高砂樹生はチョコを尽くされる

「ハッピーバレンタインっ」


 二月十四日、市立大学の正門前にて。

 織音おとは個包装された硬貨型チョコが大量に入った袋を樹生たつきに渡した。凝ったラッピングなどない。透明袋を金色のビニールタイで閉じてあるだけだ。樹生の友人ふたりが、無言でチョコを見つめている。


 ほんの数分前、樹生が真顔で「こちら、彼女……」と織音のことを紹介してくれた。二月十四日に内緒で彼氏の大学を訪れた彼女とくれば、用件は言わずと知れたもので。彼らが期待の眼差しを向けてくるから、あえて目の前でチョコレートを出したのに。大量の駄菓子チョコを前にどう反応していいかわからないらしい。


 一方、主役の樹生は。

 ずっしりとした袋を織音から引き取り、しげしげと眺めた末――ぶっひゃと吹き出した。


「食い放題や!」

「でしょー。なんと百個入り」

「百て! 最高やん!」


 大笑いのあと、「ありがとうございますっ」と両手で軽く袋を掲げる。


「くそ、羨ましくなってきた」

「良かったなぁ、高砂たかさご……百個もあって」


 友人たちのそんな声を受け、織音は袋のビニールタイをねじねじと緩めた。「えっ」と戸惑う樹生の反応を無視して、個包装されたチョコを適当に掴んで取り出す。上手い具合に四つ取れたから、左右の手にふたつずつ乗せて、樹生の友人らに差し出した。


「はい! どーぞ!」

「いいの!?」

「おすそわけです」

「彼女さん最高だなぁ高砂ぉ!」


 ホクホク顔でチョコを受け取る友人らを樹生はじとりと半眼で睨み、織音の手からビニールタイを奪ってキュッキュと締め直した。不満そうな顔で、袋を鞄に詰める。


「オレの初チョコやのに……」


 声音がいじけている。これは可哀想なことをしてしまったかと反省し、織音は樹生の友人らに会釈した。


「高砂くんのこと、譲ってもらっていいですか?」

「もちろん!」

「お好きに連れてってやってください」


 それじゃと、樹生のジャケットの袖を摘まんで歩き出す。すぐに歩調を合わせた樹生は、まだいじけた顔のまま、こちらに向けて手を差し伸べてきた。


「ええか?」


 許可を取ろうとする癖はなかなか治らない。織音がうなずくのを待ってから手を繋いでくる。互いの指が絡み、手のひらがぴたりと触れ合う貝殻繋ぎ。樹生はこのかたちを好む。


「まさかここに来るとは思わんかった」

「でしょ! 楽しみだったんだぁ」


 織音はすでに大学の後期テストを終えて、樹生より一週間早く春休みに入った。この日程のズレを利用してのサプライズだ。


 今年は結衣と朱莉と一緒にお菓子を作るつもりだったのに、ふたりの通う英星大は休講が多すぎた影響で、春休みが後ろ倒しになるという異例の事態。

 さぞや残念だろうと思ったら、ふたりとも、それはそれで大学帰りにチョコレートを渡す楽しみができたなんてことを言う。


 なんだ、その青春色の強いバレンタインは。そんなの自分もやってみたいじゃないか。

 彼氏と同じ大学に通うふたりが急に羨ましくなって、ささやかに真似事をしてみた。おかげで、人前で照れを隠して真顔になる樹生を味わえた。


「しっかし、食う前からチョコ減るとも思わんかった」

「ごめぇん。まだあるから良いかなって」

「そら、山盛り残っとるけど」

「そっちじゃなくて」


 織音は後ろをちらりと見て、大学からかなり距離を取ったことを確かめる。


 一度樹生の手を離し、鞄からもうひとつ袋を取り出す。今度は透明袋だけでなく英字新聞風なワックスペーパーも使い、細い紐状のペーパーリボンを掛けてある。中に入れたのはココアクッキーだ。彼氏の学友の前で手作りお菓子を渡すのは、さすがに照れくさくて無理だった。


「ハッピーバレンタインっ」


 ひひっと笑ったら、樹生は「うわ……」と照れ顔で袋を手に取った。


「お手製、よな?」

「そう、織音サマはお菓子も作れる!」

「すご……ほんま。ありがとぉ。うわぁ……めっちゃ嬉しい」


 本当はアパート近くの公園にでも寄って渡そうかと思っていたが、そこは臨機応変といく。うっかりいじけさせてしまったから、早めの回復をはかるのがいい。


 すっかり機嫌を良くした樹生が、いそいそとウェットティッシュを取り出した。


「ちょい、たっつ。ここで食べないよ?」

「え、あかんの?」

「あかんでしょ。帰って、あったかぁくして、落ち着いて食べなさーい」


 この場でラッピングを解きたがる樹生の手を止めて、やや強引にクッキーを鞄にしまわせる。


「ほら、帰ろ」

「あっさりしすぎやない? 初バレンタインやのに」

「いいからいいから。早くかーえろ」


 樹生と手を繋ぎなおし、織音ははやる心を落ち着かせる。

 まだまだ、今年のバレンタインはこれからなのだ。





 高校時代の樹生は一年の頃から悠とセットで動いていて、悠ほどではないが女子から距離を取られる存在だったという。そんな樹生がこれまで唯一もらったバレンタインチョコは、都美からの『漆黒の稲妻ウェハース』だったとか。期間限定シールを手に入れるために利用されただけだったとか。そんな話を聞いて笑いながら、アパートに帰り着く。


 こちらの部屋に来ようとする樹生を止めたら、戸惑った顔をされた。


「そっちでクッキー食べよかなて思たんやけど、あかんかった?」

「片付けるから、ちょっと待って」

「……了解」


 その了解が取り繕った笑顔だと、すぐにわかるようになった。


 本当はしっかり片付いているし、多少散らかっていても今さらお互い気にしない。樹生の訪問を断ったことは一度も無いから、余計にショックだったのだろう。

 そんな思いをさせてしまうぐらいなら、やはりここも臨機応変といく。


 一度部屋に帰ってもらって、インターホンを押すつもりだったけれど。公園に寄る案も無しにしたから、今度も些細なこだわりは捨てる。スムーズでダメージの少ないサプライズは、織音には難しいようだ。


 鞄から小さな箱を取り出し、樹生に「んっ」と突きつけた。


「ハッピーバレンタインっ!」

「三、回目ぇ?」


 今度は、駅前のコンビニで売っているほんのりお高めのチョコレートだ。箱入り四粒。去年も同じもののパッケージ違いがレジ前の棚に並んでいた。


「多すぎん?」

「初バレンタインだからねー」


 呆気に取られたままの樹生にぐっと親指を立てて見せて、織音はつま先立ちで彼の頬に唇を軽く押し当てた。


「ほんっ!?」

「ちゃんと招待するから、安心して」


 少し熱くなった自分の頬を擦りながら、自室の鍵を開ける。


「え、織音……どういう」

「五分後! 手ぶらで身軽でお越しくださーい」


 言い置いてドアを閉め、大急ぎで準備にかかる。

 鞄を洗面所の隅にぽいと投げて、しっかり手を洗う。キッチンに移動して、まずは電気ケトルをセット。マグカップには紅茶のティーバッグを入れる。

 続いて冷蔵庫から保存容器を取り出す。中にはホールを六等分にしたガトーショコラが整列している。我ながら良い出来だ。

 真っ白な皿にガトーショコラを乗せる。そこでケトルがカチンと鳴ったから、マグカップにお湯を注ぐ。

 ガトーショコラには粉砂糖をふるいかけ、出かける前にホイップしておいた生クリームを添えてミントの葉を飾る。時間をおいてしまった分、生クリームがややゆるくなったのは致し方ない。

 ケーキの乗った皿とフォークを座卓に配置し、マグカップも運んだところでインターホンが鳴った。


 完璧なタイミングに思わず拍手だ。


 玄関ドアが開いて、困惑顔の樹生が入ってくる。織音の指示通り手ぶらで、ジャケットも眼鏡も置いてきている。


「来たけど、どしたらええ?」

「手洗って待っててぇ」

「ほい」


 指示を飛ばし、ぱたぱたと居室から洗面所へ向かう。樹生が手を洗い終わるのを待って、その両手を取った。


「はい、目ぇつぶってー」

「何させられんの、オレ」

「移動しまーす」


 まぶたを下ろしたままの樹生をゆっくり誘導して居室に入る。座卓近くで足を止めて、両手をそっと離した。


「開けていいよ」


 ゆっくりとまぶたを持ち上げた樹生はきょとんとして、それからふと気付いたように視線を下げた。ヘーゼルの瞳をガトーショコラにぴたりと定めて、あんぐりと口を開ける。


「へ、ぇ、四回目ぇっ!?」

「お待たせしました。今年のバレンタインチョコです!」

「……今年?」


 樹生の顔がこちらを向き、真剣な眼差しをぶつけられる。まだ何も説明していないのに、やっぱり樹生には織音の考えることなんてお見通しだ。少し強張ってしまった彼の両頬に手を当てて、むにむにっとほぐした。


「税金払ってなかったら遡るじゃん」

「もうちょい雰囲気出るたとえ、ない?」


 呆れながらも樹生が笑ってくれたから、織音もひひっと笑い返す。


 高校二年の二月は、カワタの駄菓子チョコを買った。これなら友チョコだから問題ないと思って。

 高校三年の二月は、勉強の息抜きにクッキーを作った。家庭教師のお礼だとか、友人たちに渡すついでだとかで通せると思って。

 去年は、絶対に用意しないつもりで。コンビニで目が合ってしまったチョコレートを、三度見送って、四度目に買った。可愛かったからとか、値引きしていたからとか。まともな言い訳は思いつかなくて。


 毎年用意して、一度も渡さなかったチョコレート。どこからが本命だったのだろうかと考えて、そうして気づいた。

 初めからだ。言い訳をしてでもチョコレートを用意するほど、樹生のことを意識していた。自分はどうやら、恋心にひどくうとかったらしい。


 正しく理解したら、みんなまとめて渡したくなった。なにぶん強欲なものだから。


「渡し忘れてたやつ、全部持ってきてみた」

「贅沢やなぁ」

「今年だけだよ。来年からは一年分しかないけど、がっかりしな――」


 言いかけた言葉は樹生の胸に押しつぶされた。あいかわらず筋トレ男子の体は少々お硬い。ぷほっと顔を上げて呼吸を楽にしてから、肩にのしかかる彼の頭を撫でる。体は硬いけれど、マロンブラウンの髪は見た目以上に柔らかい。


 酷だっただろうかと、不安が胸をよぎる。

 樹生は遠回りした三年を悔いる言葉なんて、織音の前で口にしない。けれど、後悔が彼の中に今もくすぶっているのはわかるから。このサプライズは彼にとって、責められているように感じるものにならないか。楽しみ九割、心配一割で、織音は今日を迎えた。

 

「……落ち込ませた?」


 尋ねたら、肩に乗る樹生の頭がふるふるっと動いた。


「意外とそういうのは無い。ただ……」

「何? 隠さないで、心全裸でどぉぞ」

「……織音、めっちゃ可愛いよなぁ」

「ほぁ!? そ、そういうやつは包み隠していいぞぉ!?」

「隠すなて言ぅたばっかりやん」

「そんな方向だと思わなかったの!」


 織音が両頬にぷわぁと熱を広げていたら、樹生の頭が肩から離れた。こつんとひたい同士を当てるのは、すっかり自分たちの間に定着した合図だ。目の前にあるヘーゼルの瞳に乞われ、織音はくすぐったい心地で微笑んだ。


「……いいよ」


 許可を出して目を閉じて、樹生の気持ちを迎え入れる。唇を重ねるだけの五秒で離れてしまうのは寂しくて、織音のほうから追いかけて三秒追加で貰う。深追いすると止まらなくなるからここで諦めて、一度ぎゅっと彼に抱きついてから離れた。


「よし、ガトーショコラ食べよ」


 途端、今までの甘い雰囲気を吹き飛ばし、樹生がカッと目をいた。


「これ、ガトーショコラ!? 織音が作ったやつ!?」

「そだよ?」


 樹生はその場にあぐらをかいてガトーショコラを凝視した。それから、親指と人差し指で高さを測り始める。


「何したらこうなる……オレのガトーさん、石畳いしだたみみたいやのに」


 あれ、と。織音は首をかしげた。うぅむと考え込む樹生のとなりに座って、彼の悩み顔を下方からのぞく。


「作ったことあるの?」

「……あ」


 樹生はいかにも失言という風に、片手で自身の口をぱふっと塞ぐ。出来過ぎ魔神の彼にしては珍しい姿だ。さては昔の恋愛話かと、織音はにたりと口端を持ち上げた。


「いつ、誰にかなぁ?」

「なんか、良からぬ想像しとるやろ」

「いやいやぁ? たっつの元カノに興味津々だなんて思ってなぁーい」


 にひにひと答えたら、樹生にため息をつかれた。


「……昨日」

「昨日!? テスト期間中でしょ!?」

「初バレンタインやから。オレから織音に渡すんも、ありかなて」

「……ぁ、と。ごめん。そう、いう……ことかぁ」


 見事な勘違いだった。急速に熱くなる顔を自覚しながら、そっぽを向いてしまった樹生の膝に手を置く。ねぇと顔をうかがったら、ヘーゼルの瞳だけが動いてこちらを見た。


「元カノとか、おらんし」

「ごめん」

「時間かかるし、泡だてで腕つるし、ぜんっぜん膨らまんし。めっちゃ硬いし」

「ごめんてぇ。機嫌直して」


 拗ねてしまった樹生が、ガトーショコラにフォークを刺す。生クリームを一緒にすくって、むくれた顔でフォークをくわえる。

 直後、樹生は「うまぁ……」と目を輝かせた。けれど思い出したように拗ね顔を貼り付けなおし、またフォークを刺す。

 しかたないなぁと、織音は樹生の袖を引っ張った。


「ねー、あたしも食べたい。樹生のガトーショコラ」

「だから失敗したんやて」

「それでも食べたい。冷蔵庫? 取ってきていい?」

「……あとで持ってくる。今は美味しいほう食べぇ」


 珍しく無許可でキスがやってくる。チョコレートの甘さがたっぷりと口中に広がったところで、唇が離れた。


「お菓子作ってみよか、とか。そんなこと、織音にしか思わんもん、オレ」

「はい。ごめんなさいでした」


 結衣も朱莉も、彼氏を可愛いと表現することがある。成人男性相手に可愛いは無いだろうとずっと思ってきた織音だが、間違いを認めざるを得ない。


 我が彼氏どのは、時々どうしようもなく可愛い。

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