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 あたしは呆気にとられたようにその後ろ姿を見つめた。心臓がどくんどくんと脈打っている。暴力がこなかったことに、震えるほどの安堵をおぼえていた。

 もはや悪魔の翼なんてどうでもよくなっていたが、あたしは慎重に――魔法陣からうっかり体の一部でもはみ出さないように――立ち上がった。

 長く黒々とした髪を割って、大きな黒い翼がすらりと天に向かって立ち上がっていた。薄い皮膚に包まれた丈夫そうな太い骨がゆるやかな曲線を描き、規則的に組まれ、翼を形づくっている。

 目の前で見ると圧倒されるほどの迫力があった。

(すごい。あたしの背丈を越えるんじゃないかしら)

 折りたたまれた状態でこれだけの大きさなのだ。広げたらどれだけになるのだろうか。

 あたしはついさっきまで怯えていたことなど忘れて、すっかり見入ってしまった。胸がどきどきしている。

(付け根はどうなっているんだろう)

 背中を覆う髪を、カーテンを開くかのように指先でそうっと左右に分けた。青ざめたような白い背中がのぞく。

 悪魔の着ている寛衣はバックドレスのように背中側が深くたんだもので、翼が肩甲骨のあたりから生えているのがしっかりと見てとれた。皮膚は一続きなのに、翼の付け根から薄墨を塗ったように色が変わっている。

(あたしには無い器官……なんてきれいなんだろう)

 思わず骨にそって指でなぞると、悪魔は弾かれたように振り向いた。その目が鋭くて、思わず息を飲む。

「触れるな。見るだけだ」

 悪魔の声が、動揺したかのように少し掠れていた。

 もういいだろうと言われ、あたしは手を引っ込めた。艶やかな黒髪がさらさらと肩を滑り、あっという間に背中を覆うのを名残惜しい思いで見つめた。

「では話の続きだ。条件を飲むか否か、この場で答えるんだ」

 ええと、とあたしは悪魔を見上げた。

「体と魂を、渡せばいいの?」

「そうだ」

「死んだあとでいいの? あたしが死ぬときはたぶんくっちゃくちゃのおばあちゃんだろうけど、それでもいいの?」

「かまわない」

 悪魔は打てば響く早さで答えた。

「死んだ後のことならどうなろうがかまわないけど……でも日本は火葬にするから、体はあげれないと思うよ」

 そこで悪魔は微かに目を見開いた。

「燃やすのか」

「そう。だから死後にあげられるとしたら、おこつと魂だけになると思う。お骨もろくに残るかわからないけど……。ほら、女性は特に骨粗鬆症になりやすいっていうし」

 悪魔はとつぜん押し黙った。

 頭の中では目まぐるしく損得勘定をしているのだろうか。伏し目がちに考え込んでいる悪魔の長いまつげを、あたしはじっと見つめていた。

「……わかった。それでもかまわない」

 悪魔はそう言った。

 だが、根本的な問題として、そもそも魂なんてあるのだろうか。

 人間の意識は脳のニューロンを行き来する電気信号の活動であると、たしか生物の先生が言っていなかっただろうか。となれば、死んでしまった時点で魂は消失してしまうことになるのでは。

 であれば、願いだけをかなえさせられて、結局なにももらえないってことになりはしないだろうか。

(それならそれで、かまわないじゃない)

 今までの人生、あたしはずっと貧乏くじをひかされてきた。たまにはこっちが痛い目に遭わす方にまわったって、いいじゃないか。

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