降恋ぽつぽつこぼれ話

笹井風琉

兄、反省会を傍観する

 高砂たかさご 俊也としや、二十九歳。

 向瀬むこうせという小さな町の美容室を先輩から引き継いで、ありがたくも二十代にして自分の店を構えている美容師である。


 実家も同じ最寄り駅ながら、独立と同時に独り暮らし。店から徒歩十五分の素敵な2DKを我が城として自分好みな暮らしをしている。北の大地から来年ようやく戻れる予定の彼女を待ち、いつも住まいは美しく保つ。


 断じて、野郎三人を迎えるために整えているわけではない。

 俊也は花が無い居室を眺めてため息をついた。彼ら三人にはそれぞれ素敵な彼女がいるのだが、その彼女たちは今宵、お泊り女子会を開催している。


 それならいっそ皆でバーベキューなりに興じるほうがよほど華やかで楽しめたのに。何が悲しくて、男三人の惚気を聞かねばならんのだ。


 なんてことを思っていたら、こちらもそれなりに愉快な状況になってきた。


「まあ、ね。俺が行ったぐらいで簡単に好転するとは思ってなかったけど。大阪まで行った意味って、もしかして皆無だったりする?」


 冷静に語りかけるはるの顔を、ずいぶん大人になったものだと眺める。出会った頃はまだ中学生の終わりだった彼が、この秋で二十歳になるとは感慨深い。


「こざのお言葉はめっちゃ思考に効いたんやけど、それと動けるかどうかは別問題やったというか」

「そこから二週間超、かぁ。樹生たつきにとっては短いのかもしれないけど、三原さんからしたら」

「長い。わかっとる。というかオレがいちばん、長すぎたやろて思てる」


 悠に応じる濃厚関西風味な弟――樹生たつきは、八月に大きな壁を乗り越えたばかりだ。


 拗らせていじけて足踏みして散々周りに迷惑をかけた末に、ようやく、本当にようやく、三原みはら 織音おとという素敵な女性と交際を開始することになった。


 で、今その反省会めいたことが起きている。存分に叱っていただけと、俊也は頬杖をついて微笑ましく見守る。弟にちゃんと叱ってくれる友人ができたことが、兄としては嬉しい。


「ケロッとして見せてるけど、三原さん絶対しんどかったし。結衣さんいわく、ギリギリだったって。思う存分泣かせてあげて欲しいって言ってたよ」

「それはもう嫌ってほど……ほんまアホやらかしたぁ」

「まさかまだ誰かに譲ろうとか」

「無い! 絶対無い! 譲らん!」

「その威勢をあと一ヶ月早く出せたらなぁ」

「……七月に戻れるんやったらオレを殴る……もぉ許しがたい」


 そう言って、樹生は座卓にごちんとひたいを落とす。そういう素をやっと周りに見せるようになった。今回の騒動を経て、憑き物が落ちたようなところがある。


 弟の彼女に名乗りを上げてくれた織音は、それはそれはタフな女性だ。けれど、そういう人こそ他人には見せない脆い部分を持っている。弟の一ヶ月に渡る逃走の間、俊也は何度か織音と過ごす機会があって、弱音を吐くまいとする彼女の強がりを目の当たりにした。織音にはいくら感謝しても尽きない。


 そんな彼女の手を掴むか否か、樹生は最後の最後まで心臓すら削るように悩んだことだろう。美容師仲間である伊澄いずみの部屋の隅にうずくまった樹生が、虚ろな瞳でこちらを見上げてきた夜のことを俊也は忘れない。母に連れられていく二歳の弟を見送ってから十三年。中学三年になった弟が、兄である自分に向けてきた第一声は「こんなもんに関わっても何の得にもなりませんよ」だった。


 よく、頑張ってくれたと。俊也では、褒めてやりたい気持ちが勝ってしまう。だから、今夜の叱り役は弟の友人に譲って、ビール片手の見物に徹する。


「今年の夏休みは樹生も交えて遊びたいって、三原さんのご要望で。女性陣からあれこれ相談きてたのに」

「ほん!?」

「海行きたかったらしいよ」

「海てことは」

「そう。つまり結衣ゆいさんの水着が幻になった」

「……え、ごめん」

「あと、花火大会」

「……てことは」

「そう。結衣さんの浴衣も幻になった」

「…………ごめん」


 悠が淡々と言い、樹生の顔色が刻々と悪くなる。


「なお、八月の結衣さんは自分だけ遊ぶ気分になれなくて、俺とのあらゆる予定もキャンセルになった」

「すんませんでしたッ!」

「結衣さんの二十歳の夏が、胃痛で終わっていった」

「どぉぉ! もう、ちょ……ほんま……もぉぉ」

 

 座卓で向き合うそんな若年組をテーブルから眺めていたら、俊也の向かいでコンッとビール缶が音を立てた。


「それ言うと、朱莉あかりも憤怒に燃えてて遊ぶどころじゃなかったよ。俺からしたら学生ラストの夏休みだったんだけど」


 ここで柊吾しゅうごが追い討ちをかけるのかと、俊也はどうにか苦笑を押し潰す。なお柊吾の彼女である朱莉は、本日昼間に「大馬鹿野郎」という怒声とともに樹生の頬へ平手を見舞った。夜になっても若干腫れているから、朱莉の全力が一撃に乗ったのだろう。そんな朱莉をよりによって織音がなだめたものだから、樹生にすれば実際の威力以上に痛かったはずだ。


「柊吾さんは……どちらに?」

「一緒。海も花火も、タツくんが参加しやすいように皆で行くことになってたから。あと朱莉と一泊旅行の予定がね」

「泊まり……」

「なのでタツくんにおかれましては、一撃出しちゃった朱莉のこと、俺が代わりに謝るのでどうか許していただけたら」


 追い討ちではなく、彼女のフォローが目的だったようだ。

 またもゴツっという音が座卓から聞こえる。明日の樹生は頬だけでなくひたいも腫れていそうだ。


 本当に、多方面に迷惑をかけた夏だった。俊也にも責任はある。手をこまねいていた期間が長すぎたのだ。いずれ何かの形で礼を尽くそうと思っている。


「こざぁ……吐きそう」

「うーん。かばうことはできないけど、我が兄も樹生のことどうこう言えないよなとも思う」


 手心の無い悠の言葉に、俊也の正面でビールをちびちび飲んでいた柊吾がふいっと目をそらす。


「だそうですよ。しゅう、心当たりは? あるよね?」

「……ぅ」

「兄ちゃん、一ヶ月どころじゃないから」

「……ぐ」

「さすがにオレかて、三年は待たせませんよ」

「た、タツくんまで……」


 ふぎゅぅ、と眉根を寄せる柊吾もまた、中学三年から高校三年までの丸三年、朱莉を待たせに待たせた男だ。


「俺には、その……年齢制限があったというか……社会的制約というか」

「でも柊がひと言、卒業まで待ってるって言ってあげたら、あかりんちゃんはもっと楽だったろ?」

「そ、れも……その、けじめのようなもので」

「真面目なのはけっこうだけど、多少はゆるめないと彼女がしんどい。思いやりの方向性を間違えたら相手を潰すよ。もうちょっとずるさも覚えたほうがいいんじゃない?」

「……はい」


 ビール片手の柊吾がかっくりと項垂うなだれる。座卓ではあいかわらず樹生が沈んだまま。

 弟も飲み友も重罪である。彼らの彼女は寛大な心を持っている。


 項垂れたままの柊吾が、たふっと息を吐いた。


「ほんと、上手くいかないもんだね……ジタバタして学ぶというか、遠回りしがちというか。よくよく思い返したら、結衣ちゃんだってそうだったよなぁ。ちゃんと話せば一瞬で済むところ、結衣ちゃんもけっこう悠のこと――」

「結衣さんが何?」


 柊吾の反省が、九月の暑気を吹き飛ばし一月の極寒にしてしまう。ビールよりホットワインが良かったかと、俊也は憐れみを持って迂闊うかつな飲み友の顔を眺めた。


「俺と結衣さんはちゃんと冷却期間についてすり合わせしたから。俺も必要な時間だって承知の上で待ってたし、その期間を提案したのも俺だし、焦らしも可愛いところだから受け入れたし。合意の上での待機と一方的に押し付けた待機を同列扱いしないでもらえる? しかも三年て」

「はぃ……ごめんなさい」

「あと、結衣さんは悩んだ末に精一杯おもてなししてくれて、むしろ俺は得したから。もう最高の一日だったから。まずい、思い出したら可愛すぎて心臓痛い」


 昨日のことのように悠が歓喜に震えているが、二年と九ヶ月も前の話である。


 弟に畳み掛けられていったん小さくなった柊吾が、「いや待って!」と声を張る。


「タツくんだって実質三年かかってる!」

「……ほん?」

「彼女いるって嘘八百並べてる時期も含めたら、ほらぁ!」

「…………うわぁ……オレ、柊吾さんとたいして変わらんのか」

「何で俺が最底辺みたいな反応!?」

「いや、むしろ尊敬しとりますよ。朝の十秒チャージだけで三年とか、よぉ耐えれましたね」

「わかってくれる? キツかった。ほんとキツかった……朱莉相手に見るだけの生活、心荒んだ」


 ビールひと缶を空にした分だけ、柊吾は饒舌になる。面白いので、俊也はすかさずもうひと缶開けて空のビールと入れ替えた。


「高校上がった瞬間がいちばんキツかったなぁ。向瀬の制服があんなに可愛いなんて。朱莉のためにあるような制服だった。巻き戻せるならべた褒めする」

「……は?」


 飲み友がさらなる迂闊を積み上げてしまった。案の定、悠がひやりとした視線を柊吾に投げつける。


「何言ってんの? 間違いなく結衣さんがいちばん映えてたから」

「いやいや、結衣ちゃんの容姿がどうとか言ってない。あくまで制服の似合いっぷりの話」

「だから俺も、その制服がいちばん似合うのは結衣さんだって話をしてる」


 兄弟が張り合い出すのをやれやれと見ていたら、座卓の樹生がぽかんと口を開けているのが視界に入った。ようやく付き合い始めたばかりの弟では、この流れに置いていかれるのも無理はない。


 とか、俊也が思っていたら。

 意外なことに、するするっと樹生も手を挙げた。


「え。ふたりとも本気で言うてる? そこは織音やで?」


 ぽかんと口を開けるのは、俊也の番だった。弟の目が、自分の正しさをまったく疑っていない人間のそれなのである。


「あぁ、そぉか。柊吾さんは文化祭でメイド服着とった織音しか知らんのですよね。ちょい、実家行って卒アル持って来ましょか?」

「大丈夫、見なくてもわかるよ。まずブレザーに肩上ストレートって時点で朱莉の大勝利だし」

「ロングとブレザーの破壊力舐めてます?」

「そもそも、どんな髪型もブレザーも結衣さんのためにあるんだけど」

「えぇぇ、そうかなぁ。でもさぁ、ダークグレーって色がさ、申し訳ないけど結衣ちゃんも織音ちゃんもちょっと違うじゃない?」

「織音は落ち着いた色味もよぉ似合いますし」

「というか、天上天下あらゆる色は結衣さんをいろどるためにあるんだけど」


 何か、とてつもなく面倒なものが始まってしまった。そしてひとり重篤な彼氏がいる気がする。


 俊也は不毛な争いをしばらく薄目で眺めていたが、収まる気配が無いと判断してスマホ片手にベランダに出た。


 サンダルを引っ掛けて手すりに寄りかかり、スマホを耳に当てる。


「……あー、ちづ? ごめんな、忙しかった?」


 窓を閉めても漏れ聞こえる賑やかな声を遮断して、遥か北の大地から通信回線に乗って届く声にのみ意識を集中させる。


「特に用事は無いんだけど……ちょっと今、拷問受けてるからさ。五分、声聞かせて」


 この部屋はそもそも、俊也の独り暮らしになる予定ではなかった。間違っても野郎三人の惚気を聞くために構えていない。

 何が一ヶ月。何が三年。

 こっちは五年待ちなのである。

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