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 電車を乗り継ぎ、駅から十五分ほど歩くと、四角い灰色の集合住宅の連なりが見えてくる。築四十年の公営団地である。あたしの家はその棟の中のひとつだった。

「ただいま……」

 答える人は誰もいないのだが、つい言葉に出してしまう。返事が返ってきたためしはないのだが。

 玄関ドアを閉め、手洗いうがいをすませて自室に向かう。さっそく通学鞄から『願いをかなえるおまじない百科』を取り出した。

(……借りてしまった)

 あたしは息を吐き、しげしげと表紙を眺めた。何の変哲もない平凡な児童書にしか見えない。

 着替えもせずに制服のままベッドに座り、奥付の後ろの「悪魔の召喚方法」のページを開いた。電車から降りるころには、図書館の出来事がまるで白昼夢のように思えていたのだが、そのページはちゃんと存在していた。あらためて見ても、ハイテンションなツインテール少女の解説との落差がものすごかった。

 恐る恐る黄ばんだページに触れてみたが、あの圧倒されるほどの怖気おぞけは起きなかった。紙質も手書きの赤文字もたしかに薄気味悪かったけど、ただそうゆう仕様なだけで、何も感じない。

 急にばかばかしくなって、あたしは大きく息を吐いた。

「……悪魔なんて、存在するわけないじゃない」

 図書館でのも、今となっては気のせいだったような気もしてくる。

(志望大学に合格できるなら、悪魔と契約くらい、いくらだってしてやるのに……)

 あたしは本をベッドの上に放り投げた。ページがぺらりとめくれ、まず初めにやること――魔法陣の描き方を記したページが現われた。

 なんとなくそのページを眺めていたが、おもむろに立ち上がった。

「やってみるのはタダだもんね」

 誰に言うでもなく呟くと、壁にかけてあった四つ切りサイズのカレンダーを外した。まずは魔法陣を描くのだ。挿絵では地面にかかれていたが、フローリングに直接描くわけにはいかない。

 カレンダーのページを六枚ほど破ってセロハンテープでつなぐ。デスクチェアをどけて、一枚の大きな紙にしたものをベッドと学習机の間の床に広げてみた。四畳半の部屋は狭く、端はベッドの下に入り込んでしまったが、しょうがない。

 あたしはベッドから『願いをかなえるおまじない百科』を拾い上げると、手元に置いて、マジックで魔方陣を描き写しはじめた。これが予想以上に苦戦した。複雑な幾何学的な模様を手書きで描くのはただでさえ難しいのに、さらに人ひとりがゆうに入れるくらいの大きさのものを描かなければいけないのだ。

 三十分ほどもかけてやっと描きあげ、ベッドの上に立って俯瞰してみた。かなり歪んでいる。

(すこし不格好だけどかまわないでしょ。遊びなんだから)

 次は、と頁をめくった。またも魔方陣が記されていて、思わずうっと顔を強張らせてしまった。

 面倒な図をもう一つ描かなきゃならないらしい。気軽に始めてしまったが、実はかなり面倒くさいのでは――。

 後悔が込み上げたが、一度始めたら最後まで完遂したいたちであるのも災いし、引き返せなくなっていた。頑張って描いた巨大魔法陣を無駄にしたくない気持ちもあった。

 あたしはカレンダーをさらに二枚引き破き、図を写しはじめた。

 一つ目よりは小ぶりで単純な図なのもあり、十分ほどで描きあげた。これら二つの魔法陣は六十一センチ離して設置しなればならないらしい。だが、スペースの問題でとても無理だった。並べることすらも難しく、しょうがないので端っこを重ねて置いた。

 一息ついて、次のページをめくる。また魔方陣だったらどうしようと思ったが、今度は動物の肉を用意するよう書かれていた。

 お肉なんて、あっただろうか。

 とりあえずキッチンに向かう。テーブルには伏せたご飯茶碗と、ラップのかかった深皿がお盆に乗せられていた。母の用意してくれた夜ご飯である。

 深皿の中身は麻婆豆腐だった。とろみの中のひき肉をラップ越しに見つめる。さすがにこれでは駄目な気がする。冷蔵庫を開けてみたが、めぼしい肉類はハムとソーセージしかなかった。こちらは明日の朝食とお弁当に使うので手を付けることはできない。

 冷凍庫の引き出し開けると、鮭の切身が四切れあった。先日、スーパーで買った見切り品だった。

(冷凍でもかまわないのかな……)

 まあお遊びだしと気を取り直し、発泡スチロールトレーから凍ったままの切り身を一切れお皿に移して部屋に戻った。

 切り身の乗った皿を小さいほうの魔方陣の中央に置き、自分は大きいほうの魔法陣の真ん中に立つ。これで準備完了である。

 なんだかシュールな光景だった。まるで自分の部屋に野生動物の罠をしかけたかのようである。

 鮭の切り身で実際に悪魔が釣れたら面白い。

 いつの間にか楽しい気分になっていた。思えば中学生になったころから暇さえあれば勉強にあけくれていて、遊びとは無縁の生活をしてきた。

(……楽しいと思えたことが、ここ数年あっただろうか)

 気持ちが落ちかけ、慌ててベッドに手を伸ばして本をつかみあげた。

 いよいよ召喚の呪文を唱えるのだ。

我知らず胸がどきどきしていた。間違えないよう緊張しながら、あたしは赤く記された手書き文字を読みはじめた。

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