大学二年、春(美容室リール・ヘア)
夕方六時半を少し過ぎた頃。
セット椅子がふたつの小さな美容室だ。男性はドアを開けて客を送り出し、少しして店内に戻ってきた。ドアの小窓に、外から見えるように『Close』の木札をかける。柊吾は本日最後の客らしい。
「すぐ準備しますから。その間にこれを」
と、カウンターの上から、バインダーに挟んだカウンセリングシートとボールペンを取る。ほかに店員の姿はない。この男性美容師ひとりで経営しているのだろう。
「わかるところだけで構いませんので、ご記入くださいね」
シートを受け取りつつ、男性の全身を上から下まで確かめる。おそらくまだ二十代。シルバーと表現できそうな明るい髪色、アップバングな短髪。Vネックのカットソーに、肘近くまで袖を
場違いかもしれないと、黒カットソーに白シャツを羽織る自分を見下ろした。着心地重視でアイテムに金はかけているのだが、よくある大学生スタイルといわれればそれまで。
一年以上ものあいだ気にかけていられなかった髪は、ひとつに縛れるまで伸びてしまった。容姿に
柊吾自身はこれでも構わない。けれど高校に無事合格してから、悠がこんな兄の姿を気にするようになった。自分が心配をかけたせいか。弟に時間を割きすぎて、兄は自身を疎かにしているんじゃないか、などと。
悠の心にゆとりができた証で、喜ばしいことだ。が、自責の念に
どうしたものかと悩みつつ。とにかくカウンセリングシートを埋める。趣味、好きな雑誌、ブランドと空欄を埋めていると、美容師がこちらにやってきた。
「書けました?」
「おおよそは」
「ありがとうございます。あらためまして、
カウンセリングシートを引き取った俊也が、どうぞとセット椅子への移動をうながしてくる。そこで、柊吾は紙袋から出した菓子折りを俊也に差し出した。
「先日は、弟が大変お世話になりました」
「これはご丁寧に!」
俊也はカウンセリングシートをカウンターに置いて、菓子折りを両手で受け取った。
「電話でもお伝えしたとおり、カットモデルを頼んだのと変わりません。お気遣いいただかずとも良かったのに」
「到底足りないほどです。弟にきっかけをくださってありがとうございました」
「……悠くん。あれから、どうです?」
心配そうに尋ねてくる俊也の言葉に、まだ明るく大丈夫とは返せない。
「ゆっくりと、ですが。頑張ってくれています」
「実は……弟からも少し様子を聞いたんです。悠くんと同じクラスになったもので」
「そうでしたか」
「ええ。まだ話しかけたりとは、いかないようですが」
俊也はカウンター奥に菓子折りをしまい、セット椅子に向かう。椅子をくるりと柊吾のほうへ向けて、苦笑混じりで肩をすくめた。
「うちの弟も少々訳ありで。でも、その分、悠くんと上手くやれるかもと思っています……ま、とにかくどうぞ」
柊吾はセット椅子に座り、適当に縛っているだけのゴムを外した。
「さ、今日はどうしましょうか」
「売れないバンドマンと残業続きでぐったりした社会人をブレンドした感じでお願いしたいんですが」
「……なんて?」
うまく聞こえなかっただろうかと、柊吾は背後に顔を向けた。
「売れないバンドマンと」
「あ、ちゃんと聞こえてます。そうじゃなくて」
俊也は、自身のこめかみをトントンと指で打った。カウンセリングシートをキャスター付きワゴンの上段に置き、柊吾の髪を軽くまとめて上げ下ろしする。
「こだわって伸ばしているわけではない?」
「放ったらかした結果ですが、この地味でパッとしない雰囲気は良くて。ただ、パッとしないけど小汚くない……お金出したのにいまいち垢抜けなかったねぇ、ドンマイ、という仕上がりを目指したいです」
柊吾が説明を重ねると、俊也はいっそう難しい顔をした。
「結びたい?」
「まったく。でも頻繁に通わなくていいのは助かります。悠ぐらいに短くなると、キープするのが大変そうだから」
「じゃあ、後ろはそこそこ残して……バンドマン……売れない、バンドマン……え、何このオーダー」
「ぐったりした社会人要素も忘れずにお願いします」
「難しいこと言ってる自覚ある!?」
ぽろっと敬語の取れた俊也に吠えられて、柊吾は「そう言われても」と鏡を睨む。
隣家に住む四つ下の女の子に、大学生になったら変わってしまったとか、遠く感じるようになったとか思われたくない。偶然に家の前で顔を合わせたとき、呆れた顔の彼女に「あいかわらずね」と笑ってもらえるのがいい。
それだけのことなのに、オーダーが難しい。
ふと思いついて、柊吾はポケットからスマホを取り出した。
二年前、彼女がはまっていた少女漫画がある。画像検索でその漫画のヒーローを呼び出し、俊也に見せる。
「二次元モデルなんですけど、こういうの、どうでしょう」
「んーミディアムよりは長め……ややウルフで、サイドは耳出さないぐらいか。確かに、実際やると野暮ったく見えるかもしれない」
「これに、ぐったりした感じを足していただいて」
「そこ諦めて欲しいなぁ。お客様をぐったりさせるのはポリシーに反する」
「……えー」
「じゃあ、くたびれ感ぐらいで妥協しない?」
鏡の中の俊也が、これ以上は
俊也は手際よく、ザッザと柊吾の髪を切っていく。思ったより切られるものだと自分の変化に見入っていたら、思い出したように俊也が口を開いた。
「
「悠から聞きました?」
「それもあるけど、デジタル映像技術研究会。妹がおります」
「……え、あの高砂さんて、こちらの高砂さんですか!?」
悠の自責の念が軽くなればそれでいいと、この春から適当なサークルに入った。サークルには同じ学科の女性がひとり在籍していて、その女性が熱心なコスプレイヤーで。柊吾にとって頭の痛いことだが、『リリーティア』のコスにもっとも力を入れている。名を、高砂
『誰が為の異世界開拓期』にも『リリーティア』にも。あの夜を最後に、一切触れなくなったのに。今度は二・五次元リリーティアを出されて、さぁ誰を呪ってくれようかと頭を抱えた。つゆほども似ていない都美の声真似がまた悪い。鍵をかけて押し込めた柊吾の箱をがんがんと揺さぶってくるから本当に困る。ジャンル変えを切に願っている。
「都美から、容姿を無駄遣いしている人だと聞いて。今日、楽しみにしていました」
「はぁ」
「そしたら、オーダーがコレだし。悠くんも難しそうだけど、お兄さんもいろいろあったのかな」
「いえいえ。俺は苦労知らずでここまできましたから」
「……そう?」
そうですとも、と柊吾は軽く首肯した。ふっと息遣いひとつで笑った俊也がハサミを置き、ドライヤーを準備する。
そこで、『Close』表示になっているはずのドアが開いた。
「
「あれ、噂をすれば妹登場」
「ややっ!
「都美。おまえ、狙ってきただろ」
「いやいやぁ? ちょっと兄の顔見にきただけですってー」
俊也の追及をすっとぼけた都美は待合ソファにストンと落ち着き、こちらを眺め始める。
「古澤さん、かなり雰囲気変わりましたね。さすが我が兄。いい腕ですねぇ」
「「え……」」
褒め言葉としか取れない都美の口ぶりに、柊吾と俊也は同時に濁った『え』を発した。
「どうしたんです? ふたりして珍妙な反応を。今どきな短髪路線でなくとも、古澤さんのビジュアルなら全然ありですよ。カッコいいです。騎士服とか似合いそう」
俊也が慌てて柊吾の正面に回り込む。
「確かに……くたびれてない」
「売れない感は?」
「ネクストブレイクの
「せめて、一発屋で終わるぐらいにできませんか」
ソファを離れて寄ってきた都美が、にゅっと鏡の中に割り込んできた。
「どういうことです?」
「地味でパッとしない、が俺のオーダーで」
「この素材を、元売れないバンドマンで現くたびれ社会人にしようとして」
「結果、ミリオンを約束されし邦ロックのボーカル兼ギターにしちゃったわけですか」
あごに手を添えて考え込んだ都美は、いくらか間を置いてから柊吾のひたいを指さした。
「前髪センター分けで毛先を後ろにくりんと流したら、
「「挫折したサーファー」」
俊也がいそいそと柊吾の後ろに戻る。オールバック状態の前髪を下ろすと、鼻まですっぽり覆われた。俊也の指は長い前髪をセンターで分け、頬のあたりでカーブがつくように後ろへ流す。そのまま、体を横にずらして、柊吾にも鏡が見えるようにしてくれた。
「あー、はいはい。挫折したサーファーだ。やるな都美」
「俺これ、一年以上前にサーフボードを売り払って陸に上がってますね、たぶん」
「お兄さん……今回は、これで手打ちとしていただいても?」
「次回もあるんですか」
「あって欲しいなぁ。お兄さんと繋がってると、悠くん経由で弟の状況がわかりそうだし」
今度こそドライヤーのスイッチが入り、鬱陶しい前髪が乾かされていく。
「訳ありな弟を持つ同士、こっちはこっちで交流してみるのも一興かなと思いましたが、どう?」
ドライヤーの風音に乗せて、思わぬ誘惑をかけられた。
「ずいぶん唐突なお誘いですね」
「だってお兄さんが、苦労知らずでここまできたなんて大嘘をつくから」
「いや、本当のことですが」
苦労したのは、悠で、
自分は違う。守ることも、止めることも、知ることすらも満足にできずに。手を尽くしているつもりになっていただけの傍観者で。
大仰な左手の傷すら、もう痛むことをやめてしまった。
ドライヤーを止めたあと、俊也は柊吾の髪を梳いてボリュームを落としていく。挫折したサーファーを目指した調整が前髪に入る。
「悠くんのことでのお礼、どうしてお兄さんが持ってきたの」
穏やかな声に突然問いかけられて、柊吾は一瞬眉根を寄せた。
悠が世話になって、けれど、カット代は要らないと言われたから。
せめて一度くらい、自分が客として訪ねることにした。それだけではやはり申し訳なくて、菓子折りのひとつぐらいはと用意した。
そんなにおかしなことだっただろうか。
「悠は入学したてで、まだバタバタしてますから。大学生の俺のほうが自由に動けますし、俺自身、お礼に伺いたかったですし」
「そうじゃない。その役を本来担うべき人が、ふたりほどいるとは思わなかった?」
一瞬、息を詰めた。
今日のことは、柊吾が決めて柊吾が動いた。悠が両親と話したがらないから、大胆な変化の経緯は柊吾の中に留めておいた。これまでと同じに。それが当然と、疑問も持たずに。
それが、兄というものの務めだから。
「……あれ? 俺……」
最後に誰かに相談したのは、いつだったか。
悠の状況をいくら伝えても、両親には響かなかった。家庭のことを打ち明けられるような、深い付き合いの友人もいなかった。隣家の優しい夫妻には、どうしても迷惑をかけたくなかった。
――柊ちゃんは、大丈夫?
中学二年の朱莉が、電話越しにそんなことを言って。柊吾は朱莉に甘えて、抱えた不安を一気に吐き出した。
いつも朱莉が、聞かせてほしいと言うから。父とも母とも分かり合えなくても。たとえ解決の糸口が見つからずとも。積もったものをみんな朱莉が引き受けてくれたから、平然と立っていられた。
十一月の夜に手離したものの大きさを、こんなところで理解させられる。もしかすると悠以上に、いま危ういところにいるのは自分なのかもしれない。
頼るという発想が、なさすぎるのだ。
「苦労……なのかな。これ」
「負担を負担と自覚するのは、大事なことだよ。それから、吐き出せる場所もあるほうがいい。僕も欲しいし……と、完成っ」
カットクロスを外した俊也は柊吾の正面に回り込んで、直後、渋い顔をした。
「……挫折、してなさげ」
「いま、いろいろ自覚したので。やや持ち直してしまったかもしれません」
「サーフボード買い戻すのなら、まぁ、喜ばしいことではあるけど」
口を歪に曲げた俊也は、三段ワゴンの上に置いていたカウンセリングシートを手に取り、自身の首裏をぱんっと叩いた。
「くたびれ社会人は長期戦で取り組むとして。あ、もうすぐ二十歳になるのか。いいね、とりあえず飲みに行こうか」
「ぐいぐい攻めますね」
すると、ソファに戻ってこちらを眺めていた都美が、背もたれに腕をかけて笑った。
「兄、友だちいないんですよ。愚痴吐くところに飢えてるんです」
「そう! 専門行って就職して、ってやってるうちに、昔の友人ことごとく疎遠。大阪にならひとりいるんだけど、こっちにも欲しくて。仕事してるとなかなか縁を作る機会がないし」
ぐいぐいっと柊吾の肩を揉みほぐしつつ、鏡越しの俊也が人好きのする笑みを浮かべた。
「ま、単純に、お兄さんに興味が湧いたって話。悠くんのカット代と思って、一回飲みに行こ行こ」
「口下手ですよ、俺」
「そこは酒の力と僕の話術でこじ開けるから心配無用」
「それと、お兄さん呼びは、ちょっと……」
「おっけおっけ。柊吾さん、柊吾……あ、いいやもう。柊で」
ソファから「兄、雑ですから。頑張って」という都美の声がする。
鏡には挫折しそこねたサーファーが映り、最後に軽くワックスをつけたら、明日にも再起せんとするサーファーに格上げされてしまい。
ひどく出遅れたが。正しく、いまの自分の状態を理解して。
なぜ美容室にきて、会計後に飲み会の予約をしているのだろうと首を捻りつつ。
くたびれそこねた柊吾は、いくらか軽くなった足取りで帰路についた。
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