10
「疲れちゃった?」
うん少し、と微笑んで見せた。笑うと顔の筋肉が痛んだ。長時間、ずっと愛想笑いをしていたせいである。
「やっと話せたよ。先輩たちが独占するからさ。いつも女子ふたりでいるから今までなかなか声かけられないでいたんだけど……。橘さんて意外に話しやすいんだね」
そう言いながら隣の柵に座った西森くんを、あたしはじっと見つめてしまった。穏やかな雰囲気やすっきりと線の細い顔まわりの輪郭なんかが、義兄の篤さんと似てる気がしたのだ。
西森くんは赤面し、ぱっと足元に目を落とした。
「あ――あのさ。入学してすぐ、コースの仲間で顔合わせしたの覚えてる? 俺、あれからずっと、橘さんのこといいなって思ってて……」
西森くんは耳まで赤らめてますますうつむいた。
篤さんのことを考えていたあたしは、一瞬、何を言われたのかわからなかった。今――告白されたのだろうか。
「ごめん。俺なんかが橘さんに釣り合うわけないよな。……忘れてよ。気まずくなりたくないからさ」
そう言って笑った顔がますます篤さんに似ているようで、あたしは急に顔が熱くなった。
西森くんは「先に戻るから」と立ち上がると、駆け足で会場に戻っていった。
信じられない思いで、校舎に入ってゆくその背中を見つめた。心臓が激しく鳴っている。
「――あれは篤ではないぞ」
隣に立ち、一部始終を眺めていた悪魔が低く呟いた。
あたしは横目で悪魔を睨みつける。
「そんなの、わかってるよ」
先日、篤さんから連絡があり、仕事が忙しくてしばらく帰れないと母から聞かされたばかりだった。
あたしはひとつ溜め息をつくと、顔を上げた。そろそろ会場に戻らなければならない。
横断防止冊から腰を上げたところで、ふいに手首をつかまれた。
「もう家に帰ったほうがいい」
思いがけず悪魔の鈍く光る目にゆきあい、驚いてそれを見返した。
「終わるまであと三十分もないし、最後までいるよ。それに、帰りは先輩たちが駅まで送ってくれるって」
「馬鹿者が。日本人のくせに送り狼という言葉を知らないのか」
「何言ってんの。みんなで帰るんだから」
むっとして見返すと、悪魔は睨み返してきた。
「そもそもなぜ突然、髪を切った? おまえの身体は俺のものでもあるのだ。わかっているのか?」
あたしは目を瞬いた。なんで今になって髪の話などするのだ。切ってからずっと一緒にいたのに、まったく無関心なそぶりだったではないか。
「爪を切っても眉毛を抜いても怒らないのに、どうして髪を切ったらだめなのよ?」
悪魔は押し黙ってあたしを見据えている。
「……何を怒ってるの? もしかして、嫉妬してるの?」
からかうように言うと、悪魔は不機嫌もあらわにそっぽを向いた。
このプライドの高い男が、こんな子供じみた態度を見せるなんて。なんだか毒気を抜かれ、悪魔の横顔をじっと見つめてしまった。
(あたしたち――いつの間に立ち位置が入れ替わっていたんだろう)
出会った頃は、この悪魔にずいぶんと見下され、侮られていたというのに。あたしはいつの間にか、無条件で下に見られる子供ではなくなっていたのだ。
そういえば、痩せた木の枝のようだったこの身体も、気づけばすんなりと柔らかい曲線を描くようになっている。悪魔にとって、あたしはもう取るに足らないものではなくなっていたのだ。
「ねえ。セックスしてみようか」
悪魔はぎょっとしたように目を見開いた。
「あたしが西森くんとつきあったら、もうできないよ」
「……酔っているのか?」
「お酒なんか飲んでないから」
悪魔は苛立った眼差しを向けてきた。
「何度も言うが、俺は契約な最中は
「契約主のあたしがいいといったら?」
悪魔は一瞬黙し、あたしを見据えた。
「……契約主の許可が下りれば別だ。だが、悪魔に抱かれることが、どうゆうことだかわかっているのか?」
さあ、と首をかしげた。あたしは悪魔どころか、人間の男とさえ交わったことはないのだ。
「じゃあ、みんなに帰るって言ってくるから。先に家に戻ってて」
「本当に帰ってくるな?」
悪魔は疑わしそうにじっと見つめていたが、あたしが面倒そうな空気を出すと、けぶるように姿を消した。あんなに口うるさかったのに、あまりにあっけなく引き下がるさまがなんだか可笑しかった。
宴会の場に戻るやいなや、相沢さんが駆け寄ってきた。
「詩織、遅かったけど大丈夫?」
何かあったの、と見上げてくる相沢さんに、あたしは「大丈夫」と笑って見せた。
「さっき、西森くんが追いかけて行かなかった?」
不意打ちのように言われ、心臓が跳ね上がる。思い出したかのように耳が熱くなった。
「その……明日、話すよ」
相沢さんは、なぜだか不安げな顔を見せた。
先輩たちに帰宅を告げると、一同は「えーっ」と子供のような声を上げた。
「パパから帰ってこいって連絡来ちゃったかぁー?」
からかうように言った先輩に、そんなところです、と笑って返した。
結局あたしは先輩集団に駅まで送ってもらった。そのままコンビニに向かう男女の背中を見送り、電車に乗った。
やっとひとりになることができて、あたしはほっと息をついた。
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