第3話 ここが部室か

 入部した日の放課後。俺は教室の自席でいつものルーティンである放課後のラノベ鑑賞会をしようと昨日書店で購入した『美人な先輩は俺を泊まらせたがる』を開いて、座っていた。先月から楽しみにしていたラノベと静かな教室。至福の時間だというのに、俺はいつもと違って肘を机につけて頭を抱えていた。


 ……文学部は嫌だ。


 今朝からその思考だけが頭の中で渦巻いて、授業に全く集中できなかった。教科書に目を落としても、目で文字を追っているだけで頭に内容が入ってこなかったり、解こうとしている簡単な数学の問題さえも解くのにいつもの倍以上の時間がかかってしまったり、と散々だった。


 一旦、その思考を消すために、文学部以外の文化部に入ることも考えてみたのだが、この案は上手くいかなかった。というか、他の文化部は放送部と外国語部しかなく、会話下手な俺はそれらの部活に入る選択肢は端からなかったのだ。


 そして、一日中、あれやこれや考えてみた結果、文学部は嫌だ、と思考が振り出しに戻ってきてしまった。

 やはり、新しい部員を今日中に集めるしかないのか……?


「柊くん、どうし……ちょっと⁉ 何見てるの⁉」


 いつもよりも数段と高いテンションで空川が声を掛けてきた、と思った途端、聞こえてくる悲鳴に近い空川の喚き声。俺は机に視線を固定したまま騒ぐ空川に返事をする。


「何見てるって……どう見ても俺は机とにらめっこしてないか」

「違う、その机の上のやつ!」


 こいつは何をとぼけているんだ。こっちは真剣に悩んでいるって言うのに。


 俺は鬱陶しさを感じながら、ゆっくりと顔を上げる。


「なっ⁉」


 目の前に開かれたラノベには美人の先輩が顔を赤くして、小さなタオルで裸を隠そうとしている扉絵が大きく描かれていた。タオルで隠しきれないほどの美しいくびれ。見入ってしまうほどの大きな胸。

 

 俺は慌てて本を閉じて、カバンの中に適当に放り込む。何もなかったように俺はカバンのチャックを閉めて机に突っ伏せる。しばし続く沈黙。


 ……は、恥ずかしい。


「あ、あんま見えなかったから気にしないで」


 無理のある気遣いをされると余計に恥ずかしい。やめてくれ。


「い、一緒に部室行こうよ」

「……うん」


 ぎこちなく尋ねてくる空川に、俺は重い顔を上げて気のない返事をする。俺は大きなリュックを背負ってショルダーバッグを肩にかけた空川と廊下へ出る。俺が悩んでいる間にかなりの時間が過ぎていたのか、廊下には生徒は見当たらなかった。少し距離を開けて並んだ空川の行く先へと進んでいく。


「そういえば、柊くんって山岳経験ある?」


 気まずい空気を壊すかのように空川が割って入る。


「中学の行事くらいでしかないな」

「え、どこ登ったの?」

「本宮山だよ」


 シャクナゲ市から山間部に進んだ方にある山だ。俺の中学では例年、自然に触れるための行事としてこの本宮山を登ることになっている。


「私も登ったことあるよ。頂上からの景色はどうだった? 綺麗だったでしょ?」

「いや、頂上まで行けてない」

「え、どういうこと」

「影の薄い俺みたいなやつは誰にも気づかれずに置いて行かれるんだよ」

「……えぇ、なにその柊くんっぽいエピソード」


 俺の話に顔を引き攣らせてドン引きする空川。気まずさを解消しようと話しかけてくれた空川だったが、縮まりかけた距離もなぜかより離れてしまった気がする。


 このままだと、俺らしかいない孤独な部活なのによそよそしい関係になってしまう。何か話せるような話題はないだろうか。


「……えーと、空川さんはさっきまでどこにいたの?」

「日直の仕事を済ませてたら、山岳部に入りたいっていう子と出会ったからちょっと話してたんだよ」

「え、新しい部員が入るの?」

「うん、今日体験入部に来るらしいよ」


 目を見開いて驚く俺の横で空川の顔からは笑みがこぼれ、隠しきれない嬉しさが表情から伝わる。


 空川の後を追うように入った薄暗い建物は、今朝入った建物と同じ、教育工学棟だった。空川はポケットからじゃらじゃらと小物の付いた鍵を取り出すと、階段裏の物置部屋の扉に鍵を差して、がちゃがちゃといじる。空川は軋ませながら引き戸をゆっくりと横に引くと、中からは大量の埃が目に見えて教育工学棟の廊下へ飛び出てくる。


「空川さん、こんなところじゃなくて早く部室行こうよ」

「ここが部室だよ」

「冗談はいいから、こんな汚い部屋じゃなくて部室に行かない?」

「いや、ここが部室なんだけど」


 空川の顔色を窺うと、いたって真面目に、むしろ質問する俺に鬱陶しさを感じているような眼差しを向けてくる。


 俺はその部室とやらに近づいて覗き込んでみる。コンクリートで塗り固められた部屋には埃や塵が散りばめられていて、ひんやりとした空気からはいかにもここが倉庫といったイメージを想像させられる。かといって、倉庫のように大量の荷物が置かれているわけでもなく、椅子が数脚、壁に立てかけられているだけで、ほとんど空のコンクリートの箱といった印象だった。


 はたして、こんな場所を部室と呼べるのだろうか。部屋が多少汚くても我慢はできる方だと思っているのだが、さすがにこれは無理だ、汚すぎる。ゴミ屋敷ならぬ、立派なホコリ屋敷だ。


「体験の白波さんを昇降口の前で待たしてるから急いで着替えて」

「……」


 呆然として言葉も出なくなっている俺に、空川はいつもの陽気な調子で声をかける。


「ねえ、ほんとに聞いてる? このままじゃ私たち遅刻だよ」

「……今日は部室片付けないか。いくらなんでも汚すぎると思うんだけど」

「……で、でも今日は白波さん待ってるし、ね?」

「ここまで汚いとさすがに掃除はした方が──」

「あ、明日! 明日やるから! とりあえず早く着替えて来て!」


 指摘する俺の声に被せて、空川は大声を出して誤魔化そうとする。空川はむっとしてそう言うと、着替えの体操服を手に持って部室へと入っていく。


「え、そこで着替えるの?」


 躊躇せず部室で着替えようとする空川に驚き、反射的に口から質問が飛び出る。


「うん、そうだよ」


 空川は顔だけを俺に向けて、ここで着替えるのが当たり前だと言わんばかりの少し高圧的な口調で答える。


「こんなところよりもトイレとかで着替えるほうがよくない?」

「部室よりも女子トイレの方が汚くない……?」


 正気か。そこまで汚いのなら逆に覗いてみたい。


 空川は部室へと向き直ると、靄のかかった部屋へ姿を消して、引き戸をガラガラと閉める。


 さて、俺もそろそろ着替えるか。


 カバンのチャックを開けて体操服を取り出そうとする。


 ……ない。教室に置いてきたな。


 先ほど通った道を逆戻りして、一年七組の教室へ向かう。

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