古澤柊吾はチョコから逃走する

 織音は料理も製菓も敵なしの上手さである。

 結衣はデコレーションこそ苦手だが、きっちり手順を守って美味しいものを作る。


 さて、朱莉はどうかというと。

 小学校五年の冬に歯が立たないクッキーを作って以来、お菓子作りをしようと思わなくなった。大学二年現在、料理はできるが製菓の腕は不明だ。冒険心のない性格なので、昨年のバレンタインは有名店のチョコレートをプレゼントした。


 今年はまだ一月のうちに遠出して、フルール・ササウィという専門店のチョコレートを準備した。これで問題なく、穏やかな二月十四日を過ごせるはず――だった。





 二月十四日、当日。

 正門で悠と待ち合わせだという結衣を見送って、朱莉は大学の談話室で柊吾を待っていた。四人がけの円テーブルの向かいでは同じ学科の友人――美沙が、肺から絞り出すようなため息をついている。美沙はこの間の日曜、年上彼氏との二年間の交際に終止符を打ったばかりだ。


「日々のLINeがさーぁ。時間も遅いし、残業お疲れーしか送れること無くなっていくし。デートしてもくたびれ具合がすごくて。休日に付き合わせたっていう罪悪感しか湧かなくなった」

「じゃあ、美沙から?」

「彼氏から。美沙の時間を奪いたくない、だってさ。大学時代からやたら私のためみたいな言い回しする人だったけど、最後までこれかぁって」

「それはしんどい……」

「ちなみにその前の週、スーツの女の人と腕組んで歩いてた」

「あぁぁ……」


 なんと返せばいいものか。朱莉がひたいに指を沿わせてうめいたら、美沙の心配そうな目がこちらをちろりと見た。


「朱莉の彼氏さんなんか、大変そうだよね」


 大学院への進学を選び学生の身分を二年延長した柊吾も、あとひと月で卒業だ。四月には社会人。あの古澤 柊吾が世に放たれるのである。

 いよいよか、と。朱莉は美沙の心配に苦笑する。


「やっぱり難しいのね。社会人と学生になっちゃうと」

「ん、難しかった。学生時代と違って向こうは忙しいし、こっちは話ついてけないし。会話は減るわ励ましは空回りするわで、喧嘩ばっかりになっちゃった」

「そう……」


 当面独り暮らしの予定がないという柊吾の言葉に、心のどこかで甘えていた。

 生活時間が合わない寂しさは、彼が大学に入った当初に日々感じた。あの頃以上に顔を合わせられない生活になるのかもしれない。


 朱莉が想像に意識を飛ばしていると、美沙がばたばたとこちらの目の前で手を振った。


「ごめん! 愚痴のつもりが不安にさせたよね!」

「いいのいいの。わたしもそろそろ、ちゃんと考えて覚悟しなきゃいけないことだから。ありがたいアドバイスとして聞いてる」


 少し力の入ってしまっていた肩を緩めると、その肩を大きな手にぽんと叩かれた。叩かれたのは朱莉なのに、美沙が「ひぁっ」と声を上げ、気まずそうな顔をする。


 肩に置かれた手には、古い傷跡が目立つ。

 いつから談話室に来ていたのだろう。柊吾が困ったように眉を下げ、口元に薄い微笑みを作って立っていた。


「もう少し時間つぶして来ようか」


 途端に、美沙がガタンッと立ち上がる。


「大丈夫です! 私バイトあるんで、朱莉は差し上げますっ!」


 両手を合わせて詫びの顔を見せた美沙は、逃げるように走っていく。残された朱莉は柊吾の顔を見上げ「聞いてた?」と尋ねる。けれど、柊吾は困り顔をさらりと消して「何が?」と返してくるだけだ。


 だったら深追いはするまい。

 朱莉はテーブルに置いていた紙の手提げ袋を引き寄せた。フルール・ササウィの箔押しロゴが上品な袋だ。


「ここで渡してしまってもいい?」

「うん。家は悠に譲ったから、今いただこうかな」


 去年よりあっさりした反応だったが、いざ手提げ袋を渡すと柊吾の頬にはえくぼが浮いた。


「今年もまた良さげなものを。ありがとうございます」

「お口に合うといいけど」

「朱莉が選んでくれたってだけで満点」


 大学にいる間の柊吾は大人スイッチをオンにしている。構内ではくねくねとしている姿を見せない。澄ました顔でとなりの椅子に座った彼は、袋から出した箱を開けて穏やかに笑む。


 箱の中には六種類の美しいチョコレートがお行儀よく座っている。その艶々とした輝きを見るなり、朱莉はもうひとつの贈り物のことをいったん忘れた。この輝きのとなりに並べるのは分が悪すぎる。


「美味しそ。フルール・ササウィ……となると、フランス?」

「残念。オーナーパティシエは笹井さん」

「日本だった! ウィって!」


 何かツボにはまったらしく、柊吾がけたけたと笑う。今ひとつぐらい食べるのかと思ったが、彼はチョコレートに手を付けず、蓋を戻して紙袋にしまった。


「朱莉、今日はこのあと予定あり?」

「なし。うちに来る?」

「んー……」


 朱莉の提案に柊吾は悩み顔を見せた。何か相談事があるとき、彼は仁科家以外の場所を選ぶ傾向にある。


「じゃあ『ねこだまり』は?」

「無難かな。バイト卒業までに従業員割りの恩恵を堪能しないとね」


 最近はあえて、卒業や就職のことを話題にするようになった。春からの新しい生活へ向け、お互いに心の準備をしている。



 正門を出るとすぐ、彼の左手が指をくいくいと曲げて朱莉を呼ぶ。手を繋いで一緒にこの道を歩くのも、あと一ヶ月ほどだ。談話室での美沙との会話が頭を過って、繋いだ手に少しだけ力を上乗せしてしまう。


 表情はできるだけ明るくして、春からのことを話す。

 先々への不安を全く感じていない柊吾のとなりで、自分だって同じように落ち着いてみせたい。朱莉の虚勢を見抜いたように、左手が強く握り返してくるけれど。



 カフェ『ねこだまり』が見えたところで、朱莉は一度彼の手を離した。

 談話室ではフルール・ササウィの美しさに負けた。このうえ『ねこだまり』でケーキを食べるなんて話になったら、ますます渡しづらくなる。


「柊ちゃん。お店に入る前に渡しておきたい物があって」


 朱莉が肩からトートバッグを下ろした途端だ。


 柊吾が全身を強張らせ、端正な顔を険しくした。思わぬ反応に朱莉の手がひとりでに止まる。数秒の沈黙を経て、柊吾が硬い声を出した。


「ごめん……時間をくれる?」

「何の?」

「朱莉の意思は、尊重したい。現実として受け止めないとって、わかってる。でも、受け取る覚悟を決めるのに、少しだけ時間が欲しい」


 ぎこちない口調でひと言ひと言を短く切りながら、柊吾はじりりと足を退く。


「覚悟……って、そんなたいしたものじゃ」

「ごめん。すぐ。すぐ戻るから! ごめんっ!」


 ばっと身を翻して彼が走り出すものだから、「ええぇ!?」と朱莉も追いかける。目の前で起きていることが想定の斜め上すぎる。


「柊ちゃんっ!」

「先に『ねこだまり』入ってて! そこら辺走って頭冷やすからぁっ!」


 インドア派の柊吾を舐めていた。どんどん開く距離に、朱莉は早々に降参して足を止める。小さくなっていく彼の後ろ姿を見送り、それから、トートバッグに視線を落とした。

 中では、可愛くラッピングしたチョコブラウニーが出番を待っている。見た目は地味だが、試作三回で味は間違いない仕上がりだ。


 バレンタインにあらたまって渡すものといったら、お菓子かプレゼントの類いと察せるだろうに。手作りと勘付かれたのだとしても、歯が立たないクッキーの苦い思い出なんか柊吾は知らないはずだ。


 逃げる理由がわからない。

 それも、半泣き顔になってまで。


 頭を冷やす、とは。


「……どう……いう?」


 朱莉は混乱に落とされて、しばらくその場に立ち尽くした。





 朱莉がカフェ『ねこだまり』に入店するとテーブル席は埋まっていて、渋オジな店長が目配せでカウンター席のいちばん奥を勧めてくれた。ついでに、となりの空席に予約札をぽんと立ててくれる。


 ホットレモンティーにちびちびと口をつけては、とっくに砂糖の溶けたカップの中を意味もなくスプーンでかき混ぜる。待つことたっぷり四十分で、柊吾が『ねこだまり』にやってきた。

 息を切らし、顔を紅潮させ。なぜか、片手に収まるサイズの花束を持って。


 となりにストンと座った柊吾は、その小さな花束を両手で持ってこちらに突き出してきた。花束の主役を担う淡いピンクのバラ一輪は、生花ではなくプリザーブドフラワーだ。そこに造花などを組み合わせ、ピンクと紫でまとめられた花束を、半ば強引に持たされた。


「どうしたの、これ」

「走り回って現実として受け止めたけど……承諾はしかねるから」


 いまひとつ意図の汲めない朱莉に、やたら熱のこもった柊吾の視線が注がれる。


「春からは今までみたいに朱莉とずっと一緒とはいかない。勤務地変わったら家も離れるかもしれない。でも、朱莉の不安が最小限になるよう努力する。だから、せめて試してから」

「待って」


 前のめりな柊吾の右腕をきゅっと掴んだ。


「急に何を言い出したの」

「何って……談話室で、社会人相手は難しいとか、覚悟するとか言ってた」

「難しいから、もっと頑張らなきゃって、そういう覚悟よ?」

「え!? でも、渡すものがって」

「バレンタインチョコ」


 端的に答えたら、柊吾は自身の手元にある手提げしげしげと眺めた。


「もう笹井さんのチョコ、貰った……」

「そっちはオマケ。今年の本命はこっち」


 朱莉はトートバッグからチョコブラウニーの入った袋を出してカウンターに置いた。しぱぱと瞬きした柊吾は、ササウィとブラウニーと朱莉を順に三周ほど見て「どういうこと?」と困り果てたように眉を下げる。


 どうもこうも、たいした話ではない。

 一月。ササウィのチョコを仕入れるために遠出したついでに、都美と待ち合わせて久しぶりにゆっくり話した。都美は朱莉の手にあるササウィの袋を見て、そういえばと昔語りをしてくれたのだ。


「サークルで、バレンタインは手作りか市販かって話になったんでしょ?」

「……あった、かも」

「柊ちゃんは手作り派だったのね」

「憧れは、あった……ラブコメ定番イベントだし」


 奇声あげるぐらい喜ぶと思いますよ、なんて。都美がむふふっと言うものだから、朱莉はすぐさま助言に乗っかった。


「それでブラウニー作ったけど、やっぱりササウィも渡したくて。柊ちゃんのこと考えて選んだんだもの」

「ぁ……うん。そ、うか……俺、てっきり」


 どんどん小さくなる柊吾の声を拾うために、朱莉はぐっと耳を寄せた。


「……指輪、返されるんだって」

「なぜ!?」


 予測不能な彼の発想に仰天した直後、朱莉は自分の左手をはたと確かめた。いつもなら薬指にはめてある指輪を、今はしていない。


「朝はあったのに、ないし。首から下げてる感じもないし。で、さっきの談話室のアレで……絶対そうだって思って」

「違うぅ! 今日の補講が実験だっただけよ」


 トートバッグからポーチを取り出して、中にしまっておいた指輪を薬指に戻す。その銀色を確かめるなり、柊吾がバッと自身の顔を両手で覆った。彼は紅潮を耳から首まで拡げる。やがて、五指をじんわり広げた隙間から、こちらをのぞき見て、おずおずと尋ねてきた。


「バレちゃった、よね?」

「さすがに」


 こみ上げる笑いに耐えながら朱莉はうなずいた。

 これから先へ不安を抱いているのは自分だけだと思い込んで、柊吾のサインを見逃してきたかもしれない。彼は怯えを隠すのが上手な人なのだ。


 柊吾の胸をとんと軽く指先で叩いて、彼の左手に触れる。


「積もらせたら、ちゃんと聞かせてくれないと」

「口にしたら気分が底なしに落ちそうだから。自己暗示かけてた」

「それですれ違ったら、元も子もないでしょ?」


 じっと見つめ合うこと数秒。柊吾はようやく大人びた顔を取り下げて、甘えたで少年な顔を表に出した。


「もうさぁ。俺の目が離れた隙に、不埒者が朱莉にちょっかいかけたらどうしようって。悠に警護頼んじゃダメ? GPSとかつけたほうがよくない?」

「……柊ちゃん、今度は何読んだの」

「『俺のカノジョをおよそ千人のスパダリが狙っている』っていう」

「ないから」


 スパダリは希少だからこそスパダリなのである。千人もいたら、世界からスパが消えてただのダリだ。

 朱莉はブラウニーの袋をぴんと指で弾いた。


「来年も、その先も。柊ちゃんにしか作らない」

「……ぅへへへへへへへ」


 整った顔が総崩れした。

 とろんと垂れた目尻も、下がりきった眉も、でれっでれという表現がすこぶる似合う。こういう残念な姿を見るのは自分だけだ。


 声ひとつ、指輪ひとつで。

 自分が柊吾の自信を簡単に揺らがす存在だということを、きちんと自覚しなおす。


 朱莉は小さな花束を両手で持った。

 サイズは小さいけれど、こうしたらウェディングブーケみたいだ。

 いつかそんな日が来るように。努力は惜しまない。春からがどんな日々になるかわからないけれど、少なくとも、お互い同じ気持ちでいる。それは確かな支えになる。


 ピンクの薔薇をつついていたら、柊吾が耳元に口を寄せてきた。


「本番は、ちゃんと生花だから。朱莉の好きな花にしようね」


 同じ気持ちでいることは支えになる。けれど、あまりに同じすぎるとわかれば、人の顔面は茹だってしまうらしい。



 およそ四十分後。会計時に店長から「末永くお幸せに」と言われ、柊吾が「勿論です」と応えた。朱莉は体温上昇に耐えかねて柊吾の足を踏んだ。

 んぎゃぉ、という彼の叫びは『ねこだまり』にふさわしく、猫の鳴き声に似ていた。

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