第5話 赤毛ちゃんと靴下

「あら? あなたは……」


 女子寮の入り口、雪が分厚く積もった低木の影から頭を出すと、目敏く見つけた彼女が近づいてくる。彼女は俺の前にしゃがんで目線を合わせて微笑むと、そろりと手を差し出してきた。雪で濡れたを彼女の手に乗せるには抵抗があったので、代わりにぽすっと顎を乗せる。嬉しそうに笑って、わしゃわしゃと俺の顎や首周りを撫でる彼女に、ツンと鼻の奥が痛くなった。


 ――ほら。やっぱりアビーはを恐れない。


「久しぶりね靴下ちゃん!」


 ……うん…………少しは、恐れてくれた方がいいかもしれない。


 妙な名前の由来になった真っ白な足先を見つめ、しょぼ……と耳を垂らして俯いた俺に、「えっ!? 嫌だった? 〝靴下ちゃん〟はだめ?」とアビゲイルは慌てている。


「だって、あの人、あなたのお名前を教えてくれなかったんだもの」


 もふもふ頭を撫で回されながら、そうだったか? と、当時のことを思い出してみる。アビゲイルにセシル家の狼について訊かれたのは、学院に入って二年目の頃だっただろうか。

 この学院では使い魔の使役が認められている。使い魔を使役するには高い魔力が必要不可欠なので、使い魔を護衛として連れ歩くこと即ち、自身の魔力を誇示することでもある。常人より強い魔力を持って生まれたアビゲイルも、使い魔が欲しいと言い出したのだが……。




 ◇◇◇




 セシル一族には、魔狼と呼ばれる狼の魔物が憑いている。現在のセシル家の祖となった者が、親を失った魔狼を拾い心を通わせて兄弟のように育ったため、彼以後の一族の者を家族と見なし守護しているのだとか。セシル家に憑いてる魔狼の一族はなかなか義理堅く愛情深い奴らだが、本来魔狼は魔力の高い生き物の影に棲みついて魔力を喰らう代償に懐く魔物だ。


「魔力を与えられるうちは良い主従関係を築けるが、憑かれたものが弱り死に瀕した時、本性を現し宿主を喰い殺すという恐ろしい習性がある。君の魔力なら飼えるかもしれないが、おすすめはしない」

「えぇーそんなぁ! 私も、もふもふした使い魔が欲しい〜!」


 アビゲイルは俺の相棒で使い魔の魔狼ユピに抱きつきながら駄々をこねる。ユピは俺に『こいつをなんとかしろ』と迷惑そうな視線を送ってくるが、俺は敢えて無視した。主人を差し置いてアビーとイチャつく奴は、大人しくもふられてろ。


「人生の最後に喰われる覚悟が無いなら、魔狼は諦めるんだな」

「うう〜」


 アビゲイルは不満げに唸ってユピの灰色の被毛に顔を押し付ける。正直羨まし過ぎるのでそろそろ離れてほしい。むしろ、そこ代われと言いたい。どうやってユピから引き離すか思案していると、アビゲイルは突然ガバッと顔を上げた。


「じゃあ、あの仔は? 金色で、顔と足先と尻尾の先が白い綺麗な仔。私は勝手に〝靴下ちゃん〟って呼んでるけど」

「靴、下!?」


 咽せた。それはもうアビゲイルが心配して背中を摩ってくれるほどに。足先が白いからってことか? それはそうなんだが、もっとこう……どうにかならなかったのか?


「だ、大丈夫? なんか変なところに入った?」

「あ、ああ……」


 全く大丈夫じゃない。主に精神的に。


「その、靴下ちゃん、とは?」


 気を取り直して、平静を装って尋ねると、アビゲイルはようやくユピを解放して俺の方に向き直った。


「学院に入る前に会ったことがあるのよ。すごく綺麗で大人しい仔だったから、セシル家の狼かなぁ? と思ってたの。違った?」

「…………覚えていたのか」

「えっ?」

「いや、なんでもない。――その狼のことはよく知っている」


 本人だからな。とは言えないので言葉を濁す。


「欲しいならあげるよ。あいつも君のことが気に入っているし」

「本当!? 嬉しい! ありがとうアーサー!」


 アビゲイルが満面の笑みで嬉しそうにはしゃぐので、俺を求めているわけじゃないと分かっていても嬉しくなってしまう。


「実家に置いてきてしまったから、今度帰った時に連れて来るよ」


 その時はそう答えたのだが、アビゲイルが旅費節約のため長期休暇中帰省しないことを知った俺は、帰省の予定を取り消してアビゲイルと一緒に学院に残ることを選んだ。

『君が実家に帰省する時に我が家に招待するから、その時に紹介しよう』そう話をつけて、決着したのだった。

 たしかに、名前の件は有耶無耶になっていたな……。




 ◇◇◇




 靴下ちゃんだけはやめてくれと言わなかった俺も悪いし、名前のことは諦めるかと思ったのも束の間のこと。アビゲイルのルームメイト――デイジー・シファー――が俺の名前を聞いた途端、涙を流しながら笑い転げてベッドから落ちたのを見て、改名させることを決心したのだった。


「そ、それで、靴下ちゃんになったのは分かったけど……部屋に入れちゃって良いの? その仔、アーサー様の家の仔なんでしょう?」


 おい。余計なことを言うな。

 俺が睨むと、デイジーはまた思い出したのか吹き出して肩を震わせる。


「ダメだったら探しに来るでしょう。それに、この時間に外に出しているってことは、放任されてるってことだと思うから大丈夫じゃないかしら」


 お湯で濡らしたタオルで、俺の足を拭きながらアビゲイルが答える。肉球がふにふに押されてむず痒い。


「ふぅん……まぁ、アビーが良いなら私は良いけど……ってか、私には止められないし」

「え?」

「な、なんでもない! あとは私がやっておくから、アビーはお風呂に入ってきなよ」

「えっ、でも」

「いいからいいから! 私にももふらせて!」

「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」


 やや強引なデイジーの勧めに、心配そうにチラチラと振り返りながら、アビゲイルはバスルームに入っていく。

 ドアの向こうから水音が聞こえ始めると、デイジーは俺の隣にしゃがんで声を潜めた。


「セシル家の総領様が何やってんですか! 旦那様が知ったら泣きますよ!?」


 小声で怒鳴るという器用な真似をするデイジーは、オクシタニア出身の白狐の獣人である。俺たち兄弟の護衛のひとりとして父が学院に潜り込ませたのだが、仕事が無くて暇すぎると嘆くので、アビゲイルのルームメイトとして護衛させている。最初は『オーヴェル家の令嬢の護衛なんて!』と、ぶつくさ文句を言っていたが、今ではすっかりアビゲイルの味方のようだ。


 まだ水音が続いているのを確認してから、俺は全身に魔力を巡らせた。金色の魔力光が身体を包んで輪郭が曖昧になる。身体を覆っていた被毛が消えて、手足が長く伸び、上体が軽くなって二本の足で立てるようになる。人の姿になった俺を見て、デイジーは俺の足元に跪いた。


「お前が父上に報告しなければ済むことだ。……俺だってまさか女子寮の部屋に入れてくれるとは思わなかったが、雪の中で寒そうに見えたのだろう。アビーの誘いは断れない」

「これが本当の送り狼……」

「お前、さっきからうるさいぞ」

「ひぇっ、殺気出さないでくださいよ。アビーに気づかれちゃいますよ?」


 狡猾と表される狐獣人だが、デイジーに限っては思ったことが顔にも口にも出るらしい。俺は敬意の欠片も無い言動に舌打ちして、側にあった椅子にどすんと腰を下ろした。


「まさか朝までここに居る気ですか? 私にアビーの貞操を守れと?」

「毛皮にされたいならそう言え。アビーの襟巻きになる栄誉を与えてやろう」

「いや、あはは……私が総領様を追い出すわけないじゃないですかやだなー。邪魔者はちょっと外で時間潰してきますから」


 デイジーはアビゲイルの机にメモを残すと、そそくさと部屋を出ていった。風呂上がりでいつもに増して良い匂いのするアビゲイルと二人きりにされるという地獄の拷問が始まった時には、引き留めておくべきだったと後悔したのは言うまでもない。




 まだ暗い真冬の朝方。狼姿で床に敷いたクッションの上で寝ていた俺は、人の姿に戻ってベッドで眠るアビゲイルに忍び寄った。

 化粧を落とした彼女の顔を見たのは何年ぶりだろうか。頬には薄いそばかすがあって、いつもより幼く無防備に見える。惹かれるようにベッドに腰掛けると、古いベッドは二人分の重量にギシリと悲鳴をあげた。


「ん……アーサー?」


 寝ぼけた眼を擦りながら、アビゲイルは舌足らずな子供のような発音で俺の名を呼ぶ。

 君が俺の名を呼ぶ声を、久しぶりに聞いた気がする。ただそれだけで、こんなにも俺の胸は掻き乱されると、君は知っているのだろうか。


「夢、かしら?」

「ああ。これは夢だよ。ただの夢だ」


 シーツの上に投げ出された彼女の指に指を絡めて、そっと唇を重ねる。


「こんな都合の良い現実があるわけがない」

「……そうね」


 安心したような、失望したような笑みを浮かべて、アビゲイルは瞼を閉じる。やがて深い眠りに落ちたのを見届けると、俺は彼女の掌に頬を押し当てた。

 離れ難い。

 卒業してしまったら、次に会えるのはいつになるのか。少し想像しただけで、身を引き裂かれる思いがする。俺には人の心が無いと弟たちは言うが、本当に心が無いのなら、今俺を苛むこの痛みは何だというのか。

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