高校一年、春(一年四組)

佐伯さえき 結衣ゆいです。門木かどき中学から来ました。よろしくお願いします」


 その声は、朱莉あかりの耳をシパッと貫くようだった。

 正しくは、声ではなく。声によって伝達された彼女の名が、だ。


 入学までに、何度この名を聞いただろう。朱莉の幼なじみ――はるを、二度も暗い海の底のような場所から呼び戻した、奇跡の担い手である。


 出席番号順では席が遠く、朱莉の位置からは彼女の横顔が見える。


 ――爽やか可愛い系、か。


 緊張していたのだろう。自己紹介を終えて座ろうとした結衣の手は、自身のペンケースを薙ぎ払い、中身を床にぶちまけてしまった。

 あわあわと床にしゃがんで拾い集める彼女を、前の席の男子生徒が手伝う。確か、木田きだとか名乗っていた。ささやきで礼を述べる結衣の笑顔には、パッと花が咲くような暖かさがある。


 ――おっと……悠、頑張らないとまずいんじゃない?


 悠にとっては運命的な出会いだったから、その分の贔屓目ひいきめが多分にあるだろうと思っていた。しかし、実物は贔屓目抜きにしても、癒し系で人が良さそう。目立つタイプではないが、笑顔は惹きつけられるほどの可愛さ。グイグイ前に出ないタイプの男子相手に、高い威力を発揮しそうだ。


 さて、彼女は現在フリーなのだろうか。周りの自己紹介を雑に聞き流しながら、幼なじみの想い人をそれとなく観察する。


 その間にも、ひと言自己紹介はサクサクと進んで、朱莉の番がやってくる。椅子を引いて立ち上がり、軽く呼吸を整えた。


 大丈夫だ。東第二中学から向瀬高校に進学したのは朱莉と悠のふたりだけ。ここに地声を知る者はいない。そう、自分を奮い立たせる。


仁科にしな 朱莉あかりです。東第二中学から来ました。よろしくお願いします」


 隣家の兄、柊吾しゅうごに鍛えられたアナウンサー声で挨拶する。いくらか視線を集めたが、何かをささやかれたりする様子はない。ほっと息をついて緊張を解き、朱莉はまた席についた。今日の一大イベントをやり終えた達成感がある。


 そのまま、何事もなく終わるかと思ったら。

 異変は、朱莉から三人進んだところで起きた。


 肩甲骨辺りまで伸びた綺麗なロングを味気なくひとつに縛った、小柄な女子だった。彼女が椅子から立ち上がるなり、教室の後ろのほうで密やかな笑い声が起きて、それがやたらと空気を掻きむしった。


 よく受かったよね、とか。

 教師に色目使って通してもらったんじゃないの、とか。


 どの程度まで声を出せば相手が聞き取れるかを把握している。いかにも、悪意を使い慣れている者のやりかただ。小学校、中学校と。どこまでも朱莉を悩ませてきたものと同じ。それが、教室の最前列の席で立つ女子生徒の背中に向けられている。


 向瀬むこうせ高校は公立といえど進学校だ。このレベルの学校に、こんなくだらないものがあるとは思わなかった。


 ――良い学校じゃ、ないみたいよ。


 隣家に住む兄がわりが十一月にくれた励ましの言葉に、内心で文句をつける。


 くす、くす、とあざけるようなその声がいよいよ不快だ。止める様子のない担任の顔を、朱莉がちらりと見たときだった。


 立っていた女子生徒は、悪意の囁くほうへと顔を向け、にんまりと口端を吊り上げた。ぱちりとした二重の大きな目が、好戦的な猫のようだ。バツンとオン眉で揃えた前髪がよく似合っている。


「それさぁ。この高校が、色目なんかで合格出しちゃう残念な学校だってことになるけど? そんで、そんな残念な学校にアナタも入ってるんだけど、気分はどぉ?」


 しん、と。

 返り討ちにあった悪意が、口を閉ざす。

 濁った水溜まりを踏んづけて満足したみたいな、そんな顔で。彼女は黒板に背を向け、クラス中を見回すようにして。


三原みはら 織音おと。すぐそこの向武台こうぶだい中学から来ました。同中の女子からはめちゃくちゃ嫌われてますけど、まぁ、気が向いたら、どうぞよろしく」


 そして、最後に。

 肩をすくめて、ふっと笑ったあと。彼女は皆に背を向け、さっさと椅子に座った。


 なるほど。その立ち居振る舞いのすべてが、人の目を引き寄せる力を持っている。

 天が気合いを入れすぎたような造形美の幼なじみがいるから、朱莉にはよくわかる。三原 織音は、悠と同じ。自身の外見が起因となって、しなくてもいい苦労をたくさんしてきたのだろう。


 贅沢な悩みだと他人に言われ、痛みを正しく汲まれることもなく。ややいびつに、自分で自分を守ることを覚える。織音の人を食ったような態度に、悠の長く伸ばした前髪が重なって見えた。


「はい、次。続けて」


 教室に満ちた心地悪い空気の中、ようやく担任が声をかける。自己紹介が再開されて、朱莉は小さくため息をついた。


 * * *


 入学直後にグループワークとは、なかなか悩ましい。しかも、いきなりの校外学習である。


 だったら大人しく出席番号順にすればいいものを、なんの親切心か、担任は班決めを生徒に丸投げしてくれた。あの自己紹介の最中、ほとんどだんまりを決め込んでいたような教師だ。朱莉はすでに、担任にあまり期待すまいと判断している。


 ――結果的には、ありがたいし。


 この段階で自由にと言われれば、出身中学が同じ者同士で固まるものだ。最寄の向武台中学出身者が過半数を占める中、少数派閥の朱莉が、同じく少数派閥の結衣とグループを組むのは当然の流れだった。

 三人ひと組ということで、最後のひとりには、どうも周囲と溝の深そうな織音が入った。



 市外にある大きめの世界文化資料館内を、三人で見て回る。他のグループがさっさと通過していく中、朱莉たちは三人が三人とも、こういうものをじっくり見るタイプだったらしく。行動開始から十分もすれば他グループからは大きく離され、行く先々で人がまばらになってきた。


「やばい、これもう世界旅行じゃんね」

「だよねぇ。アフリカの奥地なんて、個人でなかなか行けないよ」

「わたしなら……右から三番目の仮面……」

「えーと。右から三番目は……あ、族長の仮面なんだって。仁科さん、族長になるよ。お目が高い」

「族長……権力じゃん! 仮面って拝んだりするべき?」


 まばらとはいえ、人はいる。軽く張った織音の声に反応したように、笑い声が響いてくる。声のするほうをちらりと見れば、同じ制服の女子が慌てた様子で顔を背けた。

 

 アフリカ文化にはしゃいでいた織音が、途端に表情を引き締める。


「ごめん。あたし、うるさかった」


 織音の謝罪に、朱莉はいたたまれない心地を抱いて顔をしかめた。結衣もしょげたように視線を落とす。

 グループ分けから今日までの短期間でも、それなりに人柄はわかる。三原 織音は大変に素直で、感情がすぽんと外に出る人だ。それは、朱莉にとっては何らマイナス要素にならない。むしろ、好ましい。反応から察するに、結衣にとってもそうなのだろう。


「気にすることないわ。人が減った分、声が通っちゃうだけよ」

「うん、私語禁止とかも書いてないよ?」

「や、良くない良くない。高校では目立たず地味にって……まぁ、初日からアレだったけどさー」


 アレ、か。

 残念な自己紹介風景を思い浮かべ、朱莉は苦笑した。


「中学のことを知らない以上、どちらの肩を持つつもりもないけど。こそこそ仕掛けるほうより、堂々迎え撃つほうが美しかったわよ」

「ね。カッコいいなぁと思った」


 うんうんとうなずいた結衣が、少しばかり眉を下げて、つま先で床をつついた。


「私、ああいうの向けられても、笑ってごまかして飲み込んじゃうタイプだったので……憧れます」


 自嘲混じりにそんなことを言う結衣を、意外に思った。悠との出会いの仔細を聞いていたから、悪意に対して強気に出る人柄だろうと思っていたのだ。


 他人のためには動けても、自分に向けられる矛は折れないのか。


 結衣の情報を更新しながら、朱莉の中に少々の好奇心が湧いた。彼女は、他人の弱点に対してどんな反応を見せるのだろうかと。中学三年の悠に降った奇跡が、単に彼女の点数稼ぎだったという可能性を、朱莉は捨てていない。実際、そうやって悠に取り入ろうとする女子は、少なからずいたのだから。


 もともと、彼女の人柄次第では、悠から遠ざけるつもりでいた。さんざん傷ついてきた幼なじみを、今度こそ守りたい。

 試すには、良い機会だろう。悠より先に朱莉が彼女に接近できたのを、天の采配と受け止める。


 緊張に、心臓が騒がしくなる。

 胸元に軽く手を当てて、朱莉は声の制限を解除した。


「わたしもそうよ。立ち向かうより、回避するほうを選んでるもの」


 地声を人前で使うなんて、いつぶりか。自分自身ですら違和感を覚える。柊吾と話す機会をほとんどなくしてから、この声はずっとしまい込んであった。


 ふたりが目を丸くして、朱莉の顔を見つめてくる。肩をすくめて、うん、と咳払いをひとつ。


「こっちが地声。普段のが作り声」

「え……」

「えええええええ!?」


 驚きを声量にまるっと乗せた織音が、慌てて両手で口を押さえる。そうして、おそるおそるというように手を離した。


「ちょ、切り替えて?」

「これが普段。イメージはアナウンサー」

「うん。そんで?」

「こっちが地声。子供向けアニメって言われがち」


 ふたりの瞬きが、多い。まぶたが持つ力の限界に挑もうとしているかのようだ。


 ここから慰めが来るか、褒められるのか、おだてられるのか。

 さぁ、どこからでも来いと構えていたら。


 まず、織音がぶっひゃと吹き出した。


「え、え、え、すごいじゃん!? 声優!? プロ!? ちょ、あたしもやりたいソレ!」


 織音は真剣に声の高低を変化させ、結衣に「どう?」と尋ねる。結衣は結衣で「ぁ、あ、ぁぁ?」と声をいくらか試したあと、きゅっと眉根を寄せて自身の鞄を漁り始めた。


「地声、すごく素敵だけど。無理しなきゃいけない事情があるんだよね」


 慰めタイプか、と冷めた分析をしつつ朱莉はうなずいた。

 しかし、真剣な顔で結衣が鞄から取り出したのは、十粒をスティック状に梱包したのど飴だった。


「喉が疲れると思うので。これ食べて。あ、違うな、なめて?」

「確かに、これ喉にくる。あたしにも一個ちょーだい」

「開けよ開けよ。いっぱい持ってるんだよ。私、中学は合唱部入ってたんだけど、喉で歌うな腹で歌えがよくわからなくて、よく痛くなっちゃって……って、そんな話はいいや」


 ぶわぁと喋りながら、結衣は魔法みたいに鞄からスティックのど飴をあれこれ出してくる。


「私の前でどっちの声を使うかは、仁科さんの快適なほうで良いんだけど。いつも頑張ってるその喉にはご褒美がいるんじゃないでしょうかっ」

「……持ち過ぎじゃない?」

「春は乾燥するのです。備えあれば憂いなし」

「だからって、こんなになくても」

「でもほら、こうやって分け合えるから、たくさんあって良かった!」


 スティックのど飴四種を構える結衣は誇らしげだ。その四種を指で叩きながら、どれにしようかと織音が歌う。


 笑われた。笑われたけれど、嗤われなかった。それから、喉の心配なんてされてしまった。

 踏み込まれることも、曖昧に慰められることもない。だけど、無関心に流されもしない。


 手のひらに、のど飴をひと粒ずつ乗せられる。どれも銀の包装紙で包んであって、オレンジとゆずとレモンと梅だと、結衣がひとつずつ指さして教えてくれる。

 早くもひとつ口の中に放り込んだ織音が、しゅぽっと口をすぼめる。そして、朱莉の手から梅味の飴を取って包みを剥がし始めた。


「はい、あーん」

「え、ぁ」


 つられて開いた口に、飴をほいっと入れられる。直後、朱莉は織音と同じく口をすぼめた。


「酸っ…………!!」

「やばくない!? 梅強すぎぃ!」

「そんなに? 梅味、初めて買ったんだけど」


 慌てた結衣が、自分の口に飴を放り込む。途端、彼女は顔をしかめて両手で口を押さえた。


「酸っぱぁぁ」


 酸味の暴力に苦しむ結衣の背中を、織音が笑いながらぺちぺち叩く。その隙に、朱莉は目尻にほんのりと滲んだものを、そっと指ではらってごまかした。


「って、あれ? 私たちしかいなくなってる?」


 結衣の声にハッとして腕時計を見たら、集合時間まであまり猶予がなくなっていた。先の見学ルートにはまだ、北米と南米ゾーンが残っている。


「だー! 梅どころじゃない! 急げ急げ!」


 急ぎ足でアフリカに別れを告げ、次のゾーンへ向かいながら。

 織音がふひっと笑った。


「なんか、高校は楽しくなるかもって気がしてきたなー」

「……そう、ね」


 中学までの環境から逃げ出せさえすれば。その一心で、勉強にしがみついてきたけれど。


「私もそんな気がしてきた」

「ねー」


 すると、一歩先にいた結衣が、くるりとこちらに顔を向けて笑った。


「楽しく、していこうよ」


 そのひと言で、陽が射した。

 受け身でいないで一緒に作っていこうと、手を差し伸べられたような気がした。


 ――ほんとに、ひまわりみたいなんだよ。


 照れる素振りも見せずに、そんなことを言っていた悠を思い出す。


 なるほど、と。

 朱莉は結衣の右隣に並んだ。


 楽しくなるんじゃない。楽しくするのだ。

 自分から、ちゃんと手を伸ばして。


「佐伯さん。名前で、呼んでもいい?」

「え!? も、もちろん! 佐伯でも、結衣でも」

「じゃあ、私のことは朱莉でお願いします。三原さんも、いい?」


 織音が朱莉と結衣を追い越して、真正面に立ちふさがる。その顔は自己紹介のときと同じで、こちらに挑んでくるようなものだ。


「あたしといると、女子に敵増えるかもよ?」


 鋭い視線に結衣がこてっと首を傾げ、こちらを見た。


「合気道とか始める?」

「そういう方向性の敵ではなさそうね」

「頭脳戦?」

「どちらかというと、舌戦?」

「じゃあ、早口言葉で鍛える、とかかなぁ。あれ、あれ。となりの柿がよく客食う……」

「待って。食わせない、客を食わせない」


 そこで破顔した織音が、結衣の左隣を埋めた。


「んもぅ、しょーがないなー。じゃ、あかりんとゆいこね」

「りん、て。どこから出たの」

「どっちも音増えてるよ?」

「いいのいいの」


 結衣を真ん中に、朱莉が右で、織音が左で。

 これが自分たちの定位置になって、それが三年後も、五年後も、もっと先まで続いていくなんて。


 そんなこと、思いもしないような。

 けれど、ぼんやりしたと予感があるような。

 そんな、高校一年の春だった。

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