第4話 えーと、なぜだ?

 部室から教室までの距離が思っていたよりもあるな。他の部活は揃って部室棟に部室があるのに俺らだけ可哀想じゃないか。


 小さな不満を頭の中で漏らしながら俺は教室へ辿り着く。足を一歩踏み入れようとした矢先、視界に飛び込んできた光景に思わず後ずさる。


「……なんでカップルがいちゃついてるんだ」


 そう、教卓の前でお互いに見つめ合って、手を絡めていたのだ。


 こんなことしてたら中に入れないんだけど、どうすればいいんだ……?


 俺は入り口からひょっこりと顔を覗かせて、中に入るタイミングを窺う。あまりの隙のなさに入る瞬間を見失っていると、空川がさっき言っていた言葉が脳内で再生される。


 確か、急いで着替えて、とか言ってたよな。


 教室内のカップルが廊下へ出ないことを悟った俺はこっそりと中へ入ることを決意する。俺は溜め息を吐いて、身を屈めて、教室の後ろの扉から侵入する。ゆっくりと地面を這って自分のロッカーへ手を伸ばす。


 ドンドン、ドスン。


 ぎゅうぎゅうに詰まったロッカーから雪崩のように崩れ落ちる教科書が大きな音を立てて床に落ちる。


「誰かいるのか⁉」


 教卓でいちゃついていた男がいきなり声を上げる。静まり返った教室。いきなり打ち寄せてくる緊迫感。俺は体操服を片手で抱え、空いた手で落ちた教科書を慎重にロッカーに詰めなおす。


「誰もいないと思う……」

「そ、そうか」


 ……どうやら俺がいるのはバレなかったようだ。俺が忍び込んでいるのを見つけられたときの気まずさを想像するだけで恐ろしい。てか、そもそも教室でいちゃつくな。


 俺は教科書を片付けると、そそくさとカップルから逃げるように教室を出る。教育工学棟までの長い道のりを繰り返し辿る。


「助けて……!」


 俺はようやくの思いで山岳部室に着くと、中から聞き覚えのある声が聞こえてくる。


「空川さん、どうしたの」


 俺は部室の木製の扉越しに軽く尋ねる。


「……足攣って動けなくなっちゃった」


 しばらく間を開けて、空川が萎んだ声で答える。


「俺はどう助ければいいの」

「私に体操服を着せてくれない?」


 空川から返ってきた頓珍漢な答えに、俺はつい耳を疑ってしまう。

 体操服を空川に着せるってことは──下着姿の空川を見ていいって言われているようなものだろ。


「空川さん、それはまずいんじゃないかな」

「じゃあ、どうすればいいの?」

「それは……」

「白波さんが待ってるんだから、急がないと」


 クラスの美少女の空川がこの扉の向こう側に下着姿でいる。許可されているとはいえ、してはいけないことをしてしまう俺は、手が強張って中々取っ手に手を掛けられない。


「柊くん、そろそろ助けてくれない?」


 空川の一言ではっと我に帰る。


「わ、わかったよ」


 俺はどこか残る蟠りを感じながらも、ゆっくりと取っ手に触れる。


「私の下着見たら許さないからね」


 俺を忠告するように空川が釘を刺す。俺は目を瞑って埃臭い部屋に入る。


「こっちだよ」


 冷たいコンクリートの壁を頼りに声のする方へと歩みを寄せていく。


「もうちょっと前来て」


 俺は少しずつ前へ進んでいくと、俺の手に布がぽんと置かれる。


「このズボンを履かせてくれない?」


 俺はしゃがんで、手探りで空川の足を見つけると、それをズボンの裾の位置と合わせる。


 よし、あとはそのまま通すだけ。


「すみませーん、山岳部室ってどこですかー?」


 山岳部室前の廊下から聞こえてくる女子生徒の呼び声に俺はぎくりとする。


 今、山岳部室の場所がバレてしまったらまずい。でも、バレる心配をする必要は別にないな。誰も山岳部室が階段裏の物置部屋にあるなんて思わないんだから。


 足音が遠ざかっていくのを確認すると、俺は気を取り戻して、空川の足にズボンを通し始める。


「あれ、両足とも同じところに入ってない?」

「空川さん、静かに……!」

「あれ、誰かいる?」


 山岳部室を探していた女子の声が遠くで反響する。タイルに上靴を打つ音が次第に大きくなっていく。ドクドクと聞こえる自分の鼓動。


 目の前に……いる。


「何か聞こえた気がしたけど、気のせいかな」


 ……危なかった。空川さん、余計なことはやめてね。


 安堵の溜め息を吐くと、ズボンをまた手に取る。


 今度こそいい感じだ。


 ズボンと裾の位置はぴったり合っている。あとはこのまま通すだけ──。


「はっくしゅゅーん!」


 これほど大きなくしゃみを人生で聞いたことがあっただろうか。


「すいません、山岳部がどこにあるか知りませんか……ふぇ⁉」


 部室の扉が開かれ、眩い太陽光が部室に差し込む。目を凝らすと、メディアムショートの髪の女子のシルエットが手をぱたぱたと慌てさせていた。


「……お、お邪魔してすいませんでした!」

「違う、そういうことじゃなくて──」

「えっちなことするところだとは思わなくて! 見なかったことにしますから!」


 少女は勢いよく扉を閉め、逃げるように走っていく。俺は慌てて部室を飛び出し、その姿を追いかける。


「待ってよ、絶対誤解してるって」

「だって、下着姿の空ちゃんと物置部屋の中で……」


 下着姿の女子、男女が密室で二人っきり。そんなシチュエーションに出くわしてしまった彼女に誤解されないはずがなかった。


「実は──」


 ◇


「そういうことだったんだ……」


 一通り何があったのかを説明すると、少女はモゴモゴとした声の聞こえてくる山岳部室を呆れたように見つめ、溜め息を吐く。


 どうやら、誤解は解けたようだ、安心。


「そういえば、名前聞いてなかったな。俺は一年七組の柊隼人」

「一年六組の白波渚しらなみなぎさだよ、よろしくね」


 白波さんはにっと笑って首を傾けると、ふわっとした髪が揺れる。白い手から伸びた細くて綺麗な指。裾を上げたであろう短めのスカート。スリムな体型だが、筋肉質な足のせいか、華奢というわけではない。


 白波……この子が空川の言っていた新入部員の子か。


「柊くんか……ひーくんって呼んでもいい?」

「ひ、ひーくん? べ、別にいいけど……」


 距離の詰め方がすごい。出会ってからまだ五分も経っていないんだけどな。


「今日は何するの? さっそく山登り? それとも運動場でキャンプしたり?」

「今から山登る時間はないだろ……ところで、本当に何をするんだ」


 山岳部の練習風景と聞いて、ぱっと頭に浮かぶものがない。山岳部といえば、登山、キャンプ、キャンプ飯、みたいなイメージだが、このうちの何が今から出来るというんだろう。山登りをする時間はないだろうし、部室にテントがあるわけでもなかった。キャンプ飯を作る材料もない。どんな練習計画を立てているのかの見当が全くつかない。


 はたして、俺らに何が待っているんだろう。

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