3

 あたしははっと車道に目をやった。大型のアルミバンが重い音を響かせて近づいてくるのが遠目に見えた。

 そのスピードは緩まない。運転手は近藤に気付いていないのだ。あたしは全身から血の気が引いてゆくのを感じた。

 スーツの男性が今にも車道に飛び出さんばかりにして叫んだ。

「何やってんだ! 轢かれるぞ!」

「た――立てねえんだよお!!」

 悪魔が背中を踏んでいるのだ。

 近藤は渾身の力で悪魔の足の下から逃れ、こけつまろびつ歩道に向かって走った。

 突然に悪魔の姿がふっと消え、一瞬の間に近藤の背後に現れた。悪魔は近藤を羽交い絞めにし、二人はもつれあうようにして走ってくるアルミバンの前に倒れ込んだ。

 鈍い音とともに目の前で巨大なタイヤが近藤の上に乗りあげるさまが、まるでスローモーション映像のようにはっきりと見えた。その恐怖に染まった表情までも。

 あたしは頭の中が真っ白になった。

 アルミバンはすぐさま急ブレーキをかけてとまった。五メートルほどのタイヤ痕の後ろで、近藤がひしゃげて横たわっていた。左足から右肩にかけて斜めに潰れている。それはもう人間の厚みではなかった。

 確かに一緒に轢かれたはずの悪魔は、反対車線に立っていた。ホログラム映像をよぎるように、悪魔の身体を何台もの車が通り抜けてゆく。

 アルミバンの運転手が運転席から飛び出してきてきて近藤に駆け寄った。その顔は血の気がひき、ひどく青ざめていた。

「そんな……俺はちゃんと前を見てたんだ。

 運転手は誰ともなく訴えると、まるで信じられないものを見るように近藤を見下ろした。

 あたしは込み上げる震えを必死でこらえていた。悪魔はただ近藤をもてあそんでいたのではない。完全に殺せるであろう車両を選んでいたのだ。あの運転手もまた被害者なのだ。

 先ほどのスーツの男性が鬼気迫る顔つきで携帯電話を耳に当てていた。救急車を呼んでいるのだろう。他の信号待ちをしていた人々はショックで呆然としていた。その中の一人が声を上げた。

「……まだ生きてるわ」

 こちらに向かって歩いていた悪魔は、その声に気付いたように振り向いた。踵を返し、遠巻きに見ている人の壁をすっと抜けて車道に戻ってゆく。

 あたしは悪魔の後を追った。

 悪魔は近藤の傍らに立った。その目は凍りつきそうなほど冷ややかで、何の感情も読み取れない。

 そして近藤は――血走った目をかっと見開き、悪魔を見つめていた。

(見えているんだ……)

 ひゅーひゅーと口から血泡とともに息が漏れている。潰されていない左胸がかろうじて上下している。近藤が恐怖しているのがわかった。

 悪魔はじっと近藤を見下ろしていたが、ふいに右腕を掲げた。その腕が飴細工のように伸びたかと思うと、細く長いつるぎの形に変わった。

 近藤の見開かれた目が、小刻みに震えた。

 悪魔はひざまずき、剣先を近藤の左胸――心臓だと気づいた――にまっすぐ突き立てた。

 切っ先は音もなく沈みこんでいった。なんの躊躇もない、よどみのない所作だった。

 近藤は口から血を吹きこぼし、苦しみ喘いでいたが、やがてくるりと白目をむいた。

 黒々とした血がコンクリートにじわじわと広がって流れ、道端に溜まった街路樹の落葉を押し流してゆくさまを、あたしは息をつめて見つめた。

 生々しい金臭かなくささ。

 喧騒。

 救急車のサイレン。

 悪魔は近藤の学生ズボンで刃をぬぐうと、立ち上がってあたしを見た。

「完全に遅刻だが――いたしかたあるまいな」

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