20年前、ダンジョンは異常空間と呼ばれていた〜記憶喪失の女子高生がダンジョンだらけの世界を滅ぼすまでの話〜
玄野久三郎
第1部1章 おはよう、ルカ
第1節 記憶のない少女①
「おい、起きろ! お前……何でこんなところにいる!」
ガンガンと鳴り響く男の声。重い瞼を開き、その音の元を見る。
目の前にあったのは髭だった。男の顎髭だ。
それから視線を少し上に上げると、どこかやつれた顔をした、左目に大きな傷のある男性が私を見下ろしていた。
私を。いや。「私」?
――それは誰のこと?
自分の名前が思い出せない。寝ぼけているのだろうか?
そもそもここはどこで、この男は誰なんだろう?
「おい……。考え込んでどうした? まさか何も覚えてねぇ、とか言わないだろうな?」
「……言う。かも」
辛うじて絞り出した返事だったが、発された高い声が自分のものだと認識するのにも時間がかかった。
ズキズキと痛む額に手を当て、自分の体を見下ろした。
首のすぐ下に紺色の襟のようなものが見える。どこかの高校のブレザーに見えた。
袖は長く、スカートは短い。見る限り、着ているのは女子高校生の制服のようだ。
私が昔のことを忘れられないコスプレ女とかでない限り、私は女子高生なんだろう。
「は……。ハハ。こんなところで記憶喪失? 俺をからかってるんじゃないのか? だいいち……」
男は言葉に詰まり、頭を掻いた。
「お前、自分の名前は言えるか?」
「わかんない」
「……」
男は深刻そうな顔をしてスー、と息を吸った。次に言う言葉をためらっているようにも見えた。
「とにかく、今はお前の素性を探ってる状況じゃない。ここがどこだか分かってるか?」
「もちろん……知らないよ、そんなの」
当然だ。自分が誰かもわからないのに、居る場所だけわかるはずもない。
そう伝えると、男は真面目な顔で妙なことを言った。
「ここはダンジョンの中だ」
ダンジョン? ……アニメかゲームでその言葉を聞いたような記憶はあるけど、現実のワードとして聞いた記憶は無い。
「ダンジョンって……」
一笑に付すつもりで辺りの地形を見回す。
……くすんだ黄色のカーペットが見える範囲のすべての床に敷き詰められている。壁も天井も同じ色合いだ。
天井は高く、私の背の3倍ほど。部屋を照らす蛍光灯が等間隔に吊り下がっているが、細かく点滅していて薄暗い。
その蛍光灯が発する音なのか、どこからともなくジー……という小さな音が常に聞こえていた。
ところどころ灯りの消えている場所もあり、その下はひどく暗くなっていて不安を誘う。
私が背中を預けているのは広場に置かれた壁で、無地の壁紙の質感はざらついていた。
視界の中に確認できる範囲で4つほどの四角い柱があり、あとはぐねぐねと曲がりくねった通路が四方八方に伸びている。まるで迷路のように。
「……なに、ここ?」
「だから言ってるだろ。ダンジョンだ。古い表現なら異常空間とも呼ぶ」
「どうして私がこんなところに?」
「俺が知りてぇよ」
男は諦めたように吐き捨て、大きな溜息を吐いた。
「……本当に何も覚えてないらしいな。まぁいい……」
彼はしゃがんでいた姿勢から立ち上がると、私に背を向ける。冬場のような灰色のダウンの背中と、作業靴の踵が見えた。
冬、といえば、この空間では温度を感じない。暑くもなく寒くもない。
ただ、湿度は比較的高いようで、じっとりとした空気が肌に集まってきた。
「そのまま野垂れ死にしたいなら、そこで寝ていてくれ。じきに異常実体が来て、お前を殺してくれるさ」
ポケットから何かを取り出した男は、それを私に投げてよこす。
「だが生き残りたいなら、俺について来い。自分の身は自分で守れよ」
「自分で、って……これ」
辛うじてキャッチしたそれは小型の……銃だ。
黒くて重く、どこかゴツゴツしている。銃の知識に乏しい私でも、これが本物だと分かる。
……って、本物!?
「な、何なに、これ。ホントに本物なの!? 銃って、ここ日本!? 海外!?」
「日本だ、一応はな。この先じゃ役には立たんが、この階層ならまだ使える。持っとけ」
何が何やらわからないまま、私は歩き出してしまった男を追いかける。まだ私は頭も体も重いというのに、足を緩める様子はまるでない。
「ちょっと。もう少し説明とかしてくれないの? ここは何処なのかとか、異常実体ってなんなのかとか、あなたが誰なのかとか……!」
男は答えることなく先に進んでいく。その態度に腹は立ったものの、現状、私は彼以外に何の情報も持たずどうすることもできない。仕方なく黙って後を追うことにした。
しばらく歩いていると、どこか遠くでマイクのハウリングのような、獣の咆哮のような音が響いてくる。
「なっ、何なに!?」
「異常実体だ。……こっちに来い」
男は私の腕を掴むと、L字型の壁を背に座り込んだ。
同じように私を座らせようとする手の力はかなり強く、抗えずに彼の隣に座る。
「いいか、静かにしていろよ。モノにもよるが、大抵はバレなければ襲ってはこねぇ」
男が小声で言った。訳もわからず、黙って男を見返していると、先ほどの咆哮がまた聞こえてきた。
今度はかなり近い。私は少しだけ顔を出して死角から声がする方を覗く。
「――!?」
漏れそうになる声を必死に殺し、すぐに顔を引っ込めた。
私が見たのは――灰色の、人間のようなもの。
身長は明らかに2メートルを越え、細長い腕の先は自らの膝の下辺りまで伸びている。
服は着ておらず、体はツルリとして男性的でも女性的でもなかった。
極めつけは、その頭部。そこには頭の代わりに鮮やかな青い花が咲いていた。
花弁には人間の歯が不揃いに生えていて、花の中心には大きな目玉が鎮座している。
「ウウゥウ゛ゥウウ゛ゥウウゥ゛――」
さらに、その手の先には何かを掴んで引きずっていた。
手が大きすぎてすっぽりと手の中に収まっているが、引きずられているのは白いローブみたいなものを着た人間の……体に、見える。
つまり手の中にあるのは、必然的に人間の頭……。
自然と呼吸が浅くなり、全身に汗が滲んだ。
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