第5節 12月24日20■

「……で、落ち着いたか?」

「ぐすっ……うん……」


 私は鼻をすすって涙を拭った。なぜだか溢れた涙が、しばらくして止まる。


 屋形船からは降りて、港の柵に寄りかかって海とビルを眺めていた。


 海から吹いてくる風は変わらず冷たいままで、ほぉ、と白い息が空に登っていく。


「なんか……苦しいっていうか、悲しいっていうか……?」

「どうしたんだ、一体」

「わかんない……。ただ、ええと……」


 私はぐちゃぐちゃの頭の中を整理しようとする。


 海を見て、夜景を見て。楽しそうな人を見て、遊園地で遊んで。


「今日はすごく。すごく楽しかったよ。今までの人生の中で一番!

 ホントに……記憶なんてなくたって、幸せになれるんだってわかったよ」

「そうか。人生で、ね」


 セイジは皮肉げに笑う。……そうだ。それが、私の唯一の心残りだ。


「だけど、本当はね。もっと胸を張って、『人生で一番』って言いたかった」

「なに?」

「今の私の『人生で一番』はね。ほんの2週間くらいの中で一番でしかないんだ」

「……!」


「セイジとのデートが楽しかったって言いたいのに、小さな尺度で測ることしか今はできない。それが悲しい、かな」

「……ルカ」


 セイジは私の横に並んで、柵に体を預けるようにして海を眺めた。


「セイジ。……教えて。私の、正体を」


 心臓が嫌な脈の打ち方をする。ざわざわと体が2つに割れて、ズレて動いているみたいな不快感。


 波の音が消えて、人の足音が消える。心臓の音だけが大きく鳴り響く。


「もし私の正体がどんな奴でも。今ここにいる私は消えたりしないから」

「……!」


 今ここにいて、考えている「ルカ」だって私なのだ。記憶を取り戻したとしても、ゼロになるわけじゃない。


「だから、信じて。私は確かめたいんだ。このデートが人生で一番楽しかったのかどうかを。

 ――私の正体を教えて、セイジ。そうすれば、少しは記憶も蘇る気がするんだ」

「…………」


「……ああ。わかった」


 セイジは長い沈黙の末に頷き、懐から何かを取り出した。大きめの、四角いファイルみたいなもの。


「それは……?」

「20年前の異常空間特別調査係……。ASSISTの所属隊員名簿だ」


 卒業アルバムみたいな分厚い装丁のファイルの表紙には、金色の文字が刻まれている。


それを捲ると名簿と顔写真が載っていた。いつのものなのか、画質はやや低い。


 ほとんどはスーツ姿の男性だ。足柄ソウヤ、佐伯ソウジロウ……。


 私はそれらの写真の末席に、「神凪セイジ」の名前と写真を発見する。


 ……何年前の資料なんだろう。彼はとても若い。高校生のような制服を着ているが、あの特徴的な目の傷は当時からのようだ。


「――!」


 ――そしてその横に、私は……「私」の姿を見た。


 やや緑がかった瞳と髪。今の私と何ら変わりない姿の女の子の写真。


 その名前は、「胴枯どうがれルカ」といった。


「――――あ」


 頭の中が掻き乱される。脳の奥から大量の情報が流れてくる。


 ――そうだ。記憶を取り戻すトリガー。私の名前。当時の。ASSISTの。


 あのとき何があったのか、なぜ私は記憶を失ったのか。それらをすべて思い出す。


 死んだASSISTの人間の死体――

 迷宮教教祖の悍ましい笑み――

 涎を垂らした信徒たちの群れ――

 ダンジョン化した国会議事堂――

 弟の最期の苦悶の顔――そして幾多のダンジョン。


 それらがストロボ写真のように次々にフラッシュバックした。


「……おい。ルカ?」


 ――私は。


「ルカ、大丈夫か? ……何か思い出したか」


 私を■■■て■■■■が■■■てく■。


(……だめだ)


 先ほ■■で「私」であった■識が■■■■く。


 滝■ような情報■■いやら■て、「ル■」という仮初■人■が消え■いっ■しま■。


(消え、る。消される……「私」が、消されていく……)


 肩を揺■る■■■■。口が■■ない。


(助けて、セイ――)

「……いや。あんまりハッキリとは思い出せないかな」


 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。


「そうか。まぁ、実は俺にもよくわかってはいないんだが……そのASSISTの名簿は今から20年前のものなんだよ」

「20年前? その割に、私が映ってるみたいだけど」


 ■■■、■■■。■■■■■■■■■■■■!


「ああ。つまり……お前の正体は」

「……ごめん、セイジ。ちょっと気分悪くなっちゃったかも。どこか座れるところに行かない?」

「あ? あぁ――」


 ■■■■■、■■■■■■■。■■■■■■■■■■、■■■■■■。


「――いや、待て。お前今……セイジ『君』って……?」

「…………」

「その呼び方。お前。……お前は。ルカじゃない。まさか――ブライト!?」


 ――彼の言葉に、私は思わず口角を吊り上げ、笑いを堪えられなくなった。


「そうだよセイジ君。久しぶりの再会だね?」


 先ほどまで「ルカ」のものだった体で、私は嗤った。

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