5

「おまえのほうはどうなんだ。条件を飲むんだな?」

 そう言った悪魔の灰色の目に暗い光がともったような気がして、あたしは「ちょっと待って」と声を上げた。

 悪魔は「なんだ」と眉をひそめる。

「その……、もしあたしが三つ目の願いごとをせずに死んだらどうなるの?」

「契約は無効だ。魂も体も、俺に渡す必要はなくなる。願いを三つ叶えるという約束だからな」

「じゃあ二つ目でやめて、寿命を迎えるってこともできるんじゃないの」

「それでも別にかまわない。――だが、三つ目の願いをせずに死んだ人間は一人としていなかったな」

 なんだか眼前にしかけられた罠をじっと見つめているような気持ちになり、あたしは黙り込む。そんなあたしに、悪魔はいくぶん口調を和らげて言った。

「契約といっても難しく考えることはない。要するに、互いの欲しいものを交換しあうだけだ」

 あたしは顔を上げた。

「あたしなんかが欲しいの?」

「ああ」

 悪魔は顔色も変えずさらりと言った。

「そもそも悪魔おれが欲しいと思わなければ、人間は悪魔おれと契約することはできないのだ。おまえがくだらないと馬鹿にしたその本を手に取らせたのも、俺だからな」

 あたしは唖然とした。そうやって悪魔は目を付けた人間に罠をしかけるのだろう。

「だが、俺はきっかけを与えただけにすぎない。悪魔を召喚すると決めたのはおまえの意思だからな。そうでなければ契約の意味はない」

 あたしは悪魔を見つめた。悪魔に魂を売ってでも願いを叶えてほしい人はきっとたくさんいるはずだ。

 なのに。――この悪魔は、どうしてあたしを選んだのだろう。

 スポーツ選手や政治家、会社経営者、どこかの国の王族だとか、何かの教祖だとか。こんなちっぽけなあたしよりも大きなこころざしを持っている人間はたくさんいるだろうに。

 だが、それを尋ねるのはなんだかはばかれた。おごっている台詞のようで、口にしたくなかったのだ。

(……悪魔に選ばれる理由なんてどうせろくなものじゃない。人に好かれるのとはわけが違うんだ)

「質問は終わりか?」

 あたしはじっと悪魔を見つめていたことに気付き、慌てて顔を伏せた。

 思えば、こんなにもまじまじと男の人を観察したことはなかった。あたしは父親がいないし、一人っ子だから兄弟もいない。彼氏もいたことがない。なのに悪魔に対してはまったく気詰まりな感じがしなかった。相手が人でないから遠慮する必要も気後れすることもないのか。

「最後に一つ聞かせて。悪魔に魂をとられると、どうなるの?」

「死んだあとのことだからどうでもいいのじゃなかったのか?」

「だって、苦しかったり痛かったりしたら嫌じゃない」

 見上げたあたしの顔を、悪魔は温度の感じない灰色の目で見おろした。

「そこでになるだけだ。人の魂は生まれ変わりを繰り返すことで成長してゆく。現世で魂を磨き、徳を高めれば、来世で生まれでる時にその積んだ徳の高さが受け継がれる。現世で魂の価値を下げれば、下がった位置から来世は始まる。それを永劫繰り返す。だが魂を俺に渡せば、そこで終わりだ」

「生まれ変わらないっていうこと?」

「そうだ」

 なんだぁ、とあたしは息を吐いた。この現世で生を終わりにできるなら、むしろ望ましいほどだった。

「じゃあ契約する」

 悪魔は薄く笑って頷いた。――ぞくりと悪寒が身を襲う。

 悪魔はたちどころに黒い煙と化し、あたしの足元の影に吸い込まれていった。黒煙がとぷんと黒い滴を跳ね上げて完全に影の中に溶けるのを、あたしは呆気に取られたように見つめた。

 膝をつき、おそるおそる自分の影に触れる。つるつるとした何の変哲もないカレンダーの質感だった。なかば茫然としながらあたりを見回す。そこは白っぽけた蛍光灯の明かりに照らされた、いつものかわりばえしない自分の部屋で――さっきの出来事はすべて白昼夢だったのではないかと疑ってしまいたくなった。

 これから何か変化が起こるかもしれない。そう思い、しばらくじっと待ってみたが、何も起こらなかった。悪魔との契約はただの口約束のみで、契約書もなければ、なんらかの契約の証のようなものはいっさいないのだと知った。

 魔方陣を描いた紙を小さく折りたたみ、ごみ箱に押し込んだ。『願いをかなえるおまじない百科』を拾い上げて、通学鞄にしまう。

(明日、図書館に返そう)

 切り身の入っていた皿を持ってキッチンに行き、流しに置いて、夕食を食べた。食器を洗い、お風呂に入り、勉強をして、ベッドにもぐりこむ。

 身体はじっとりと疲れているというのに、気持ちが昂り、なかなか寝つくことができなかった。

 布団から手を出して、指先を見つめる。悪魔の肌はすべらかで、冷たかった。

 あの感覚が幻だとは、とうてい思えなかった。

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