11

「ちゃんと帰ってきたな」

 お風呂からあがって自室にゆくと、悪魔がデスクチェアに座って待っていた。

 疲れてぼうっとしていたあたしは、悪魔の顔を見て、一気に目がさめた思いだった。

(そうだ。あたしは、これから悪魔と――)

 なんであんなこと言っちゃったんだろうな、と今さらのように思う。

 ランチに誘うくらいの気安さで言ってしまったのは確かだった。後悔はしていなかったが、なんだか妙に他人事のような感がぬぐえない。だが、その場の乗りで言ったわけじゃなかった。西森と付き合うことになるかもしれない、それが頭にあった。

 義父や篤さんとの暮らすことで自分の中の男性イメージはずいぶんと落ち着いたものだったが、やはり男性はいまだに苦手だし、怖かった。だからこの悪魔で――言うなればしときたかったのだ。悪魔は人間ではないが男ではあるから。

 一方で、悪魔は硬い面差しでじっとあたしを見ながら、噛んで含めるように言った。

「一つ、確認しておきたいことがある。前にも言ったが、契約履行中、悪魔は契約主の身体にも魂にも手を出すことができぬ決まりだ。ただ、契約主から求めたとなれば別なのだ。俺の一方的な搾取ではないと、はっきりさせねばならない。おまえの方から誘った。そうだな?」

 疲れ切っていたあたしは、髪の水分をタオルでとりながら、うん、と生返事をした。

 悪魔は警戒したような眼差しを向けてきた。相槌とも肯定ともとれる返答に、神経を尖らせているようだった。

 細かい男である。あたしが賛同したと言質を取らないことには事に及べないのだ。だが日本語は非常にあいまいにできているのである。

「では、これと引き換えに契約を無効にはしない。いいな?」

 悪魔は念を押した。あたしは同じ調子で、そうねと呟く。悪魔は納得できないようすであたしを見据えた。

 もし決まりを破ったら魂や身体を取りはぐれるとでもいうのか。この悪魔も、人間のように何かののりに縛られているのだろうか。

 変なの、悪魔なのに決まりを守らなきゃならないなんて――そんなことを思いながらベッドにあがり、ごろりと横になった。どっと疲れを感じた。怒涛のように押し寄せてくる眠気に負けそうになっていると、ふいにベッドがぎしりと軋んだ。

 あたしが乗ったくらいじゃ、こんな音は鳴らない。悪魔と言っても重量のある男なのだ。

 そういえば、悪魔がこのベッドに上がったのは久しぶりことだった。この家に越してくる前は当たり前のように一緒に寝ていたのが信じられなかった。妙な格好をしているとはいえ、見た目は成人男性なのに。

 あの頃は孤独で、あまりにも寂しくて。そしてまわりのすべてが敵だった。あたしにはこの悪魔しかいなかったのだ。

 そんなことを考えていると、いつの間にか悪魔の顔が近くにあった。やっぱりきれいなひとだ――そう思った矢先に唇が重なった。セックスどころか、あたしはキスだって初めてだった。

 思わず笑ってしまいそうになった。何かの映画や漫画で見たような展開とまるで変わらない。人間となにも変わらない。ただ、パジャマのボタンは悪魔が触れただけでひとりでに外れていった。あらわになった肌に悪魔は唇を押しあててゆく。

 その心地よさにうとうとと眠くなりかけ、ふと我に返った。いつの間にか下着が脱がされている。この手際のよさも魔術なのだろうかとぼんやりした頭で思った矢先、下腹部に圧迫感を覚えた。

 初めてのときはすごく痛いのだと聞いて覚悟をしていたのだけれど、痛みも苦しみもなかった。あたしはこんなもんかと拍子抜けした。

 悪魔は生真面目な顔であたしを見つめている。なんだか子供じみて見える。

(かわいいなあ)

 そっと悪魔の背中に手を回した。肩甲骨のつけね――かつて翼のあったところを指でさぐるように撫でると、悪魔はびくりと痙攣した。契約を交わした日にもその翼に触れたことを思い出した。その時と同じ反応で、あたしはなんだか可笑しくなった。

「あなたは姿を変えられるんでしょ。その姿も、本当はおぞましい、穢らわしいものなの?」

 悪魔は深い吐息を漏らした。

「……その通りだ。うら若き無垢な娘の姿をとっていながら、中身は平然と知人の死を願えるお前と同じだ。見た目の美醜など、何の参考にもならない」

 むっとして言い返そうとしたところを、掌で口を塞がれた。

「――愛してる」

 ゆらゆらと湯の中をたゆたうような心地よさのなかで、悪魔の呟きを聞いていた。

 悪魔とのまじわりはまるで眠りにおちるかのようだった。意識がとろけて、自分とまわりの境が判然としなくなる。悪魔とあたしの境もなくなる。

 うとうとと目を瞑った。墜落するように眠りに落ち――そして気づいたら朝だった。

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