第1節 記憶のない少女②

「た……たす……誰っ……」


 くぐもった声が聞こえてくる。音の方向からして、やはり間違いない。


 あの怪物の手の中から助けを求める男の人の声が聞こえてくる……!


「……っ!」


 震える足で咄嗟に飛び出そうとする私の肩がまた強い力で引かれ、立ち上がれなくなる。


 振り向くとやはり、先ほどの彼が私の肩を掴んで止めていた。


「離してよ……!」

「やめろ。もう手遅れだ」

「そんなの……!」


 わからないでしょ、と叫ぼうとして声を殺す。壁の端から、怪物が動き出したのが見えた。


 私は息を吸い、覗きこむ。怪物はもう片方の手を、握った手の中に入れる。――まさか。


「――ァあ、やめ、げっ――〜〜※▼○ッ!!」


 訳のわからない声とともに、パキリ、ポキリ……とプラスチックを折るような音が聞こえ、声が消えていく。


 ……死んだ。


 ……死んだの? 人が? 怪物に殺されて……?


 意識が遠のきかけて、頭が重くて倒れそうになる。その私を何かが支えた。


 ……彼の手だった。男の人は私の目の前に手のひらをかざしている。


「見るな……って言ってももう遅いだろうが。目を閉じて息をしろ。ゆっくりとだ」


 もう1つのごつい手が、息の荒い私の背をさする。


 自分の呼吸の音と微かな衣擦れの音、あとはブーン……という蛍光灯の鳴る音に怪物の足音が混ざり込む。


「落ち着け。もうすぐ通り過ぎる」


 注意深く音を聞いていると、怪物の咆哮は遠ざかっていった。


 男はやれやれ、と口の中で呟いて立ち上がる。私も慌てて立ち上がり、彼に食って掛かった。


「なんで止めたの!? もしかしたら助けられたかもしれないのに……!」

「お前にできるわけないだろ。あのデカさの奴に何をするんだ? ビンタでもするつもりだったのか?」


 フン、と鼻を鳴らす男を睨む。そのとき改めて、私は彼の姿を上から下まで見た。


 やつれた顔と顎髭のわりに顔にシワは少なく、精悍な顔つきをしている。


 日本人だと思うが彫りが深い。オールバックに流した黒い髪の中には、それとわかる白髪が数本見て取れた。


 さらに特徴的なのは、左目にある大きな傷だ。獣に引き裂かれた痕のような3本線の痛々しい傷跡。


 着ているダウンジャケットの下には大きなベルトとミリタリージャケット。


 何なのかよくわからないが、いくつかの黒い装置をその中に入れていた。


 ……服を見ても彼の素性は全くわからなかった。強いていうなら軍人っぽい印象を受けるが……。


「それに奴はもう深手を負ってた。見えるか? 手も足も折れてるし、胸の凹みようからするとたぶん肺もイカれてるな。骨も刺さってるだろう。だから悲鳴が小さかったのさ」


 男は身を乗り出し、ローブの人の死体を指さした。見えるか、って見たくないよ!


「だからっ……て……!」

「いいか、ダンジョンにおいて他のやつを守ってやる義理なんてないんだ。足を踏み入れたからには助けなんか期待しちゃいけねぇ。

 次からはお前も、自分の命は自分で守れよ。ダンジョンに入った以上はそれがルールだ」


 フン、と鼻を鳴らして彼は歩き出した。


「ちょ、ちょっと! どこ行くのよ!」

「次の階層を探すんだよ。俺はダンジョンにお散歩しに来たんじゃないからな」


 そう言って足早に歩き始める男。な、なんてヤツ……!


 高圧的というか何というか。助けてもらっておいて言うのもなんだけど、できればもう少し親切な相手に助けられたかったよ!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る