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 あたしはベッドの端に座ったまま、呆けたようにフローリングの木目を眺めていた。

 あの後、悪魔に送られるがままに高校に行って、しっかり授業を受けて帰ってきた。しかし学校にいる間じゅう、足元はふわふわとこころもとなく、頭は麻痺したように何も考えることができなかった。

「寝ないのか」

 ぎくりとして顔を上げる。

 ベッドの横にひっそりと立つ悪魔が、じっとこっちを見ていた。

 体を横たえてしまったら、悪魔は当たり前のようにあたしの背後に滑り込んでくるだろう。いつものように。そしてこの身体に触れるのだ。近藤を殺した手で――。

 震えが込み上げ、自分の両肩を抱いた。そうっと悪魔の手に目を馳せる。血色の悪い節くれだったこの手が、すべらかな腕が剣に変わり、近藤にとどめをさした。公衆の面前で。

 枕辺まくらべに立って死期を告げるとか、魂の尾を鎌で刈り取るとか、そんな寓話めいた話ではなかった。ただ姿が見えないってだけで物理的に近藤を殺害したのだ。

 ふいに悪魔が隣に座ってきた。

 マットレスがぎしりと沈み込み、あたしの身体はかたく緊張する。

「……怯えているな。俺が怖いか?」

 あたしは息をつめて、自分の膝を見つめ続ける。

「おまえが願ったことだ」

 悪魔はあたしをベッドに寝かせると、背中側に横たわった。お腹に冷たい手が回される。まるで、背中から闇に覆いかぶさられているようだ。

(そうだ。あたしが望んだんだ)

 怒りと憎しみに駆られ、衝動的に近藤の死を願った。自分が誰かの命に干渉した――恐ろしさに震えが止まらなかった。

 悪魔が背後から囁いた。

「悔やむことはない。やつの陰湿で執拗な性格はよく知っているだろう? これからもおまえの目の前に何度も現れて、母を侮辱し続けたはずだ」

 ぴたりと震えが止まった。腹の底で、黒くたぎるものが頭をもたげたようだった。

 悪魔は染み通るような声音で言葉を重ねる。

「近藤はおまえの大事な母親をずっとよこしまな目で見ていたのだぞ。奴はこの家に来る気でいた。おまえに会いにくるのではない。母親に会いにだ」

 あたしは知らず悪魔の腕に爪を立てていた。怒りが、後悔や恐怖を塗りつぶしてゆく。

「近藤がいなくなることは、おまえの人生で必要なことだったのだ」

 悪魔は自分の腕を傷付けているあたしの手を優しく撫でながら言った。

(……そのとおりだ)

 でも。だからといって、あんなふうにむごたらしく殺されることがあっていいのか。

 近藤を殺せと命じたのはあたしだ。もっと別の方法――たとえば海外に引っ越すとか、他にもいくらでも方法があったというのに。

 いや、違う。

 あれは衝動的なんかじゃない。幼いころからの、切実な願いだ。

 あたし自身が心の底で願っていたのだ。近藤の死を。子供の頃から頭の中で何度も何度も近藤を殺していた。悪魔は、あたしの本当の望みを形にしただけだ。

 まだ六歳かそこらのころから人の死を願うなんて。異常だ。あたしは、悪魔なんかに目をつけられるにふさわしい人間だったのだ。

 もの悲しさが胸に去来した。どうしてこんなふうになってしまったんだろう。

 そこで――天啓のようにひらめいてしまった。二つ目の願いを。

 あたしを異常な女にし、母が苦労することになった元凶。

それを、のだ。

「ねえ。あたし……お父さんが欲しい」

 髪を優しく梳いていた手がぴたりととまった。

 あたしはくるりと背後に向き直り、悪魔の困惑を隠せない顔を真正面から見つめた。

「お母さんを大事にしてくれて、ちゃんと仕事をしてる、優しいお父さんが欲しい。これが二つ目の願いよ」

 父親がいないこと、母が夜の仕事をしていること――それは自分の努力ではどうにもできないこととあきらめてきた。だから自分がいい仕事について、母を助け、守らなきゃと思っていた。

 だが、今のあたしにはこの悪魔がいるのだ。を使えば、経済的にも物理的にも母を守ってくれる、ガーディアンをすぐに手に入れることができる。

 ぱあっと道が開けた気すらした。

「自分のことなら何を言われたって我慢できる。でもお母さんを侮辱されるのだけは許せない。この先、もう誰も殺したいなんて思わなくていいように、あたしの願いをかなえてよ」

「……本当にそれでいいのか?」

 低く問うてきた悪魔に、あたしは頷いた。

 頭の中で、担任の篠原の言葉が反芻される。

 ――後ろ暗い経歴を持った親族がいるってだけで大きな足枷あしかせになるんだから。

 ものすごく腹が立って悔しくて、ぜったいに許せない言葉だったが――心の底ではわかっていた。大学入試を突破したとしても、次は就職活動が待っている。いずれは結婚もするかもしれない。その時に、母が差し障りになりかねないことを。

 このままではいつか母を恨んでしまいそうで怖かった。女手ひとつであたしをここまで育ててくれた母を。

 そうなったら、あたしは自分を一生許さないだろう。それこそ――あたし自身で、自分を殺してしまいかねない。

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