第2話 山岳部、最初の練習!

 入部届にサインをしてから丸一日経った次の日。


「今日は何するの?」

「今日は体力測定代わりに走ろうかなって思ってるよ~」

「じゃあ俺着替えてくるよ。着替え終わったら昇降口集合で」

「どこで着替えるの?」

「トイレだけど」

「トイレ汚いし、部室で着替えたら?」


 山岳部に部室なんかあったんだ。部室あるんだったら昨日そこで話せばよかったのに。

 俺は空川に連れられてその部室に向かう。


「……ここが部室?」

「そうだよ」


 俺らが着いたのは到底部室とは思えない、教育工学棟の階段裏にある物置部屋だった。空川はその物置部屋の引き戸をがらがらと音を立てながら開ける。

 その部室はコンクリートでできていて、中には机と椅子が何個かセットで重ねられてあった。全体的に埃っぽく、部屋の角には蜘蛛の巣も張ってあった。森奥の廃墟の一角と言われても疑わないほど、汚い部屋だった。

 昨日、空川がここに呼ばなかった理由が分かった気がする。


「さすがにここよりもトイレで着替えた方がよくない……?」

「そうかな~? トイレの方が汚くない?」


 この部室より汚いって、女子トイレはどんだけ汚いんだよ。


「俺はトイレで着替えてくるよ」

「わかった~。じゃあまた後でね」


 空川は体操服を持って、部室の中に入っていく。


「あれ、体操服ないな……」


 リュックの中を探すも、一向に体操服が見つからない。

 教室に置いてきたな……。


「空川さん、教室に体操服取りに行くからちょっと遅れるかも」


 空川にそう告げ、俺は体操服を取りに行く。


「体操服、体操服……あった」


 ロッカーの中に俺の体操服を見つける、部室への復路を歩く。

 教室と教育工学棟を往復するってなると結構遠いな。もっと近い場所にあればいいのにな。


「助けて……」


 不便な距離にある部室について一人でぶつぶつ嘆いていると、聞き覚えのある声が聞こえてくる。


「助けて……」


 その涙交じりに助けを求める声は山岳部室の中から発せられたものだった。

 あいつ何してるんだ……?


「あの、空川さん? どうした?」

「足攣って……動けない」


 ほんとに何してるんだ……?


「えーと……俺はどうすればいいの?」

「私をここから出して……」

「空川さんって今着替えてる途中じゃないの? ほんとに廊下に出しちゃっていいの?」

「じゃあ私の着替え手伝って……」


 それ、正気で言ってるのか。下着姿見てもいいって言ってるようなものだろ。


「早く……!」


 俺が部室の扉を開けるのを躊躇っているところを泣いているからなのか、声が掠れている空川に急かされる。

 できるだけ見ないように手伝うか……。


「……は、入るよ」


 意を決して部室の扉を開ける。目を瞑り、コンクリートの壁を頼りに少しずつ中へ入っていく。


「柊くん、ここだよ」


 空川の声のする方へと近づいていく。


「もうちょっと前」


 空川の指示通りに進むと、俺の手が柔らかい感触に握られる。


「私が座っている椅子の隣に体操服が置いてあるからそれ着せてくれない?」

「わ、わかった」


 そういえば、俺女子の服とか触ったことないな。ちゃんと許可もらってるのに、イケないことやってる気がするのはなんでだろう。

 体操ズボンを掴み、空川の足とズボンのウエストの位置を合わせる。

 よし、順調だぞ。


「山岳部の部室ってどこですかー?」


 外から聞こえてくる女子の大声に思わず俺の手が止まる。

 この物置部屋が山岳部室だと思う人はなかなかいないと思うが、俺が空川に服を着せているところを見られたらまずいぞ。早く着せないと。

 俺は空川の柔らかい足をズボンに通す。


「柊くん、両足同じところに入ってるよ」

「空川さん静かに……!」

「あれ、誰かいる?」


 やばい、気づかれたか?


「今何か聞こえた気がしたけど、気のせいなのかな」


 危なかった……。おバカさん、余計なことはやめてね。

 同じミスを犯さないように気を付けもう一度履かせようとする。

 今度は大丈夫なはず……!


「はっくしゅーん!」

「そこに誰かいるの?」


 空川のバカ。俺らが物置部屋にいることが完全にバレた。どうやって誤魔化そうか……。

 悩んでいると、部室に外からの光が差し込まれる。扉の前に立つ女子の顔は逆光であまり見えないが、扉を開いたまま硬直するシルエットは見える。


「……もしかしてえっちなことしてたの邪魔しちゃった?」

「そんなことしてないんだけど!」

「あたし見なかったことにするから、そのまま続けてて……」

「だから違うって!」


 必死に弁明しようとするも、下着姿の女子、密室に男女が二人っきりというシチュエーション。俺の話を理解してもらえるはずがなかった。


「空川さん弁明してよ」

「私と柊くんが……えっち……? 柊くんそんなことしようとしてたの?」

「違うよ!」


 ダメだこいつ。お前のこと助けに行ったの忘れたのか。


「とりあえず俺の話を聞いてほしい」


 俺は動けない空川を部室に放置して、なぜこのような状況になったのかを一通り説明する。


「だいたいわかったけどこれは空ちゃんが悪い……」


 俺の話を聞くと、いかにも運動が得意そうなミディアムショートヘアの美少女は目を鋭く細め、部室の扉の向こう側を睨むように見つめる。


「そういえば名前聞いてなかったな。俺は一年七組の柊隼人

「あたしは一年六組の白波渚


 白波渚……陸上が得意って風の便りで聞いたことあるな。


「山岳部室探してたらしいけど、部室になんか用事があったのか?」

「うん、入部届を出しに来たんだよ」

「入部届は部室にじゃなくて職員室に出せばいいと思うよ」

「あ、そうなんだ」


 まさか部員が増えるとは。魅力の「み」の字もない部活だと思っていたんだけどな……。


「ちなみにこれから外で練習あるけど、来る?」

「行こうかな」

「じゃあ俺は着替えてくるから。昇降口集合で」

「わかった、これからひーくんって呼んでもいい?」

「別にいいけど……」


 久しぶりにあだ名をつけられた気がする。ちなみに最後につけられたのは『あの』。

 俺と白波は部室の前で別れを告げる。俺は体操服を握りしめトイレへと向かうと、どこからか声が聞こえてくる。

 さっきから誰かがいないような……。気のせいか。


     ◇


「もー! 私を置いてかないでよ!」


 昇降口でしばらく待っていると、白波と……なんか怒ってる空川が体操服姿でこっちに向かってきた。そういえば、こいつのこと足攣らせたまま部室に放置してたんだっけ。完全に忘れてた。


「ひーくんから今日は走るって聞いたんだけど、どこ走るの?」


 白波は話題を切り替えると、空川は口を開く。


「ここから林間コート、武道館、体育館、ポセイドン像、そしてここに戻ってくるコースを三周する予定だよ。この中で走るのが苦手な人っている?」


 二つの視線が俺に集められる。

 ……間接的に俺に言ってるのバレてますよ。

 男子の俺が走るのは苦手だということを自己申告できるはずはなく、俺は向けられた視線を無視する。


「競争するのはどう?」

「いいね、ビリはみんなにジュース奢りね」

「え」


 おい、それは聞いてないぞ。


「位置について、よーい……どん!」


 俺がその提案を否定する前にレースは始まっていた。俺は出だしで遅れを取るも、負けじと地面を蹴る。


「あいつら速すぎるだろ……」


 俺は一歩ずつ近づいているはずなのに、なぜか距離が離れていく。昇降口前の道を曲がり、黄緑色の花の咲くユリノキの並木道を突き抜ける。その頃、空川と白波は林間コートの道を並走していた。

 白波が走るの得意なのは知ってたけど空川も速いのかよ。女子よりも遅い俺、なんか惨めな気持ちになるんだけど。

 俺が林間コートを通りすぎ、武道館に着いた頃には空川たちの姿は見えなくなっていた。

 一周目で誰がジュースを奢るのかは完全に決まっていた。


「あと……二周もあるのか……」


 俺は前へ前へと走り、なんとか二周目を走り終える。しかし、そのペースは一周目よりもはるかに遅かった。俺の息は上がりきっていて、限界が近づいていた。二人はレースでビリを回避するために走っていたが、俺はただ完走することが目標となっていた。


「こんなに長く走るのは……中学のマラソン大会ぶりか……」


 俺は三周目に入り、なんとかレースの最終地点であるポセイドン像まで来る。


「もう、動けない……」


 あれ、また聞き覚えのある声が。


「空ちゃん、痛いと思うけど足上げて」


 ポセイドン像の前には白波と仰向けになって足を上げてる空川の姿が。俺は二人の前に立ち止まる。


「あの……何してるの?」

「足攣っちゃった……」


 またかよ……。


「空ちゃんがあたしのペースで走るからだよ」

「だって、負けるのは悔しいもん!」


 負けて悔しいって小学生みたいなこと言ってるな。

 俺は呆れながら空川が足を伸ばす姿を見守る。


「空川さん走れそう?」

「ちょっと無理かも……」


 ……あれ、走れないってことは俺がビリ回避するチャンスってことか?


「空川さん、ごめん」

「ちょっと柊くん⁉」


 俺は空川を置いてゴールラインに向けて駆け出す。


「空ちゃんごめん」

「渚ちゃんも⁉」


 俺に続いて、白波の足音が後ろから聞こえてくる。


     ◇


「柊くんも渚ちゃんも酷すぎるでしょ!」

「えーと……これは……」


 問い詰める空川に対して白波は言い訳の言葉を探している。

 沈む太陽は空を茜色に染め始めていた。その空模様を見つめながらキンキンに冷えたサイダー缶をぐっと傾ける。

 バカばっかりの山岳部の活動はまだ始まったばかりだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る