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 目覚まし時計のアラームが鳴っている。

 手探りで音をとめて、時刻を確認した。――午前六時三十分。

(……もう朝なの?)

 いつの間にか眠っていたらしかった。

 ベッドの中で半身を起こし、ぼうっとした頭で昨日のことを思った。こうやって一晩たち、いつものような朝を迎えると昨日のことが白々しく思えてくる。洗面所で顔を洗い、制服に着替え終わった頃には夢だとしか思えなくなっていた。

「変な夢……」

 変でもあったが、知れ以上にものすごくリアルな夢だった。悪魔の作り物のような顔も、低く通る声音も、美しい翼の触り心地も――本当にあったことのようにありありと思い出すことができる。

 リビングに行くと、朝食が用意されていた。

 冷たい卵焼きとソーセージを噛み、食パンを牛乳で流し込む。

「ごちそうさまでした」

 ひとりぶんの食器を手早く洗うと、水切りかごに並べた。歯を磨き、髪を整え、通学鞄をつかむと、寝ている母を起こさないようにそっと家を出た。



 初夏の日は高く、まだ朝の七時を過ぎたばかりだというのに陽射しが燦々とふりそそいでいた。

 その頃になると、もう悪魔のことなどすっかり頭から抜けていた。もうすぐ夏休み。受験勉強の正念場が始まる。

 あたしは予備校に行っていないので、自分の位置を知る手段は学校で定期的におこなわれる全国統一模擬試験だけだった。

 自分の停滞した成績を思い、鬱々とした。

 二年の三学期までは十分に安全圏に入っていたのに――思わずため息が漏れる。

 他の人は予備校でどんな勉強をしているんだろう。学校の教師が知らないような、特別な受験対策を伝授されているに違いない。

(でもいまさら予備校に行きたいなんて、お母さんに言えない)

 どうしても地元の国立大学に行きたかった。成績優秀者であれば、授業料の全額免除がうけられる。授業料だけでなく、通学費や課外活動費までも援助してもらえるのだ。

(お母さんに、予備校の夏期講座だけでも通わせてくれるように頼んでみようか。……いくらかかるだろう。一か月ぶんの家賃くらい、ふっ飛ぶかもしれない)

 予備校代を稼ぐためにアルバイトをしようか――そんな考えが頭をよぎり、慌てて首を振った。そんなの本末転倒だ。

「どこへ行くんだ?」

 突然、男の声が耳元で聞こえた。ぎょっとしてふりかえると、悪魔が後ろから覗き込んでいた。

 思わずぽかんと見入ってしまったが、悪魔の顔が思いのほか近くにあり、我にかえって後ずさった。

 悪魔は昨日と変わらない膝裏に届くほどの長髪で、ずるずるとした裾の長い寛衣をまとっていた。そんな奇妙な格好の男が、通いなれた住宅街の通学路に当たり前のように立っている。ものすごく異様だった。

(夢じゃなかったのか)

 うつつまぼろしが混じりあったような奇妙な感覚に、軽い眩暈を覚えた。

「どこへ行くのかと聞いている」

 悪魔は尊大な口調で聞いてきた。

「……学校」

 悪魔は「そうか」と言うと、あたしと並び立って歩いた。かげろうが立つほどの照り返しで、コンクリートが濡れたように陽光を照り返していたけれど、悪魔のまわりだけは薄暗く、寒々として見えた。

「外でもそんな格好なの?」

 おずおずと見上げるあたしを見もせずに、悪魔は言った。

「周りの目など気にする必要はない。俺は契約した者にしか見えないのだから」

 本当にまわりの人には見えてないのだろうか。こんな変わった格好の男と並び歩いているところを誰かに見られることは、悪魔に魂を捧げることよりもよほど恐ろしいことのように思えた。

(……この人、高校までついてくるつもりなのかな)

 あたしは悪魔の横顔をちらと見上げ、思わず「あれっ」と声をあげてしまった。

 翼がないのだ。あの背をゆうに越えるほどの、大きなこうもりの翼が。

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