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「結城! 外ばかり見ているんじゃない。授業に集中しろ!」

 悪魔の横顔をうっとりと見つめていると、いきなり怒鳴りつけられた。

 朝のホームルームが終わり、授業が始まる時間だった。一限目は数学で、声を上げたのは数学教師の中島なかじまだった。細くつり上がった目がこっちを睨みすえている。

 あたしはこの教師に心の底から嫌悪感を抱いていた。あたしだけでなく生徒全員に嫌われている。常に苛々していて、怒鳴り散らかしているみっともない大人だった。あからさまに生徒を下に見ていて、本当ならばこんなところでガキの相手などしてるはずじゃなかったという腹の底が見え見えなのである。

 思い上がった小物。それが生徒たちの、この教師への評価だ。

 そしてこの数字教師には、最悪すぎる渾名が付けられていた。ハラスメンとう。中島の島をもじったものである。

「おい、立て。結城」

 あたしは無言で立ち上がる。中島はつかつかとあたしの席の前に来ると、ねちっこい、下卑た視線を無遠慮に向けてきた。

(こいつ、何しに学校に来てるんだ。教師のくせに)

 ここは女子高だ。過敏すぎるくらいの女子たちが、あんたの目線に気づいていないとでも思っているのか。気づいていようがきっと構わないのだ。あたしたちのことなど、馬鹿で無力なガキとしか見ていないのだろうから。

 くどくどといつもの説教を繰り返しながら、中島は太股あたりから舐めるように視線を上げてゆく。怖気おぞけ立つほどの嫌悪感に、吐き気を覚えるほどだった。ハラスメンとう――誰が言い出したのかは知らないが、まさに名は体を表しているとはこのことだ。本当に、なんて気持ちの悪い大人だろう。

 一方で、あたしはこっそりドブネズじまと呼んでいた。中島は湿った暗い下水道を這い回り、ゴミを喰らうドブネズミそのものだ。下水道は学校で。そしてゴミはあたしたちだ。学校ここにいる限り、あたしはドブネズミに舐め回され、囓られ続けるゴミでいなければならない。

(もう嫌……逃げ出してしまいたい)

 ひっそりと拳を握りしめたその時。――ふと、背筋が凍りつくような寒気さむけが身を襲った。

 この感覚――悪魔を召喚した時と同じものだ。

 とっさに窓のほうを振り向き、息を飲む。そこに、悪魔の姿なかった。

「よそ見するな結城!!」

 中島の怒声に、あたしはぱっと顔を正面に戻した。うつむきがちに、目だけで左右を見わたす。悪魔の姿はどこにもなかった。なのに、禍々しい気配だけは濃厚に周囲に漂っている。

(どこに行ったの……?)

 絶えず込み上げる悪寒おかんに身体が勝手に震えだした。がちがちと鳴る歯を食い縛り、必死で震えをこらえていると、突然、ふっと恐怖がかき消えた。

 全身の緊張が解けて、身体がいっきに軽くなる。浮遊感さえおぼえるほどだった。

(何……今の……)

 なかば呆然としながら額の汗をぬぐおうとしたが――手が動かなかった。

 突然のことに、頭が真っ白になった。手だけでなく、身体ぜんぶが金縛りにあったように動かない。呻き声さえ上げられなかった。

(これは……まさか、悪魔のしわざ……?)

 そう思った瞬間、微動だにしなかった手が勝手に動き出した。机の横に掛かった通学鞄をつかみあげ、ファスナーを開き、机の中から教科書やノートを次々と鞄につっこんでゆく。

 あたしは呆気にとられてそれを見ていたが、すぐに血が逆巻さかまくほどの恐怖が込み上げてきた。

 悪魔に身体を乗っ取られたのだ。

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