3

 やがて校門が見えてきて、悪魔はぎょっとしたように足をとめた。

 それもそのはず。あたしが通っているのはミッション系――キリスト教主義女子学校なのだ。校舎のてっぺんには大きな十字架が燦然と輝いている。

 あたしは正門前で立ち止まり、携帯電話をいじるふりをして小声で呟いた。

「本当に十字架が怖いの?」

「……ああ」

 悪魔が掠れた声を漏らす。その本気で動揺を隠せないようすに、あたしはひっそりと驚いていた。悪魔に魔除けは有効なのだ。

「こんなところに連れてきて、俺をはらうつもりなのか?」

 睨みつけてくる悪魔を、呆れたように見上げた。

(いつあたしが連れてきたというんだ。勝手についてきたんでしょうが)

 そもそも、こんなところも何も、あたしにとっては毎日通っている学校なのだ。

 悪魔は不適に笑う。

「残念だが、あんなもので俺を退治することはできない。人間にもあるだろう、閉所や暗所、高所、鋭利なものが無条件に怖いということが。それと似たようなものだからな。恐ろしいだけでこの身を害するには至らない」

「……ふうん。触ったら火傷するとかいうわけじゃないんだね。要は気持ちの問題なんでしょ?」

 情けないのね、と小馬鹿にしたように笑ってやった。もちろん恐怖症が臆病とは違うことはわかっている。だがあたしはこの悪魔を傷つけてやりたかったのだ。

 あからさまな挑発に、悪魔はむっとしたようだった。あたしはそれを一瞥すると、携帯電話を鞄にしまいこみ、校門をくぐった。

「いつ願いを言いたくなるかわからないんだから、そばを離れるのは許さない。一緒に来なさいよ」

 悪魔は挑むように校舎を睨みつけていたが、意を決したように歩き出した。額に汗をにじませながらもやっと門扉を通り過ぎ――そこで、ぎくりと顔を上げた。

 校門の脇には、聖母子像が佇立しているのである。聖母マリアは眼球のない目で慈悲深く悪魔を見下ろしていた。

 石像と対峙する悪魔を見ながら、あたしはほくそ笑んだ。あんな石くれが本当に怖いのか。なんだかすごく可笑しかった。

(まだまだ序の口だよ。校舎の中はこんなものじゃない)

――本番はこれからだ。



 校舎の中は、柱や天井、手摺など、いたるところに宗教色の濃い、意味ありげな意匠が施されている。不気味な浮彫レリーフやステンドグラス。聖画の油絵や天使像。悪魔はそれらの中を、歯を食いしばりながら辛抱強く四階の教室までついてきた。

 教室は、朝が一番かしましい。毎日顔を突き合わせているというのに、何を話すことがあるのだろうか。そんなことを思いながら、クラスメイトの誰とも挨拶を交わすことなく自分の席――窓際の後ろから二番目――に着く。

 別に悪意を持って無視されているとかではなく、互いに無関心なだけである。人間関係が面倒なあたしにとっては、かえってありがたいくらいだった。

 悪魔はあたしの机の横に立ち、しんどそうに息を吐いた。ただでさえ血色の悪い顔は紙のように真っ白だった。

(あんなものが、ほんとうに《効く》んだ……)

 学校自体はミッション系であるのだが、生徒には宗教教育もなければ礼拝などの参加義務もない。生徒も教師もほとんどが仏教徒――というより無宗教で、それら装飾の意味を知らない。仏間の伽藍と大差ない、ただの飾りだ。だが、それらは確かに魔を祓う力を持っているのだ。だが、言い換えれば、そんなものでは悪魔は退ということだ。まさに程度の機能しかない。

 それでも悪魔にとってはたいそうつらいようだった。

 体を支えるように窓の桟に手をつき、額に玉の汗を浮かべ、こらえるように窓の外の一点を睨みつけている。

 思わず見とれてしまった。大人の男が歯を食いしばって苦痛に耐えている姿など、そうそう見れるものではない。

 このやたら偉そうであたしを見下している悪魔を痛い目にあわせてやったら、さぞかしいい気味だろう――そう思っていたのだが。今や、それは二の次になっていた。

 整った顔が苦悶にゆがむようすに、たまらなくぞくぞくした。

 あたしの悪魔はなんて美しい男なんだろう。彼の姿があたしだけに見えるもので本当によかった。ほかの人に見せるなんてもったいない。

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