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   ***


 二コマ目の細胞生物学の授業が終わると、あたしは昼食のためにテラスに向かった。

 昨日、新歓会場だったテラスはきれいに片付いており、いつもの落ち着いた雰囲気を取り戻していた。

「詩織、こっちこっち」

 人気ひとけの少ない奥のテーブルを陣取った相沢さんが、手招きをしている。

 あたしが席に座るやいなや、相沢さんは顔を寄せてきた。

「で、昨日の話の続きだけど。西森くんと何があったの?」

 どきりとし、あたしは思わず手元に目を落とした。

「こ、告白されたの」

 言ったとたんに、かっと顔が熱くなった。なんだかものすごく気恥ずかしい。

「うそ。西森くんに?」

 相沢さんの目がすっと鋭くなった。あたしは驚いて見返した。きっと相沢さんのことだから、自分が告白されたかのように可愛らしくはしゃぐはずと勝手に思っていたのだ。

「ねえ、西森くんとなんか付き合わないよね?」

 その問い詰める口調に、あたしは言葉を失った。相沢さんは西森くんのことが好きなのだろうか。いや、そんなそぶりはみじんもなかった。むしろ、あたしと同じように、男子四人の区別をつけるために密かに眼鏡をチラ見していたくらいなのだ。

 その時、相沢さんが何かに気付いたように顔を上げた。その顔がみるみる険しくなるのを見て、あたしは後ろを振り仰いだ。

 ぎくりと息を飲む。背後に立っていたのは西森くんだった。

「あの、橘さん。ちょっといい?」

 西森くんは目を泳がせながら、やっとというふうに声を搾り出した。自分のことにいっぱいいっぱいで、この場の凍りついた空気などいっさい気づいていないようだった。

「昨日は……突然、ごめんね。その、今日は何コマ目まである? 講義終わったら、ちょっと話したいんだけど」

 言いながら、ずれてもいない眼鏡を押し上げる。

 あたしはそっと相沢さんに目を馳せた。相沢さんは西森くんを睨みつけていたが、あたしの視線に気づくと、にっこりと笑顔をつくった。

「えー、何ー? 後でなんて言わずに、今ここで話しなよ」

「えっ? ここで?」

 西森くんは面食らったように声を上げた。そしてあたしに視線を移すと、ごくりと唾を飲み込んだ。

 まさかこの場で返答を求める気か――あたしは凍りつく。

 昨晩、西森くんに篤さんの面影を見て、(今こうして見るとまったく似ていないのだが、)正直なところ、あたしはそれだけで彼と付き合ってもいいかなと思っていた。

 だが相沢さんのこの表情を見ると、安易に応じることはできなかった。あたしにはただの知人にすぎない西森くんより、友達の相沢さんの方がずっと大事なのだ。理由はわからないが、なんであれ彼女が嫌な思いをするなら断るつもりである。

「断れ」

 隣に立っていた悪魔が高圧的に呟いた。

 あたしはびっくりして横を見上げた。西山くんもつられたようにあたしの隣の空間を見やる。

「断るんだ」

 悪魔が西森を睨みつけている。相沢さんと悪魔の二人に見据えられ、西森くんは気まずげに足元に視線を落とした。

「……やっぱり、また今度にするわ」

 西森くんは曖昧な笑みを浮かべると、友達の輪の中に戻っていった。

 ほっと息を吐くあたしの袖を、相沢さんが引いた。

「断りなよ。あの程度の男と付き合うなんてだめ。詩織にはふさわしくないよ」

 向けられた眼差しの強さに、あたしは思わずたじろいだ。――そうかな、と強ばった笑みを浮かべたところで、あたしははっとした。袖をつかむ相沢さんの手が震えていることに気付いたのだ。

「詩織、実は男の人が苦手なんでしょ? なら無理して付き合うことなんてないよ」

 思わずぎくりと身体が強張った。どうしてあたしが男性を苦手だと知っているのだ。隠していた心の内側を見透かされていたようで、あたしはひどくうろたえた。

「あたし、入学してからずっと詩織のことを見てたんだ。だから詩織が男の人の前で緊張するの、知ってた。それだけじゃないよ。集中すると髪を触るくせとか、まわりに誰もいないときにひとりごとを言っちゃうこととか、詩織のことなら誰より良く知ってる」

 あたしはひやりとした。それはひとりごとでなく、悪魔と会話をしている時だ。

「受験会場で初めて詩織を見た時から、なんてきれいな子なんだろうって思って、もう目が離せなかった。すごくどきどきしちゃって……」

 頬を染め、潤んだ瞳で見つめられ――あたしは凍りついたように動けなくなった。

「今だって、ずっとどきどきしてる」

 そして相沢さんはうつむいた。その大きな瞳から、涙が次々とこぼれ落ちてゆく。

「せめて一番の友だちでと思ってたけど、気持ちが押さえられないの。同性なのに変だよね? あたし、今までずっと男の子しか好きになったことなかったのに。でも詩織は別なんだよ。どうしたらいいの? あたし、変になっちゃったのかな?」

 相沢さんは縋るように見上げてきた。何も言えずにいるあたしに「ごめんね」と小さく呟くと、バッグを抱えてテラスから出て行った。

 あたしは追うこともできず、ガラスドアの向こうに消える小柄な後ろ姿をただ見送るしかなかった。

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