高校一年、春(一年八組)
それから一週間。
相手は『こざわ』、こちらは『たかさご』。出席番号順の席では遠く、そして、当の
なんと厄介そうな相手か。早速難しい課題を言い渡してきた兄、
登校してきたと思ったら、黄色いイヤホンを耳に突っ込んだままじっと机に視線を落とし。休み時間にはやはりイヤホンを耳に突っ込んで机に視線を落とす。放課後は
兄も兄だ。何を考えてあの仕上がりなのか。
ツーブロックのマッシュスタイル。ただでさえ重めの前髪を、目元にかぶるまで残してある。
防御壁が厚すぎる。前が見えているのか疑いたくなるほど。あれでは、関わってくれるなと言っているようなものだ。
向瀬高校は公立としてはハイレベルながら、立地は厳しく長い長い坂の上。登坂が少なくて済む近場の中学出身者だけでかなりの割合を占める。どうやら悠の中学から来た生徒はほとんどいないようで、彼は昼休みに誰と交流することもなく、自席でコンビニのサンドイッチを食べている。その間もやはり、耳には黄色いイヤホンを装着。殻にこもりすぎて、見ているこちらが不安になるほどだ。
「高砂、おーい、高砂ー」
「んぁ! 悪ぃ、ぼーっとしとった」
食堂の売店から戻ったクラスメイトに呼びかけられて、樹生は瞬時に外面を貼り付ける。
クラスメイトの手には校内食堂併設の購買部名物、カツサンドが輝いている。かなりの人気商品で、二時間目終わりの中休みに開催される予約戦はまさに
「なに、今日も古澤観察してんの?」
「んー、まぁ。あんだけ異彩放っとったら、どうしても見てまうやん」
「つくづく目立つよな。けど……古澤は……なぁ」
「ほん?」
「や、友だちの彼女取った取らないで
穏やかでない噂を聞くのは、これで三度目。大怪我をしたほう、させたほう、二種類の噂がある。噂とは往々にしてねじ曲がるものだから、どちらも信じるに値しないが。この噂もまた、悠から人を遠ざける一因となっている。
「頑張りたいて
「ん? なんか言った?」
「や、独り言」
大阪を捨て、姓を捨てられた自分とは違う。さぞ、古澤 悠という名が重いことだろう。
放課後、樹生はのんびりと帰り支度をしつつ、教室が空になるのを待った。
正確には、悠だけが残るのを。
他のクラスメイトの注目を集めずに話をできるのは、悠が日直に当たる今日しかないと思っていた。
自席で日誌を書く悠の元に、ゆっくりと足を進める。悠はあいかわらず両耳にイヤホンを装着して、自分の世界に入っている。
樹生は悠の机を指一本で軽く叩いた。
手を止めて顔を上げた悠と、初めて目が合う。なるほど、兄の言っていたとおり。噂になるのも当然とうなずいてしまうほどの、中性的で整った顔だ。
悠は
「……何か用?」
「忙しいとこ悪ぃんやけど。ちょっと話ええ?」
「日誌書きながらで良ければ」
「ええよ。兄貴から伝言があって」
と、悠の手が止まった。顔は日誌に向けてうつむかせたまま、ほとんど抑揚のない、力で押さえつけたような声で尋ねてくる。
「お兄さんてバスケ部?」
「……ほん?」
「それか、元バスケ部とか」
「部活歴は知らんなぁ。ほんで、学生やなくて美容師なんやけど」
美容師、と口の中でもごもごと復唱した悠は、ハッとしたように顔を上げた。もう片方のイヤホンも外して、シャーペンを置く。
「もしかして。線路越えたとこの」
「そ。リール・ヘアの高砂 俊也」
「その節は……大変、お世話に」
「逆。練習台になってくれてありがとうて」
樹生は鞄から兄の名刺を取り出し、机に置いた。裏返すと、QRコードが印刷してある。
「電話でもええし、こっからも予約できるし。あと、次からも学割で安くできるから、良かったら」
わずかながら、悠の表情が和らぐ。見えない壁がやや薄くなったと見て、樹生は悠の前の席から椅子を拝借して落ち着いた。
「名刺渡し忘れとったぁて、兄貴から頼まれた」
「そ、か。俺、あの日急いでたから……ありがとう」
「好き放題切ったけど大丈夫やったやろかて。兄貴、けっこう心配しとったから、一回顔出してもらえたらありがたい」
「改めてお礼に行こうと思ってた。けど、いつ行ったものかと。営業時間は忙しいだろうし」
「やったら、次の月曜にでも寄る?」
「定休日に時間もらうのも悪い」
「気にせんでええよ。月曜も夕方からオレか姉貴を練習台にしてアレコレやっとるし。話つけとくわ」
悠は両手で丁寧に名刺を取り、軽く会釈して鞄にしまう。
ここで切り上げるか、まだ踏み込むか。樹生は少し考えた末に、机に置かれたままのイヤホンを指でつついた。音漏れひとつなく、行儀良くスタンバイしている。
「……カツサンドが旨いらしい」
「へ?」
「食堂の購買で売ってるやつ。
「……へぇ」
「二時間目のあとに予約会あって。オレ、初日と二日目に行ってみたんやけど、あかんかった」
「そんな人気あるんだ」
「ちゃうねん。
言いつつ、樹生は自分の頭に手のひらをぺしっと乗せた。百七十センチにひと声足りない。おそらく悠なら、軽く樹生プラス十センチはある。食堂の遠い一年生があの熱気に勝とうと思うなら、身長と腕の長さはあればあるほど良い。まずちゃんと並んでくれよと言いたいが、飢えた男子高校生の群れを前に新入生の訴えなど無力だ。
「古澤、一回手伝ってくれん? コンビニサンドの倍以上のボリュームで二百円」
「安っ!」
驚きに目を丸くしたものの、悠はすぐに目を伏せシャーペンを手にした。日誌の続きを書きながら、口元には薄い笑みを浮かべる。
「お兄さんに、俺のこと何か言われたとか? だったら、気持ちだけもらっとく」
「ちゃうで。オレが古澤の高身長に目ぇ付けとっただけ」
とん、とん、と。二度シャーペンが日誌を打った。
「噂、聞いてない? 俺に関わってもろくな事ないよ」
どこかで、似たような言葉を聞いた。
よくよく考えたら、中学三年の六月だったか。樹生自身が、俊也に投げつけた言葉だった。
その響きの冷たさを、今になって知る。それでも退かずに大阪まで何度もやってきた兄の、抱えた想いのほんのひとかけらほどを、ようやく理解する。
今、目の前の悠を放っておきたくないと思う自分は。いくらかでも、俊也の弟だという顔をしても許されるだろうか。
「気ぃついてへんみたいやけど。孤立極めとったら、人間、悪目立ちするんやで」
どこか憂いを帯びた彼の顔が、もう一度上がった。
そうだ、食いつけと。樹生はうなずく。
「木を隠すには森てあるやん。オレ、このクラスの中限定やったら、古澤より目立てる自信あるわ。なんせ喋っとるだけで目ぇ引くからな」
悠の目が、ようやく樹生に関心を持ったように瞬いた。
「目立つタイプと一緒にいたって、余計目立つだけだろ」
「そらそや。けどセットでやろ。ひとりで悪目立ちしとるよりは個人が薄まるし。何より、そのほうが」
黄色いイヤホンの片方を手に取り、口端をくっと上げて樹生は頬杖をつく。
「無音のイヤホン突っ込んで黙っとるより、
慌ててイヤホンを取り返そうとする悠から、身体を反らして腕を逃がす。耳元に持っていっても、そこからは音楽どころか音ひとつ聞こえない。
これをずっと耳にはめる気持ちを、完全に理解できるとは思っていない。
ただ。自分には、あった。
優しい言葉も、気遣いも、何もかもが重かった。丁寧に扱われたくなくて、けれど放っておかれたくもなくて。耳だけは澄まして、部屋の隅で膝を抱えていた時間が。
無遠慮に踏み込んでもらえなければ、誰かと関わろうとは到底思えずに。
それなのに、誰かを待ってしまう。そんな日が。
古澤 悠も、そうだろうか。
そういう人間とどう接するか、教えてくれた恩人が大阪にいる。挑発するぐらいで丁度いいのだと、その人は実演して見せてくれた。
からかうような表情を作って、樹生は次の反応をひたすらに待つ。
半眼になった悠がじっとこちらを見て、やがて大きなため息をひとつ落とした。
「カツサンド一回、なら。名刺届けてくれたお礼に手伝う」
「ま、初回はそれで行こか。何事も初回あってこそ。一回一回の積み重ねやしな」
「お節介って言われない?」
「近所のじいさんばあさんからは評判良かったで。タツキくんおったら楽やわぁて、飴ちゃんとかくれたし」
「何をやって?」
「ゲートボールの片付けやろ、電球の交換、ほんで買い物の手伝い、犬の散歩代わってー」
指折りあれこれ思い出していたら、一瞬の隙を突かれ、イヤホンを奪い返される。悠はイヤホンを丁寧にハードケースに収めて、鞄にしまった。
「高砂が世話焼きだってことはわかった」
「あ、それ。やめてもろて、よろしい?」
「それって、どれ?」
自分から言い出しておいて、返答に詰まった。なぜこの場で口をついて出たのか、我ながら驚く。
入学からもう一週間になる。借り物のような『高砂』にも少しは慣れてきたつもりでいた。今日、友人と話している間も、特に違和感なく応答していたのに。
「あー……」
声にしてしまったからには最後まで伝えねば、せっかくこちらに耳を傾け出した悠に不信感を与えてしまう。悩んだ末、樹生は思うままを言葉にした。
「その、高砂て呼ばれるの。得意やない」
「……くん付けとか?」
「や、できれば名前のほうでお願いしたい」
すると、悠はしばらく目を泳がせてから、顔色悪くつぶやいた。
「…………ご、めん。名前……知らない」
「うわ! 古澤くんったらひどぉい! クラスメイトの名前ぇ」
「ごめんて!」
いくらか表情筋のほぐれてきた悠を、やや下方からにたりと見上げる。そして、樹生は日誌の報告欄を指した。
「ほな、古澤くーん。ここに書きましょかぁ。今日は同じクラスの樹生くんとオトモダチになれましたぁて」
「っ、それ小学生の日記だろ!」
まずは、第一歩。
悠を怒らせることに成功しつつ、樹生は兄から押し付けられた課題をクリアした。
まだ樹生は悠のことを何も知らず。悠に、自分を何ひとつ明かさず。
この始まりの日を、悠が「第一印象、最悪だった」と笑って、樹生が「オレの性格が悪すぎる」と苦笑するのは、ずっとずっと先。
ふたりがともに酒を飲める年になってからのこととなる。
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