2

 ――五分経った。

(……何も起こらないじゃない)

 そりゃそうだよね、と苦笑する。

 勉強の時間を無駄にして、なにをやっているのか。そもそも悪魔に合格祈願をするなんてどうかしている。太宰府天満宮じゃないのだ。

 小さく溜め息をつき、壁の時計に目を馳せた。もう夕方の六時過ぎである。夕ご飯を食べる前に、図書館でやりそこねた数Ⅱの問題集を片づけてしまおうか。

 その前に鮭の切り身を冷凍庫に戻さないと――時計から小さい魔法陣に目を馳せ、ぎくりと身を強張らせた。

 お皿は、空っぽだった。

 呆気に取られていると、とつぜん足元から寒気さむけが込み上げてきた。

 悪寒おかんは瞬く間に全身に広がってゆく。腹の底から震えがわきおこり、冷たい汗がふき出した。

 図書館の時と同じだった。恐怖が、強制的に喚起されてゆく。

 まさか本当に悪魔が――。

 ――いや、そんなこと、あるわけない。

 二つの思いが頭の中でせめぎ合うなかで、ふと、あることに思い至った。二つの魔方陣を六十一センチ以上離す意味。それは、術者を守るためではないか?

 自分の足元に広がる魔方陣を見下ろす。悪魔が出現するはずの小さい魔方陣とは、端が重なるほどの近さだ。

(は、離れなきゃ……!)

 がくがくと震えながら小さい魔法陣に背を向けた瞬間、足がとまった。

 背中に、覆いかぶさるような圧を感じたのだ。

(……うしろに何かいる)

 なにか、闇のような――悪意のようなものが背後に渦巻いている。確かめたかったが、恐ろしくてとてもできなかった。逃げ出そうにも足がすくんで動かない。

 ――陣から出ずにこらえたか。賢明なことだ。

 ふいに耳元で声が囁いた。低い、低い、軋むような声音だった。

 あたしは凍りついたまま、身じろぎ一つできずにいた。

 背後の声は、くつくつと笑う。

 ――魚肉でされたのは初めてだな。

 そっと目だけ動かして背後を見た。黒い煙のようなものが背後でもやもやとわだかまっているのが、視界の端に見えた。

 これが悪魔なんだろうか。

 凝縮した闇のようだった。それは意志を持っているかのように、こごり、伸び、形を変えていった。やがて黒い絹糸のようになり、さらさらと頬をかすめ、あたしの肩にかかった。

 髪だ。まっすぐで長い、黒髪――そう思った瞬間、ふっと恐怖がかき消えた。足腰がなえて、あたしは魔法陣の上にすとんと座り込む。

(なんだったの、今のは……)

 全身が汗でじっとりとし、強張っていた。

 うなだれるように視線を落としたところで、ぎょっと身動ぎした。汗でたわんだ紙の上に、大きな影が落ちていたのだ。蛍光灯の明かりを背に、あたしを覆い尽くしている。

 かたく握りしめていたこぶしの真後ろに、靴先が見えた。細い革紐を編んだような質感の、変わったかたちのブーツだった。――背後に立たれている。

 あの黒いもやが人に転じたのか。

 汗が、額から眉間に伝い落ちてゆく。

「――顔をあげよ。お前の願いをかなえてやろう」

 頭上から声が降ってきた。あたしは言われるがまま、がくがくと背後を振り仰ぎ――ぽかんしてしまった。

 男が立ちはだかっていた。しかもずいぶん風変わりな格好をしている。

 古代ギリシャ人のようなゆったりとした寛衣に身を包み、漆黒の髪は膝裏まで届くかというほどに長い。日本人とも外国人ともつかない顔だちで、肌は白く青みをおび、透き通るようだった。

 そして、じっと見下ろす瞳は灰色と緑が混ざったような複雑な色をしていた。ひどく冷たそうで、でもとてもきれいで、あたしは恐ろしさも忘れて見入ってしまった。

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