第4話 弟妹の心、兄姉知らず

 北国シュセイルの冬は、夜が長い。放課後のこの時間、既に辺りは青いヴェールを被せたかのように薄暗く、青白い魔光灯が作る影が雪の上に長く伸びていた。


「アビーに直接訊ければ良いんだが、避けられていてね」


 骨に沁みるような寒さを誤魔化すため、空元気で明るく笑う。『貴方は黙っていると怖そうに見えるんだから、もっと話しかけやすそうな優しいお顔をしてちょうだい』とアビゲイルによく言われるので、気さくに……と心がけたのだが、イライザの警戒心は少しも緩まない。お前が避けられてるのは自業自得だろうと言いたげな視線が顔に突き刺さる。

 ――解せない。


「アビーは、卒業祝賀会に参加するのかな?」

「不参加と聞いております」


 ぴしゃりと即答である。イライザはさっさと話を切り上げたい空気を醸し出しているが、俺だって別に好きでこんなことをしているわけじゃない。もう少し協力的になって欲しいものだ。


「パートナーが必要なら俺に声をかけてくれと伝えてくれるかい?」

「はい。申し伝えます」


 そうは答えたが、俺と会ったことすらアビゲイルに言う気は無いだろう。俺は余程嫌われているらしい。

 今のところ、アビゲイルがパートナーを探しているという噂は無いが、この機にどこの馬の骨とも知れぬ男が近付こうとするかもしれない。アビゲイルの不参加が確定するまで、虫がつかないように警戒しなくては……。

 等々考えていると、イライザが俺の顔を見上げていることに気づいた。


「私も、アーサー様にお尋ねしたいことがございます」

「いいよ。言ってごらん」


 努めて優しく促してみたが、イライザは不信感を露わに眉根を寄せる。かえって警戒が増したようだ。


「……どうして、婚約を破棄されたのですか?」


 少し言い淀んで発せられたその声音に、非難の色は乗っていなかった。けれど、オーヴェル男爵夫人似の一見穏やかそうなモスグリーンの目には、強い憤りがみなぎっている。


「アビーから聞いていないのか? お互いの条件が合わなかったからだ」

「もう婚約者ではないのなら、何故お姉様に構うのですか?」

「愛してるからだが?」


 迷いの無い俺の答えに、イライザはまるで化け物を見たような顔をする。魔光灯の下、イライザの顔色は酷く青褪めて見えた。


「……これ以上、お姉様を苦しめないでください」

「は?」

「お願いします!」


 震える声で正義感あふれる懇願をするイライザに、俺は唖然としてしまった。

 確かに、婚約を破棄したことでアビゲイルを傷付けたかもしれない。だがアビゲイルとの結婚を誰よりも望んでいたのは、この俺だ。きっとアビゲイルよりも狂おしく、切実に。


「結婚する気がないのなら、もうお姉様を弄ばないで、放っておいてくださいませんか?」

「何を言っている? 俺がアビーを苦しめるわけがないだろう?」


 俺には弟しかいないので、妹に対する接し方が分からない。しかし、義兄になるのだから、俺なりに少しは義妹たちに優しく親切に接しようと思っていた。妹たちと良い関係が築ければ、アビゲイルの俺への好感度も上がるだろうという下心もあったが……今、気遣いの最後の欠片が砕けた音がした。


「第一、フラれたのは俺だ。アビゲイルは俺との結婚よりも、君たち姉妹を選んだのだから」


 夜闇に隠れて見えないと油断したのか、しかし夜眼の利く獣人にははっきりと視認できる。驚愕の表情を隠せないイライザに、苛立ちが募った。

 優しいアビゲイルは破談の理由について何も話さなかったのだろう。俺から話すのもどうかと思ったが、こうも悪い方向に誤解されていては話にならない。……というのは建前。単純にイラついたのだ。


 アビゲイルに愛され守られている分際で、苦しめるなだと?


 お前が、それを言うのか?


 不意に滲み出た俺の殺気に、イライザがひゅっと息を飲んだ。よろよろと後ずさって、腰が抜けたのか、ぺたんとその場に尻餅をつく。苦しげに首を押さえながら俺を見上げる眼は恐怖に見開かれた。


「どう、して? あ、あなた……眼が、金色に……光って……? まさか」


 乾いた笑いが漏れた。まさか、アビゲイルよりも先にイライザが気付くとは。

 獣人は感情の昂りで眼に獣の野生が宿り、人には無いはずの輝板タペタムが光ることがある。俺の場合は虹彩の金色の割合が増えて、より明るく光るように見えるらしい。自分では見たことがないので、どの程度のものかは知らないが。


「ああ……俺もまだまだだな」


 鋭い爪も牙も無い羊相手に、我を忘れるなんて。

 髪色も瞳の色も顔立ちも、全く似ていないのに。怯え震えるイライザの姿に、愛しいアビゲイルの姿が重なる。


 アビーがを恐れるわけがないのに。


 自分でも知らないうちに自棄になっているのかもしれない。どうにも感情の歯止めが効かなくて両手で顔を覆う。イライザの姿を見なければ臓腑が焼けるような怒りが収まると思ったのだが……。


「お、お姉様を、どうなさるおつもりなの?」

「どう、って。ふふ……どうしてやろうか」


 羊が毛を逆立てて威嚇したって、かえって嗜虐心を煽るだけだと教えてやるべきか。


 今更ながら、苛立ちの原因が分かってしまった。目を覆っても無駄だ。姉妹の容姿は似ていないが、匂いと声が似ているのだ。

 やはり煙草を吸っておくべきだった。嗅覚が鋭敏な今は、イライザから漂う匂いに脳が混乱している。この女はアビゲイルじゃないと分かっているのに、よく似た匂いが俺の理性を擽る。よく似た声が俺を詰り、拒む。


 そんなの、正気でいられる方がおかしいだろう?


「悪いようにはしないさ。言っただろう? 俺はアビゲイルを愛してるんだ。だから、そう……あまり怯えないでくれ」


 俺が取るべき最良の選択は、余計なことを言う前に、今すぐここから離脱することだ。

 だが、理解していても行動に移すのは難しい。

 身体を支えようと、何気なく触れた木の幹がミシりと指の形に抉れる。押し殺した悲鳴に顔を上げれば、美味そうな匂いをさせながら雪の上を這って逃げようとする哀れな羊の姿が目に入った。


「逃げるなよ。アビゲイルを愛するもの同士、仲良くしようじゃないか」


 もはや隠すつもりは無い。

 いっそのこと、こいつを捕らえて吊るしたら、アビゲイルを誘き出せるだろうか? 何よりも大事な妹を守るためなら、今度こそ俺のものになってくれるだろうか?


 嫌われようが軽蔑されようが、君が手に入るなら何だっていい。利用できるものは、全て利用してやる。卑怯と言われようが構わない。

 ――ただ、君に逃げられるのだけは、耐えられない。俺から逃げたいのなら、俺を殺す気で抵抗してくれないと。


 イライザの背中に伸ばした手は、すんでのところで横から掴まれた。


「一般人相手に何してんだお前は!」

「兄が申し訳ない」


 慌てて割り込んできたのは弟二人である。ヴェイグが俺の腕を捻り上げてイライザから引き離す間に、デニスが気を失ったイライザを俺の視線から隠すように抱えて運んで行った。無言で見送る俺に、ヴェイグがこそりと囁く。


「まさか、俺たちの正体、バレたんじゃないだろうな?」

「さあ? 別にバレたらバレたで構わない」

「正気かよ! お前だけの問題じゃないんだぞ!?」


 俺は胸ぐらを掴むヴェイグの手を振り払い、上着の襟を直す。


「知られてしまったら仕方ない。消せばいいだけだ」

「うわぁ……完全にイカレてやがる。アビゲイルさん……よくこんなのと付き合ってたよな……」


 こんなのってなんだ。どういう意味だ。と問い詰めたかったが、ヴェイグは頭を抱えたまま何も答えてはくれなかった。


 ――俺が馬鹿な真似をする前に、止めてくれて良かったという感想は、墓場まで持って行こうと思う。




 ◇◇◇




「うちの馬鹿が本当に申し訳ない」

「私は大丈夫ですから、もう謝らないでください」

「……すまない」


 気を失ったイライザを医務室に運び込んでから一時間後。眼を覚ましたイライザを前に、デニスは平謝りだった。

 デニスとイライザは同じ学年だが、ほとんど会話をしたことがない。しかし、お互い問題児な兄弟と姉妹を持つ身。特に接点は無くとも同情に似た奇妙な友情を感じていた二人だった。それを自覚したのは最悪のタイミングとなってしまったが。


「お姉様……一体、何をしたらあんなに好かれるのかしら? 好かれ……好かれてるんですよね?」


 俺に訊くなと答えたいのを堪えて、デニスは「たぶんな」と答えた。


「妹の贔屓目に見ても、お姉様はお綺麗ですけど、それにしても……」


 アビゲイルの親バカならぬ姉バカもかなりのものだが、妹バカもなかなかのものらしい。どう応えたものか悩んで、デニスは曖昧に頷くに留めた。

 謝り続けるデニスに恐縮したのか、イライザはその後も話題をころころと変えて取り留めのない話を続ける。デニスは頷いたり相槌を打ったりしながら、やがて来るだろう問いに備えていた。


 場を和ませるための話も尽きて気不味い沈黙が満ちた時、イライザはようやく覚悟を決めたのか、デニスの顔を真っ直ぐに見つめる。


「お二人の婚約がダメになった話はご存知?」

「ああ」

「その理由も?」

「聞いた」

「……そう。お姉様は何も仰らなかったから、私は先程初めて知ったわ」


 訊きたいのはそんな話じゃないだろう?

 喉までで出かかった言葉を飲み込んで、デニスは淡々と答える。そろそろ養護教諭が帰ってくるだろう。その前に、するかどうかを決めなくてはならない。なかなか斬り込めないイライザに、デニスが核心を突いた。


「君は……二人の結婚に反対するか?」

「いいえ。お姉様が愛する御方と幸せになるなら、反対なんてしないわ」


 アーサーが狼獣人と知った今でも、二人の結婚を祝えるか?


 声に出さなかったもうひとつの質問にイライザは気付いただろう。アーサーが獣人ということは弟のデニスもまた獣人ということ。そのデニスを前に怯えた様子は無く、落ち着いて満点の受け答えをするのだから、イライザには獣人に対する偏見も悪意も無いと判断して良いかもしれない。

 セシル家の秘密がバレることはない、と思いたい。――最終的な判断を下すのは父であるセシル伯爵だが。


「私では、あのアーサー様を止められる気がしないもの」

「俺とヴェイグが二人がかりでやっとだからな。君には荷が重いだろう」

「うちのお姉様も暴走しがちですし、案外お似合いなのかもしれません」

「そうだな。……とっとと、結婚でもなんでもしてくれ。俺たちを巻き込まないでほしい」


 疲れた顔で笑い合う二人がその後、情報交換をし続けることなど、兄姉は知る由もなかった。

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