樹生が、伊澄の手を借りて立ち上がる。ふらふらと洗面所のほうへ向かいながら、途中、前屈でもするかのように、都美に頭を下げてきた。


 これで、大きく三度。小さなつぶやきも含めれば数え切れない。

 かつての天使は、十三年ぶりの家族を前に謝ってばかりいる。家族という実感もきっとない。だって彼はまだ二歳だった。


 都美は覚えているのに。おぼつかない足取りで自分を追いかけてきた、小さな天使を。

 嫉妬もした。憧憬もあった。けれど、それ以上に。彼は可愛くて、都美の自慢の弟だった。


 伊澄からタオルを渡されるまで、自分の頬を流れるものがあると気づかなかった。会釈してタオルを受け取る都美をそのままに、伊澄は俊也と話し込む。


「かなり落ち着いたと思たんやけどな」

「学校のほうは?」

「一学期は問題なく通った。外面だけは一級品や」

「あれだけ痩せてても、健康診断とかは引っかからないもの?」

「ぎりぎり許容内なんやろ。学校給食様々さまさま。夏休み中は親父さんのお言葉に甘えて宅食取らして貰うわ。俺が作ったら、遠慮してしもて食細いんや」

「樹生、自炊はせず?」

「できるんやで。けど冷蔵庫の中のもん、勝手に使うのにかなり抵抗あるみたいでな。あとガス代、めっちゃ気にしよる。ちっちゃい頃にキツい言われかたでもしたんやろなぁ」


 ふたりが近況報告会を開く中、都美は樹生の巣に積まれた本を手に取った。図書館で借りているのは、どれもこれも、一般的に中学生では難しいだろうレベルの専門書ばかりだ。


「あの……あの子、これ全部理解してるんですか」

「らしい。瞬間記憶っていうんか? 目で見たまんまを写真みたいに記憶して、何回も頭ん中で写真見直してるうちに定着するんやて。手先も器用でな。ヘアアレンジ教えたらまぁぁ飲み込みはよぉてビビったわ。その分、なんぞ発達上の偏向はあるんかもしれんけど。あの母親オカンが把握しとるとは思えんから、深くは訊いてへん」


 赤の他人の伊澄が、わざわざ母親にまで会ってくれたのかと驚いた。未成年者を預かる以上、筋を通しただけだと、伊澄は何でもないことのように言う。


 リビングのドアから、樹生が顔だけのぞかせる。


「伊澄さん。Tシャツ汚れたかもしれんから。洗濯回してもええ?」

「かも、やろ? 気にせんでええから夜まとめて回そうや。心配やったら、ざっくり手洗いして放り込んどき。ほんで俺の服テキトーに着とけ」


 無言で首肯した樹生がしゅぽっとドアの向こうに消えた。俊也が声量を絞って伊澄に尋ねる。


「服、足りない?」

「夏物は見るに堪えん状態やったから、ほとんど捨てたった。親父さんからの軍資金で一新したろかなて」

「あ、そうそう。預かってるよ」


 俊也が鞄から封筒を出した。伊澄はそれを会釈して受け取ると、ローチェストにさっとしまい込む。

 ほどなくして、樹生がだぼだぼなTシャツを着て入ってきた。よりいっそう細身が際立っている。


 都美が慌てて巣から離れると、樹生はまた頭を下げようとした。


「何もっ! 謝られることは、ないですから」

「あ、すいませ」

「だから、ない! ね!」


 ついつい華奢な両腕を掴もうとしてしまって、いけないと両手を挙げる。都美はそのまま深呼吸して、樹生の顔をじっくり見つめた。


 髪色は相変わらず明るいが、やはり昔より濃くなった。瞳の色も深みのあるヘーゼルになった。いつかの天使より、日本人寄りに変化している。まるで、周りに溶け込むために擬態でもしたみたいだ。


 樹生も都美をじっと見て、それからちらりと俊也にも目を向ける。


「やっぱり。なんかの、間違いやないですか」


 ヘーゼルの目を伏せて、荒れた指で耳にかかる髪をくしゃりと握ると、そこにピアス穴が見えた。


「色が……全然、アレですし。同姓同名の、別人やと思います」


 その色こそが天使の名残だ。顔立ちだってしっかりと俊也に、すなわち、母親に似ているというのに。


 関わりを断つ理由がこれだと訴えるように、樹生は自分の髪を握り続ける。何も答えられない都美に代わり、俊也が樹生の手をとって、髪から離させた。


「最優先は樹生の意思だ。絶対に無理強むりじいはしない。けど、間違いなく僕らはきみの兄姉で、だからこそ、きみをこのまま放って置くのに抵抗がある」

「気持ちはありがたいですけど、これで共同生活なんか、できへんでしょ」

「できますよ」


 明確な反論の意思が、都美の口をついて出た。

 共同生活という言葉があまりにも突き刺さって。家族を前にしてそんな言葉を選んでしまうほど、この弟は諦念の底からこちらを見上げているのだ。


 不満たらたらな顔をしていると自覚しながら、都美はさらに続ける。


「大学生にもなって、弟にベタベタ触るなんてありえませんから。うっかりぶつかったとして、樹生が吐く前に離れれば済む話です。この程度を問題と思わないで欲しい」

「気ぃ悪くさせたんやったら謝ります。けど、不便な思いしてまでオレを居座らせるメリットはあれへんと思います」

「あります! どでかいメリットが!」

「都美、一度落ち着いて」

「兄は黙っててください!」


 都美は鼻息荒くスマホを取り出し、写真投稿SNSの自分のアカウントを開いた。コスプレ写真を一枚選び、フル画面で表示する。


「どうですか」

「どう、て……都美さん、ですよね」

「右が私です。左が、私が憧れてるレイヤーさんです。ウイッグのアレンジが神なんです。輝きが違うと思いませんか」


 樹生の巣に山と積まれた美容雑誌をちらりと見る。


「私、手先がすこぶる不器用なんです。きみ、できるんでしょう」

「伊澄さんがやれって言うから、暇つぶしに練習はしてますけど」

「だったら、私はきみの腕を買います。専属スタイリストになって私を映えさせればいい。私にとってこれ以上ないメリットです。何せ! コスは、私の、人生ですから!」


 でも、と。戸惑い顔の樹生がちらりと俊也を見る。背後で笑いを噛み殺していたらしい俊也は、咳払いで整えてから、ないないと手を振った。


「コスイベ、土日だから。僕には都美を手伝う余裕はない」

「使えない兄です。ウイッグなんだから事前に準備できるのに、全然妹に優しくない。禿げろ」

「さらりと暴言吐かない」


 そこでけたけたと笑った伊澄が、樹生の肩に腕を回した。


「まぁ、そのへんで。これ以上はタツキがパンクしてまうから、今日のところは許したって」

「だったら、まずLINeだけでも繋がりましょう」

「残念ながら、まだタツキのスマホがない。さすがに俺では契約したられへんので、いまごろ親父さんが交渉してくれてるはずやわ」

「じゃあ今日のところは伊澄さんと繋ぎます! しかたないから!」

「さっきからなんでキレ気味なん、都美ちゃん」

「この社会に腹が立ったからです!」


 派手な引き笑いのあと、伊澄はスマホを取り出す。都美のLINeに、新しい友人として伊澄のアカウントが登録された。




 帰り際、伊澄から俊也に一冊の本が渡された。


「愛着、障害?」

「あんだけ親から放置されたんや。何かしら反応が出るかもしれん」

「これ、樹生は」

「勝手に読んどった。あいつ賢いから、自分なりに向き合ってコントロールするとは思う。けど、頭だけではどうにもならんこともあるから。本気であいつを受け入れるつもりやったら、お互いのために、知識として持っといたほうがええ」

「わかった……もうしばらく、樹生のこと頼むね」

「了解。トシも適度に力抜きや。都美ちゃんもな。気負いすぎてもしんどいで。長期戦になると思て」


 それぐらい、見えんとこで傷になっとるから、と。

 最後に伊澄が小さく付け足した。


 エントランスを出て、地上から伊澄の部屋あたりを見上げてみる。帰り際には顔を出さなかった樹生が、じっとこちらを見下ろしている。

 その姿が、どうしようもなくいじらしく見えた。

 都美は昔から、飼い主が出ていってお留守番状態になる猫の動画なんかに弱いのだ。


「なんで……あの人、平気で、こんなこと」

「そういう人だから樹生の父親は僕らと違うし、そういう人だから父さんは夫婦を続けられなかった。あの人の心情なんて、考えてもこっちが擦り減るだけだ」


 樹生がいつまでも中に入る様子を見せないから、都美は軽く手を振って先に視線を外した。

 同時に、目元にこみ上げてきた悔しさを腕で擦る。


「都美が無理だったら、実家じゃなくて僕のところに連れて行こうと思ったから。だから、早いうちに会わせたかったんだ」

「嫌でず……ぜっだぃ、私も樹生と暮らじまず……兄もしばらく家に帰ってきでくだざぃ」

「そのつもりでいる。ありがとうね、都美」


 都美は大きくうなずいて、ずずぅと子供みたいに鼻をすすり、口からふはぁと息を吐いた。


あにぃ。夏休み中にもう一回ぐらい、私も連れてってください」

「いいけど……夏の最大コスイベは?」

「今回は見送ります。それから、帰ったら私の頭、原色ピンクにしてもらえます?」


 目を丸くした俊也は、くくっと笑って軽く腰を屈めた。


「僕は樹生に近い色にしようかと思ったんだけど。いいな、いっそシルバーとか突き抜けてみようか」

「いいですねー。次回はチカチカしたふたりで度肝を抜いてやりますよ」


 兄と姉。

 十三年、その肩書をさぼっていたふたりは、悪巧みに口元を歪め、拳をコツンと突き合わせた。

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