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 講義の後、あたしは家に電話をし、大学の飲み会に参加すると伝えた。「いってらっしゃい」と言った母の声は嬉しそうで、あたしはなんだか照れ臭かった。

 新入生歓迎会は夕方からだったので、あたしと相沢さんは近くの大型書店で時間をつぶし、一緒に大学に戻った。

 会場にはすでにたくさんの人が集まっていた。広々としたテラスは人であふれかえっている。専攻コースは一学年六人と少人数だったが、学部全体は全学年で二百人強もいるのだ。

 もう飲み食いを始めている集団もいて、あたりは喧騒と熱気に包まれていた。すでに紙コップや缶ビールを呷っている人たちもおり、そのどんちゃん騒ぎにはただただ圧倒されるばかりだった。

「……すごいね」

 入り口付近で所在なげにしていると、四人の男子学生がおずおずと話しかけてきた。

「あの……同じ専攻コースだよね?」

 相沢さんは「あっ、どうもー」と反応したが、あたしは正直なところ彼らの顔を覚えていなかった。一年生のうちは一般教養がほとんどで、専門科目も座学しかなく、ほとんど関わりがないのである。

 あたしたちはどぎまぎと席について、あらためて自己紹介をした。四人とも大人しそうな、似たような雰囲気で、正直、区別をつけるヒントは眼鏡しかなかった。

 黒縁眼鏡、銀縁眼鏡、上フレームのみ、眼鏡なし――眼鏡と名前をセットで頭に刻み込んでいると、たちどころにお酒を手にした十人強の男たちに囲まれた。学部の先輩たちである。

「おまえらの代、ど当たりだよなぁ。こんなかわいい女子が二人もいるなんてさあ」

「俺たち二年と三年生の代なんて野郎ばっかなんだぜ」

 缶ビールを手にした先輩が「くっ」と歯を食いしばりながら恨めしそうに言った。目に涙が滲んでいて、ぎょっとする。もう一人の先輩ももらい泣きしていた。二十歳はたちを越えた先輩たちはすでに浴びるように飲んでいるようで、テンションが突き抜けているのである。

 未成年に飲酒を強要する先輩もおらず、皆、よい人そうであたしはほっと息をついた。

 相沢さんは、酔っぱらいたちを相手ににこにこと愛想よく相槌を打っている。あたしも真似して笑顔をつくり、聞かれるがままに質問に答えたり、頷いたりしてみる。ほとんど初対面の人たちと膝をつきあわせ、目的もなく話をし続けるなんて初めての経験だった。

 たくさんの声がうねりのように押し寄せて、だんだん身体が火照ってきて、頭がくらくらしてくるようだった。

(今、何時だろう)

 時間を確認したかったが、場の雰囲気を壊しそうでなんだかはばかれた。

 相沢さんを見ると、ビール缶を握った先輩たちに囲まれて楽しげに話している。

 バイト先の客の話に興じていた先輩の話が一区切りしたところで、あたしはそっと席を立った。

「どうしたの?」

「ちょっと……おトイレに」

 唯一の女子だという四年の先輩が顔を上げた。

「大丈夫? ついていこうか?」

「ありがとうございます。大丈夫です」

 あたしは小さく微笑むと、会場を抜けて外に出た。そのまま駐輪場まで歩き、腰高の横断防止冊にもたれた。

 夜風がほてった体に心地よく、あたしは大きく息を吐いた。まだ頭の中で大勢の声が響いているようだった。

 腕時計を確認すると、もう十九時半である。一次会が終わるまであと三十分。頑張れるだろうか。

 ぼうっと星空を眺めていると、橘さん、と声をかけられた。

 あたしは我に返ったように振り向いた。まだ新しい苗字に慣れていないのである。

 構内の明かりを背に現れたのは、銀縁眼鏡の西森にしもりくんだった。

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