5

 母が「紹介したい人がいる」と言ったのは、それから三日後のことだった。

 あたしは驚きのあまり、ぽかんとしてしまった。悪魔の言葉を疑っていたわけではない。でもまさか、こんなに早く母が結婚するなんて。

 お相手は母が勤めているお店のお客さんで、母よりひとまわり年上だという。

詩織しおりにもね、ぜひ会ってもらいたいのよ……」

 おずおずと見上げてきた母に、あたしは「もちろんだよ」と大きく頷いた。お膳立てしたのはあたしなのだ。

 顔合わせは老舗の料亭だった。向かう途中、母は電車に揺られながらお相手のことを話してくれた。

「洋食のテーブルマナーが不安だって言ったら、わざわざレストランをキャンセルして予約しなおしてくれてね」

 優しい人なの、と母は笑う。

 あたしは嬉しかった。母にさえ優しければそれでいい。

 数寄屋造りの料亭はものすごく洗練されていて、気後れしてしまうほどだった。のれんをくぐると、和服姿のきれいな女将さんが個室に案内してくれた。

 庭園に面したお座敷では、すでに一人の男性が待っており、あたしたちを見て腰を浮かせた。

たちばなです。初めまして」

 丸眼鏡の丸顔の、人の良さそうなおじさんという印象だった。実際、物腰も口調も穏やかで、あたしにも気を使ってくれる人だった。

 そして、誰もが知っている大企業の役員で、いわゆる富裕層という世帯であるらしかった。

 一も二もなく「母をよろしくお願いします」と頭をさげたあたしに、橘さんは面食らったようだったけれど、すぐにほっとしたように笑った。

「高校生の娘さんがいると聞いて嫌がられるかなあと思ったんだけど……。安心しました。こちらこそよろしくお願いします」

 橘さんは、あたしなんかに丁寧に礼を返してくれた。悪魔には、お母さんを大事に幸せにしてくれる人と条件を付けたのだから、断る理由など何もない。

(やっとお母さんに楽をさせてあげられる)

 泣き出したいくらいに安堵した。悪魔と契約して、本当によかった。

(そういえば……今頃、何してるんだろう)

 うざったいくらいあたしのそばを離れない悪魔だったが、今回の顔合わせにはなぜかついてこなかったのが不思議だった。



 母とあたしは住み慣れた築四十年の公営団地から、広々とした庭付き一戸建てに引っ越した。

 高校には電車を乗り継いで通うことになってしまったけれど、もう卒業も間近なのでそのまま通うことになった。登校時間も以前より一時間半も早くなったが、あたしはまったく苦だとは感じない。母が毎朝あたたかな朝食を用意して、笑顔で送り出してくれるからだ。

 そう、母は夜の仕事を辞め、専業主婦になったのだ。家に帰ると母がいる。それだけで喜びがお腹の底から湧きあがってくるようだった。

 再婚相手には息子がいた。名前はあつしといった。大学四年生だという。顔立ちは丸顔の父に似ずシャープな印象だったが、人の良さそうな雰囲気がお父さんとよく似ていた。

 実際、篤さんは父親と同じように優しくて、気遣いのできる人だった。お風呂上りやトイレに鉢合わせしたりして若干微妙な雰囲気になったりしても、いつもにこにことさりげない一言で和ませてくれた。こっちに気を使わせないように気を使ってくれるのだ。あたしと四つしか違わないのに――大学生ってほんとうに大人だ。

 お義父とうさんといい、お義兄にいさんといい、あたしにとっては初めてのタイプの男性だった。彼らには本当にありがたいという言葉しかなかった。もしかして、母以外の人間に感謝の気持ちを抱くのは初めてかもしれない。

 そして、悪魔は――。

 デスクチェアにどっかり座りこみ、不機嫌そうに腕を組んでいた。

 団地暮らしのころ、悪魔は、家にあたししかいないのをいいことに家じゅうを我が物顔でうろついていたのだが、基本、あたしの部屋にいるようになった。

 そしてあたしは、この広い家に引っ越してきてから悪魔と寝ることを拒否していた。なぜなら、篤さんと部屋が隣なのである。彼が部屋にとつぜん入ってくることはありえないのだが、人の気配がする中で悪魔と共に寝る気にはとうていならなかった。

「篤には俺の姿は見えない。声も聞こえないんだ。かまわないだろう」

「そうなんだけど……でもなんか嫌なの」

 むっつりと押し黙る悪魔を、あたしは呆れたように見やる。

 この悪魔、あたしのことが本気で好きなんじゃないかと思う。

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