第6話 冬枯れの森
セシル家の領地オクシタニアは、シュセイル王国の東端に在る。シュセイルのほぼ中央に位置する学院からは、列車で二泊三日、更に馬車で半日という距離に在り、東の辺境だなんて呼ばれている。
移動に時間がかかるので、俺が学院在籍中はほとんど帰ることがなかった。別に家族仲が悪いわけじゃない。ただ、必ず帰ってこいと言われなかったし、絶対に帰省しなきゃいけない理由も無かったからだ。
何より、学院生が少ない休暇の間中、アビゲイルと二人でのんびり過ごせるという俺にとっては重大な利点があったからである。
そんなわけで、俺がオクシタニアに戻ったのは学院の卒業式が終わった後。実に六年ぶりのことだった。
「まるで真冬じゃないか……」
俺は肘掛けに頬杖をついて、ぼんやり外を眺めながら溢す。
春だというのに、馬車の車窓を流れるのは、雪化粧をした針葉樹の森。木炭と薄墨で描いたような寒々しい森の中を馬車は静かに往く。もう何時間も変わり映えのしない風景に気が滅入ってくる。相変わらず、腹に石を詰められたかのように重苦しい辛気臭い森だ。
うんざりとため息を吐いた俺に、正面の座席に座るヴェイグが「ああ」と納得した声を上げる。
「そういや、兄貴は久しぶりの帰省だったか。二年前の例の事件からこの惨状だ」
「……なるほど」
二年前、当時六歳だった俺の末の弟が、月神の怒りを買ってしまった。その結果、月神の加護によって年間を通じて温暖で豊かなオクシタニアの森に冬が居座り、少しずつ枯れ始めているという。
今のところ、領の主要産業であるワイン作りに影響は出ていないそうだが、この状態が長引けば領民に不安が広がるだろう。そんな理由もあって、
父がもっと穏やかな書き方をしてくれれば、アビゲイルを激怒させることはなかっただろう。タイミングも最悪だった。注文を出すなら、逃げられないようしっかり囲いを閉じてからにしてほしかった。恨みごとのひとつ二つは言っても良いはずだ。
あれが無ければ、今頃俺の隣には眉間に皺を寄せたまま爆睡するデニスではなく、アビゲイルが座っていただろう。図体のデカい兄弟三人が一台の馬車に詰め込まれるなんて、むさくるしいことこの上ない。なんとも色気の無い旅路である。
俺は何度目かのため息を吐いて、窓枠に頭を預けた。
結局、アビゲイルは卒業祝賀会には参加せず、卒業式のその日のうちに学院を出て、妹たちと一緒に実家に帰ってしまった。
俺が最後に彼女の姿を見たのは卒業式の時の俯いた後ろ姿だ。結い上げた髪から後れ毛が垂れて、白く細い首に掛かる様が艶かしくて眼が離せなかった。血のように赤い髪色のせいか、アビゲイルの首筋はどこか陰鬱な色香が漂う。思い出す度に、口の中が甘ったるくなって牙が浮きそうになる。砂糖を吐きそうな気分というのは、こんな感じだろうか?
生まれながらの獣人は、生涯に一度、犬歯の裏に小さな赤い牙が生える。
その牙で咬みついた人間を眷族とし、同じ種の獣人にすることができる。人間より筋力の強い獣人は、その気になれば気に入った人間に咬みついて眷族化し
俺がアビゲイルを相手に強硬に出られない理由はそこにある。
本音を言えば、今すぐオーヴェル家の屋敷に踏み込んで彼女を攫って、あの白く美しい首筋に咬みつきたい。俺の番だと、印を付けたい。誰にも邪魔をさせず、確実にやり遂げる自信が俺にはある。
しかし、それを実行した瞬間、俺たちは人間の社会からも獣人の社会からも締め出されてしまう。アビゲイルと一緒に逃げたとして、第五騎士団がどこまでも俺たちを追いかけてくるだろう。捕まれば俺はアビゲイルから引き離されて、報いを受けることになる。アビゲイルは獣人の犠牲者として、後ろ指を指されながら生きていかねばならない。そんな事態には絶対にさせない。――させないためには、俺が耐えるしかないのだ。
「はぁ……」
途中までは上手く行ってたんだけどなぁ……。と、結局思考が『親父この野郎』に戻ってきてしまって、またため息を吐く。
「……アビーに会いたい」
ぽろりと溢れた弱音に、鬱陶しそうに舌打ちしたヴェイグには、後でよくお礼をせねばと思う。
◇◇◇
懐かしの我が家を満喫する間も無く、自室に荷物を置いた途端、父からお呼び出しがかかった。こんなに早く呼び出すなんて、父は余程俺に会いたかったらしい。或いは、俺に言い訳を考える時間を与えないためか。
家令に連れられて入った執務室は、この場所だけ時間が止まっているかのように六年前と変わらない。黒い革張りの椅子に深く身を沈め、気怠げに煙草を燻らせるこの城の主人さえも。
「座れ」
低く静かな声が命じる。声音から機嫌は窺えないが、手元の書類を見つめる父の目の下には薄ら隈が見える。案内をしてくれた家令が書類を受け取って出ていくと、俺は遠慮無くソファに寛いだ。
「ただいま帰りました」
「ああ。よくぞ戻ったな」
「学院は主席で卒業。来月から晴れて、王国立大学法学部の学生になります」
「そうか。ご苦労だった」
父は涼しい顔で頷く。表面上は澄ましているが、内心は俺の進学を快く思っていないのだろう。
嫡男ならば、学院卒業後は領地に戻って領地経営を学び、結婚して家を継ぐ。進学して医者や騎士を目指すのは、継ぐ領地が無い弟たちというのが、古くからの忌まわしい習わしである。
だが、領主の仕事は多岐に渡る。領地領民の管理や、徴税、領内外の紛争の解決もしなくてはならない。古い価値観に縛られて、嫡男だからと辺境の領地に引き籠もっていれば食い物にされるだけだ。領主は領内の司法も担うのだから、俺が法曹に進むのも無駄にはならない。
それに、次男デニスは医者を目指し、三男ヴェイグは騎士になることを目標としている。月神の怒りを買った四男は、成人まで生きられるか分からない。そうなると、セシル家の家業を担うのは必然的に俺しか居ない。
デニスは愛想の良い男ではないし、ヴェイグが正騎士になって自由に動けるようになるには最低でもあと三年はかかるので、その間大学や首都の社交界で人脈を築くのは俺の仕事となるだろう。
幸い、父を説得する尤もらしい理由はたくさん有った。
説得の際、指折り数えて列挙して父に反論の余地を与えなかったので、今だに根に持っているのだろう。口では俺に言い負かされると思ったのか、以来父がこのように俺を呼びつけることは無くなったのだが……。
「どこに出しても恥ずかしくない嫡男だと思いますが、俺は何故ここに呼ばれたのでしょうか?」
正直、心当たりがあり過ぎて、何が原因なのか分からないのだが、お叱りは間違いないだろうと覚悟を決める。ゆったりと足を組み換えアビゲイルのために作り上げた笑みを浮かべて問えば、父は鼻で笑って煙草を灰皿に押し付けた。渋みの強い香りが鼻に抜けて、口の中に程よい苦味が広がる。女の好みは合わないが、煙草の好みは合うらしい。
「お前がこの森を出て首都に行くというのは、進学のためだと私は理解している。……決して、羊と交雑するためではないとな」
父はマホガニーの机の上に優雅に指を組み、俺を見据える。執務室の景色が一瞬歪むような強力な威圧は、流石は遠征の経験がある元騎士である。久しぶりに帰ってきた息子に対するものとは思えない熱い歓迎に、嬉し涙が出そうだ。
「ええ、その通りです。進学もします。ただ、俺は強欲な男ですから。学位も情報も人脈も妻も、欲しいと思ったものは全て手に入れます」
より一層増した威圧が舌を重くする。だが、ここで怯み、口を閉じるわけにはいかない。
「羊の彼女も愛らしいですが、俺のパートナーとして隣に立つのなら、やはり同じ狼でないと。なれば、セシル家の掟に従い、彼女には俺の眷族として狼になってもらいます。ご心配には及びません」
「心配などしていない。遺憾だと言っているのだ。私はあの娘にオクシタニアの土を踏ませる気は無い」
「何故そうまでアビゲイルを嫌うのです? 彼女が何をしたと言うのですか?」
オーヴェル家を警戒しているとはいえ、アビゲイルに対する父の反応は過敏だ。その気になれば簡単に潰せる家の、か弱い娘を相手に何を恐れているのか。
「……嫌っているのではない」
父が心外そうに眉を顰めるので、俺は何も言わず頷いて先を促した。
「我がセシル家は祖神より樹の魔法を受け継ぐ一族。あの娘の火の魔力とは相性が悪い。森神でもある月神は火を嫌う。……今は特に、刺激したくないのだ。城に帰るまでに、お前も森の惨状を見ただろう? この森は月神の加護を失いつつある。そんな中、一族に火の魔力を持った者が入れば、月神がどう反応するか分からない。私はこのオクシタニアの領主として、領地と領民を守らねばならない。お前も、次期領主ならば聞き分けろ」
恐れているのはアビゲイルではなく、月神か、はたまた一族の宿命か。
父の言うことはよく分かる。俺とて、真冬の森を見て何も思わなかったわけではない。父の懸念も理解できる。だが、俺がアビゲイルを諦める理由にはならない。
「今は、と仰いましたが、俺は待てません。月神の機嫌を窺っているうちに彼女に逃げられては眼も当てられない。――お陰様で、俺には時間も余裕も無いのです。アビゲイルとの結婚を認めていただけないのなら、勘当してください。幸い、弟たちは優秀です。俺より良い跡取りになるでしょう」
セシル家を出ることは、ここに来るまでに何度も考えて出した結論だ。
この森に俺たちの居場所は無い。当主たる父が認めない以上、俺とアビゲイルが一緒になるには、この森から出てセシル家からも出なければならない。心労をかけてばかりの長男が出ていけば、父も気が楽になるだろうと俺から申し出たのだが……どうやら、眠れる狼の尾を踏んでしまったらしい。
「……我が一族から逸れ狼を出すことは無い。私がお前を勘当などできるわけがないと侮っているようだな?」
膨れ上がる父の魔力に耳鳴りがして、一瞬ぐらりと平衡感覚が崩れた。森が大きくうねり、ざわざわと揺れ擦れる葉が声高に俺を非難する。すぐそばで知らない言語で罵倒されているかのような不快感に視界が揺れた。こんなこと、父の魔力だけではできない。この森のあらゆる場所に眼と耳を持つ月神が、父を通して俺に干渉しているのだろう。
頭を締め付けられるような酷い痛みに気を失いそうになりながら、俺は毅然と顔を上げる。この程度で諦められるなら、最初から喧嘩なんて売ったりしない。
「勘当はしない。お前が己の責務を思い出すまで、森を出ることは許さない。――話は以上だ」
魔光ランプが灯る薄暗い執務室の中で、父の眼は冷酷な光を返していた。
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