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「詩織さぁ、きれいになったよな。もともとあか抜けてたけどよぉ」

 じりじりと距離を詰めてくる近藤を、悪魔が隣で不機嫌もあらわに見据えていた。

「今度メシでも行かない?」

「あの、あたし……」

「てかさぁ、彼氏できた?」

 軽い口調とは裏腹に、目は鋭くあたしの答えを待っていた。

 いないと呟くと、近藤はふてぶてしい笑みを浮かべ、「だろうな」と言った。

「おまえみたいな生意気な女に男なんてできるわけねえよな。――ところでさ、おまえの母ちゃん、あいかわらずあの仕事続けてんの?」

 一瞬頭が真っ白になった。かっと強烈な怒りが突き上げ、眩暈すら覚えた。

 久しぶりの感覚だった。小学生の頃はそれをさんざんネタにされたものだったが、中学に入るとほとんど言われなくなり、県でトップの高校に入学すると、あたしの家庭事情を知っている人はまわりにほとんどいなかったからだ。

「この前、駅で偶然見かけてよ。したら俺に気付いて、にこにこ会釈してくれてさあ。いつ見てもわけえし美人だよなあ。俺さあ、ガキの頃からずっとお前の母ちゃんのこと気になってたんだよ。俺が高校卒業するまで仕事辞めないように頼んどいてくれよな」

 あざけるような声音が頭の中にわんわんとこだました。

 近藤はあたしの心中などお構いなしに、顔を覗き込み、下卑た笑みを浮かべる。

「詩織、ほんと母ちゃんにそっくりになったよな。今度おまえんち、遊びに行くわ」

 またな、と近藤はあたしの肩を軽く叩いた。その時、手が髪をすっと撫でていった。どさくさにまぎれて触ったのだ。

 あたしは言い返すこともできず、立ち尽くした。

 怒りのあまり、震えが止まらなかった。心臓がだくだくと早鐘を打っている。

 悪魔はあたしに視線をくれ、ぎょっとしたように「大丈夫か」と問うた。――よほどすさんだ顔をしていたのだろう。

 あたしは遠ざかってゆく近藤の背中をぎりぎりと睨みすえた。視線に力があったなら、きっと射殺してやれただろう。あいつは何を言えばあたしが一番傷つくのか知っていて、痛めつけて喜んでいるのだ。小学生の時のように。

「……近藤を殺して」

 横に立つ悪魔の身に、緊張が走ったのを感じた。

 あたしは近藤に向けた眼差しそのまま、悪魔を見据えた。

ひとつめの願いだよ。さっさとやって」

 近藤は通勤途中らしき男女四人に混じって、横断歩道の前で信号待ちをしている。悪魔はそれを見やり、凄惨な笑みを浮かべた。

 ぞくっと背筋が凍った。

 取り返しのつかないことをしてしまったのでは――そんな思いがよぎりかけたそのとき、悪魔の姿がふっと消え、一瞬のうちに近藤の背後に現れた。

 あたしは息を飲む。近藤は悪魔の存在に気付いていない。同じく信号待ちをしている周りの人たちも誰も気づいていないようだった。

 目の前の二車線道路は、車がまばらに通過していた。

 足元から震えが立ちのぼってくるのを感じた。悪魔が何をしようとしているのか、わかってしまったからだ。

 車が近づいてくる音がして、悪魔は見計らったように近藤を押した。

 近藤はつんのめるように車道に飛び出た。あたしは悲鳴を飲み込む。

 車は激しくクラクションを鳴らし、大きく反対車線に膨らんでぎりぎりのところで近藤を避けた。

 近藤は転げるように歩道に戻ると、顔を真っ赤にして怒鳴った。

「危ねえっ。何すんだよ!!」

 信号待ちをしている人々は、皆、唖然と近藤を見ている。

「誰だよ俺を突き飛ばしたのは!! 誰か見てなかったのかよ!」

「あんたが勝手に飛び出したんじゃないか」

 スーツ姿の男性が咎めるように言った。

 近藤は一瞬ぽかんとし、すぐにまなじりを吊り上げて男性に食ってかかった。

「そんなわけねえだろ、今――」

 悪魔はつかみあっている近藤と男性の間に入ると、近藤の胸あたりをどんっと突き飛ばした。

 近藤は尻もちをついた。その顔は蒼白であった。真正面から押されたのだ。ことがわかったはずだ。

 近藤はがくがくと立ち上がると、おぼつかない足取りで車道に背を向け駆け出した。悪魔はすかさずその後ろ襟をつかみ、引き倒した。慌てて立ち上がった近藤をさらに突き飛ばし、転んだところを蹴り転がして車道に押し出してゆく。

 悪魔は無表情であったが、彼がたのしんでいるのがいるのがわかった。活きのいい獲物をもてあそんでいるのだ。

 何台もの車がクラクションを鳴らしながら、車道に尻もちをついている近藤を避けて通り過ぎてゆく。

 近藤は這いつくばるようにして歩道に逃げ出そうとした。悪魔が背後に現れ、その足首をつかみ、ずるずると引きずった。たちどころに車道の真ん中に戻される。

 まわりの人たちはそれを凍りついたように見つめていた。彼らには悪魔の姿が見えていないのだ。およそ信じられない光景であろう。

 その時、ひとりの中年女性が叫んだ。

「ねえ! トラックが来る!」

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