古澤悠はチョコを使い込みたい

 高校二年の冬。

 クリスマスの手作りクッキーが喜ばれたことに気を良くして、結衣ゆいは付き合って初めてのバレンタインにも手作りのチョコレートを用意するつもりだった。溶かして固めるだけでは素っ気ない。料理も製菓もとことん頼れる友人、織音おとのアドバイスでチョコマフィンに決めた。


 ところが、いざマフィンを作ろうという日になって、オーブンレンジがプシュォと不可解な音をたてたきり、その役目を終える。結衣はバレンタインに、気落ちしながら悠に市販のトリュフを渡すこととなった。


 けれど結果的に、これが正しい選択だったのだ。


 結衣のやることなすことに過大な賛辞を送りがちなはるは、このトリュフにどうしても手を付けられず、賞味期限いっぱいまでしまい込んだのである。


 結衣は危惧きぐの念を抱いた。

 彼に手作り菓子を渡したら、いつか病院送りにしてしまうのでは、と。クッキーが惨事を招かなかったのはビギナーズラックだったのだ。


 こんなわけで、高校三年、大学一年と、バレンタインには安心安全の市販チョコレートが結衣から悠に贈られた。





 さて。大学二年、二月。

 悠と迎える四度目のバレンタインが迫ってきた。


【え!? こざーくんに手作り渡したことないの!?】

【結衣、去年わたしたちにくれたじゃない。チョコマフィン。美味しかったのに】

「それが。市販じゃないと……悠くん発酵させちゃいそうで」


 友人たちとのビデオ通話にて、初年度の顛末を語る。スマホ画面の中で織音がぶっひゃと吹き出し、朱莉がひたいを押さえた。


【悠は……そういうところよね】

【えー、でもさ。こざーくんだってさすがにこれで四回目じゃん。しまい込んでないで、すぐ食べてくれるって】

「……そうかなぁ」

【そだよ! ゆいこだってほんとは渡したくて去年作ってたんでしょ?】


 図星を突かれて、ふわっと頬が熱を帯びる。昨年のチョコマフィンは結局、朱莉あかりと織音、それから家族に渡して終わってしまった。決して料理上手ではない身だから、勇気が出なかったのもある。


【もう大学二年だよ? こざーくんだって二十歳はたちだよ? さすがにそんなとんでもないことしないって!】

「そ、そうだよねぇ! もう四回目だもん! そこまでの感動はないよね!」


 織音に説得される形で、結衣は今年、とうとう手作りバレンタインに挑むことを決めた。通話を終える前、朱莉が【……大丈夫、よね?】とぽつりとこぼしたのが、心に軽く引っかかったけれど。




 二月十四日。

 例年ならとっくに春休みだというのに、今年に限って大雨やら何やらで休講が大量発生した。英星大は春休みを後ろ倒すという異例の事態に見舞われ、こんな日に最後の補講が実施されてしまった。


 おかげで、織音の指導の下お菓子を作る完璧な計画がご破算である。台風、許すまじ。


 

 補講終わりに大学の正門で待っていたら、押し付けられたチョコレートを突き返している悠の姿が見えた。去年の一月終わりから二月頭にかけて見た光景なので、さして驚かない。冷気を撒かれて青ざめる相手が気の毒に思えてしまうが、かといって悠にそのチョコを受け取ってくれとは欠片も思わない。


 付き合う前、自分が彼の理想ではないかもしれないと無駄に空回りした。そんな結衣だが、正式に付き合ってからは自分でも驚くほど気持ちが安定した。

 誰かと自分を比べて、「あの人のほうがお似合いなのでは」といった思考に落ちた試しがない。

 大学にいれば、「嘘、あの子が?」「意外すぎる」というささやきを聞いてしまうことはある。けれど、悠のわかりやすすぎる好意が、結衣に絶対の自信をくれる。


 今もそう。

 こちらを見つけて走ってくる彼の後ろに、ぱたぱたと振れる尻尾が見える気がする。


「結衣さん、お待たせ!」

「話、終わった?」

「大丈夫。しっかり断った。何ももらってない」

「ふふ、知ってる。ありがとう」


 こちらにいっさいの不安を抱かせないよう、両手を広げて手ぶらだと見せてくれる。そんな彼に笑ってしまう。褒めて欲しそうな顔をしているのが余計に面白い。


「で、で……」


 空っぽの結衣の両手を見ながらそわそわしている。彼のこういうところがどうにも犬っぽい。


「ちゃんとあります。お家にお邪魔してから渡そうかと思ったんだけど」

「よし、帰ろう。今すぐに」


 悠が結衣の背中を軽く押しながら歩き出す。帰りを急ぐような口ぶりなのに、彼の足はゆっくりと、こちらのペースに合わせて動く。手を繋ぐのは向瀬の駅を出てから。どうしても照れてしまう結衣のために彼が作ってくれた小さなルールは、交際四年目に入っても破られたことがない。


「今年は何だろうな。楽しみ」

「あ……あまり過剰に期待しないほうがいいかも」

「大丈夫。俺、知ってのとおり甘党だし。チョコはなんでも好きだから」

「んー……どう、かなぁ」


 渋る結衣に、悠がふんわりと微笑を浮かべる。ふいに見せるそんな表情の輝きたるや。二十歳になって悠の美しさは桁上りした気がする。天はまだ彼の造形に手を加えたいらしい。担当神はやや凝り性がすぎないか。



 中尾寺なかおじの駅からのんびり十五分歩けば古澤家にたどり着く。彼の母に一度挨拶はしたものの、平日と土曜はいつ訪れても留守だ。両親の多忙ぶりは悠の幼少期から変わらないらしく、古澤兄弟がとなりの仁科家によく出入りしていたというのもうなずける。


 軽やかに階段を上がる悠の後ろを追いかける。背中を見ても足運びを見ても、渡す前から浮かれているのがわかる。鞄に忍ばせている手のひらサイズのミニパウンドケーキたちが、一段上がるごとにプレッシャーで鉄に変わっていくような心地だ。


「今日、柊吾さんは?」

「となりか、朱莉とどっか行ってるかだと思うよ」

「そっかぁ。バレンタインだもんね」


 古澤家にふたりきりというのは何度も経験しているものの、お互いに二十歳を過ぎてからはこれが初めてのことで。少々大人びた妄想が頭を過って、いやいやと頭を振った。丸三年をとても清く正しくふたりで歩んできて、正直なところ、何がきっかけで次のステップに進むのか結衣には予想できない。


 大事にされているのだとわかるから、焦るようなことはない。けれど、たとえ今日をきっかけに交際の段階がひとつ進むとしても、受け入れられるとも思っている。そんな心境で彼を見ている自分を、結衣は正しく自覚している。恥ずかしくて、決して口にはできないが。



 ドアを開けた悠にうながされ、彼の部屋に入る。いつものようにクッションを渡されて、ミニテーブルの側に座る。ここが結衣の定位置だ。

 いわく、ベッドに座らせるなんてとんでもない、とのことで。何がとんでもないのかは、いまだによくわからない。


 ラグに座った悠がちょこんと両手をミニテーブルにそろえ置いて、本日の主役の登場を待つ。こんな可愛い二十歳男子が他にいるだろうかと思いながら、結衣は鞄を開けて紙袋を取り出した。


「どうぞ、お納めください」

「開けていい?」

「う、うん」


 声が上擦ってしまう。緊張しているとさらさらわかる結衣の反応に、悠が首を傾げてから紙袋を開ける。さらに中から黄色いリボンのかかった透明な袋を引っ張りあげたところで、悠の口から「ぇ……」という小さな疑問の声がこぼれ出た。それきり、動きが止まる。


 ミニパウンドケーキにいかなる魔法がかかっていたのか。悠を一瞬で氷にしてしまった。

 かっと両頬に熱を走らせながら、結衣はアワアワと反射的に袋に手を伸ばした。すると、凍っていたはずの悠に、手首をはしっと掴まれる。


「あ、あぁぁぁあのね! これは、その」

「これ、結衣さん作だよね?」

「そ、そう……だねぇ」

「結衣さんの手によってこの地上に生み出されたお菓子だよね?」

「言いかたが過大だけど、まぁそう、です」


 結衣の元を離れた悠の手は、そのまま彼自身の口元をぱふっと覆う。そして、彼は両肩を細かに震わせた。


「クッキー以来、二度目の……奇跡」

「そんな大げさな!」

「ありがとう……本当に。時間の許す限り、大切に使います。一ヶ月ぐらい大丈夫だよね」


 いつも通り過剰な彼の歓喜に照れていたら、危うい単語と妙な言い回しが抜けていった。


「悠くん。三、四日ぐらいで食べて欲しいやつなんだけど」

「え!? 早すぎない!?」

「手作りなんだから、そんなものだよ。だいたい、使うって何するの?」

「何って。もちろん、ま……飾る」

「飾るっ!?」


 これはまずいとパウンドケーキを取り返そうとしたら、悠がひょいっと袋を抱えて身を引いた。


「食べるものだよ!?」

「た、食べる。もちろん! 四日たったら食べるから!」

「違うの! 四日は限界値で理想値は今日なの。私の作だし、保管するなら念のため冷蔵庫にしよ、ね?」

「じゃあ今日だけ! 今日だけま……飾らせて!」

「だから飾るって何!? そしていちいち挟まってる『ま』も何!?」


 叫んだ瞬間、ラグに突っ張らせていた手が滑って、結衣は悠の胸にすぽんと飛び込んだ。超近距離で見る造形美に「ほやぁっ」と奇声を上げるも、なんとか気持ちを立て直し、悠の太ももにまたがって彼の胸元を両手できゅっと掴む。


「ゆっ、結衣さん……すごい体勢だけど」

「そんなことより。私、できれば今ここでひとつ食べて欲しい」

「えぇっ、今ぁっ!?」


 もう完全に悠の太ももの上にぺたんと座り込んで、彼の瞳をじっと見つめた。


「おねがい。だめ?」

「だ……ぁ……と、待って」


 悠は頭上に逃がしていた袋をジリジリと下ろしてきて、ミニパウンドケーキの数を目でカウントした。ケーキは全部で三つ。今食べてもふたつは残るのに、かなり長考している。


「じゃあ、ひとつ。ここで食べる……けど」

「けど?」

「五分でいいから、このままリボン解かずにま……飾りたい。降りてもらっていい?」


 うながされるまま、太ももから降りる。悠は頬を朱に彩って、テーブルにパウンドケーキを置いた。机から木製のサイコロを並べたような万年カレンダーを出してきて、ころころ回して今日の日付を作る。

カレンダーをパウンドケーキのそばに設置したら、何かわからない白い板を配置したり、部屋の明かりを手で遮って調整したり。果ては懐中電灯で照らしたりしながら、パウンドケーキの撮影会を始めた。


「よし」


 何枚撮るんだというぐらいスマホカメラのシャッターを切り、悠はパウンドケーキを手に、壁際のカラーボックスに向かう。白い三段ボックスの上段は突っ張り棒と黒い厚手の布を使って、カーテンのように目隠しが施されている。

 その一段の存在には、初めてこの部屋を訪れたときから気づいていた。日に焼きたくないものをしまっているのだろうな程度にしか思っていなかったし、わざわざ隠しているものを暴くのは気が退けた。だから、結衣がその棚について尋ねたことは一度もなかった。


 悠がその目隠し布を、くるんと上にめくりあげる。同時に、結衣はしぱぱぱぱぱと高速に瞬きを繰り返す。


 ついに、目隠しボックスの全容が明らかになった。


 棚の中央に、額装された大きな写真がある。収められているのは笑顔の結衣である。その両脇に、アクリル製のひな壇のような飾り棚が配置されている。そこにはこれまで結衣が贈ったプレゼントの写真、箱、カットした包装紙やリボンまでが美しく置かれ、残るスペースに結衣の写真がちらほらと。

 カラーボックスの奥面には、木目調のアルファベットシートで【Y U I】と貼ってある。そして左右の端に置かれた片手に乗るサイズのヒヨコ。これはどうやらナイトライトだ。つまり、光る。どうしたって光る。夜になると、写真はライトアップされるのだ。


 テレビの推し活特集なんかで、結衣はこんな光景を見たことがあった。


「言っとくけど、祭壇とか、そういう推し活的なのじゃないから。思い出を飾りたいだけ」


 まるでこちらの思考を読んだかのように悠は言って、パウンドケーキを両手で恭しく写真の前に置く。

 そして深々と五秒頭を下げてから、うっとりとカラーボックスの中を見つめた。


「五分間まつったら食べるから」

「やっぱりこれ祭壇だねっ!?」


 叫ぶ結衣には目もくれず、悠は祭壇にある写真とパウンドケーキを眺め続けている。


 あぁ織音ちゃん、二十歳の彼は、しまい込むどころか部屋に祭壇までお持ちです、と。結衣は脳内で友人に語りかける。複雑な心境で三分ほど耐えたものの、ついに我慢できなくなって、正座する悠のとなりに座った。


 彼のひざを軽く指でつつく。


「ねぇ、悠くん」

「はい。なんでしょうか」

「佐伯 結衣はあなたのとなりにもいるのですが。写真のほうが魅力的?」

「いえ、そんなことはっ!」

「実物……見向きもされなくてちょっと寂しい」

「違っ……――」


 慌ててこちらを向いた悠が、カァァと顔面を赤らめながら目をそらす。


「その……今、邪念を祓っている、というか」

「邪念」

「いや、パウンドケーキを祀りたい気持ちに嘘はないんだけど! さっきの……脚に乗っかる結衣さんが、強すぎた……と、いうか」

「ぁ、ごめん。嫌だった? 重かったよね」


 ぷぷぷぷっと細かに首を左右に振った悠は、ぐっとうつむく。


「パウンドケーキを味わうどころじゃ、なくなりそうだから」


 これは、つまり。

 そういう意味かと。


「……味わってみます?」


 少しこちらから歩み寄ったら、彼の形の良い耳が真っ赤になった。


「この部屋で……そういう……ことに、なりますと。今後、夜な夜な、正気じゃいられなくなってしまうので」


 そこでぽすっと肩を寄せてきた悠は、結衣の耳元でほそほそとつぶやく。ご家族に一泊の許可をいただけるようになってから、と。


 これは次のステップに進むまで、かなり時間がかかるかもしれない。父の顔を思い浮かべつつ、結衣は彼の背中をよしよしとなでた。

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