第2話 可哀想な君が好き
アビゲイルと俺の結婚には、いくつもの壁が立ち塞がっている。
ひとつ目は、オーヴェル男爵家の経済事情。
二つ目は、アビゲイルの最愛の妹たち。
そして、三つ目にして最大の壁が、セシル家の家長である父の許可だ。
『オーヴェル家の評判が悪過ぎるから、結婚を反対されると思うわ。だからといって、何も報告せずに強行すれば、貴方とご両親との関係が悪くなってしまう……』と、アビゲイルは俺を心配して、婚約してから結婚するという正式な手順を踏んだ結婚を望んだ。両家を交えた話し合いがしたい旨、俺の父に手紙を書いたのだが、返ってきた答えは息子の俺でさえも頭を抱えるものだった。
『領外からセシル家に輿入れする際に留意していただきたいいくつかの事柄』と銘打たれた長い手紙を要約するとこうだ。
一、結婚後は領主の許可無く領地を出ることを禁ず。
二、実家から連れてきた使用人は領内に入る前に全員帰すこと。
三、いかなる理由があろうと、領主の許可無く外部と社交をしてはならない。
四、オーヴェル家への援助はしない。また、実家の家族と会えるのは年一回七日間のみ。領主の許可が得られない場合は家族であっても領内に招いてはならない。
五、領地から人・金銭・物品・動植物を持ち出すことを禁ず。
六、全ての書信は検閲が行われる。領内の情報を漏洩した者は厳罰に処す。
七、白い毛皮を着てはならない。
八、濃い化粧や強い香りを纏ってはならない。
九、結婚後は首から肩を露出してはならない。
十、家業・領地経営・城内人事への口出しは無用。
十一、領主・夫・夫兄弟の仕事への詮索を禁ず。
十二、領内で篤く信仰される月神・月女神に常に敬意を払い、領内に棲息する狼は神獣として丁重に扱うこと。
十三、以上十二条が守れぬ場合、領主は婚姻を認めない。
「こんな……こんなふざけた条件……貧乏男爵の娘だからって馬鹿にしないで!」
交際を始めてから半年後のその日、俺の授業が終わるまで待っていたアビゲイルは、教室から出てきた俺の顔を見るなり、燃える炎のような赤毛を逆立てて手紙を押し付けてきた。
「どういうつもりなのアーサー!? あんた、これ読んでないの!? おかしいと思わないの?」
受け取った手紙を読んでみれば、なるほど。アビゲイルが激怒するのも無理は無い。しかし、困ったことに内容自体は間違ってはいないのだ。多少融通が利くこともあるが、セシル家に入るなら、これは守らなくてはいけない事柄である。
「……まぁ、最初から飛ばし過ぎだが、間違ったことは書いていないと思う。君はそろそろ妹離れするべきだ」
「は? 嘘でしょ。あんたもこういう思想なの!?」
「思想ね。そうとも言える。俺たちにはどうにもならないんだよ」
思想というか、信仰というか……生まれ持った体質はどうにもならない。
――俺が、金月と森を司る神の血を引く、狼獣人の一族セシル家のアーサーである限り。
獣人とは、満月の夜に獣と化す人々のこと。獣の身体能力と人間の頭脳と魔力を持ち合わせ、血の匂いで凶暴化する獣人は、人間にとって恐怖の対象だった。過去には迫害で大きく数を減らしてしまったが、通常時の見た目は人間と変わらないので、獣人は人間に紛れて正体を隠して生きている。
父からの注文の中で、五の持ち出し禁止は、過去に迫害された獣人が奴隷として売られていたことに由来する。セシル家の領地オクシタニアの住民の九十九パーセントは獣人。みだりに人や動植物を持ち出して、あらぬ疑いをかけられないようにという意味である。
七から九の項目は、獣人を刺激しないための常識だ。五感が優れた獣人は、香水や化粧品の匂いに弱い。単に目を回すだけならまだ良いが、匂いによっては神経を逆撫でしたり発情させたりする危険性がある。
父からの注文には全て明確な理由があるのだ。
俺が獣人であることを明かして、きちんと説明すればいいのだが、俺が正体を明かすということは、家族の正体も知られてしまうということだ。アビゲイルは善人でもオーヴェル家は信用ならない。結婚が確定するまでは絶対に明かすことはできない。
アビゲイルがこの条件を呑んで、俺に唆されて結んだ口約束の婚約ではなく、両家を交えた正式な婚約を結んでくれさえすれば、父も俺たちの本気を理解して態度を軟化させるだろう。
君が頷いてくれたら、それで済むことだ。
君は自分の休日を返上してまで魔石を作って、妹たちに尽くしているが、どうして君だけがそんなことをしなくちゃいけないんだ。君はこれを機に、妹離れして自分のための人生を歩めばいい。彼女らも、もう何もできない子供ではないんだ。
もし家族が君を離さないなら、俺が君をあの家から連れ出すから。
――その時の俺は、アビゲイルの妹たちへの愛を侮っていた。俺を選んでくれると思って、疑わなかった。
「君は、受け入れられない? 何よりも妹たちが大事?」
「当たり前でしょう!?」
だから、一呼吸の間も置かずに発せられたその答えに、少なからずプライドを傷つけられた。頭に血が昇ったと言ってもいい。
俺は君のために君の望む王子様を演じてきた。君の願いはなんでも叶えてきたのに。俺の思いは全く伝わっていない。アビゲイルにとって、妹たちより優先するものは無いらしい。アビゲイルの情熱的な愛が向けられるのは妹たちだけ。――わかっていたことだ。
「……なら、仕方ないな。君に譲れないものがあるように、俺にも譲れないものがある」
優しい君は家族を諦められない。君がセシル家に入れないなら、別の方法を選ぶしかない。
俺がセシル家を出てオーヴェル家を継ぐという手もある。駆け落ちしたっていい。それも嫌なら、君を攫ってどこかに閉じ込めてしまおうか。俺は、君が望んでくれるなら何もかもを捨てられる。
最初からそうやって俺の思いを明かして説得すれば、もっと冷静に話し合いができたかもしれない。
だが、本当の俺はアビゲイルが望む綺麗な王子様なんかじゃない。俺は我儘で傲慢な男だ。君の心の中を俺以外が占めているなんて許せない。
「アビゲイル。君との婚約を破棄させてもらう」
丸く見開かれたアビゲイルの眼に、深い絶望が映る。俺の上着の襟を掴んで、震えながら縋り付く彼女を見るのは気分が良かった。
痛い? 悲しい? 苦しい? それは重畳。今、君の心を占めているのは俺だけということだ。
「な、にを、言って、るの……? どうして親の言いなりなの? いつものあんたなら、こんな理不尽『馬鹿げてる』って笑うところでしょう? ねぇ、どうしたの? 今、婚約できないと、私……」
「君の不安は分かっている。金が必要なら俺に婚約破棄の慰謝料を請求すればいい」
「いらないわよ! そんなもの!!」
わかってるよ。君はいくら生活が苦しくてもドレスも宝石も花さえもねだらない。頼って、甘えて、依存して、俺無しでは生きられないようになってほしいのに。俺の助けを必要としない。俺から金を受け取るなんて絶対にしないはず。
でも、それじゃあ君の大事な妹たちは守れないだろう? さあ、どうする? 信条を曲げるか?
不気味な高揚感が胸の内に湧き上がる。狼の本能か、追い詰められ自ら罠に突っ込んでいく君を見ていると、まるで獲物を追い立てる狩人にでもなった気分だ。
俺が欲しいなら、手を伸ばしてくれないと。君が求めてくれなければ、俺は。
「……あんたは、私がお金のためにあんたと付き合っていると思っていたの?」
「違うのか? セシル家の子息に取り入って誘惑しろ。金を引き出せと君の母親に言われたんじゃないのか? 俺は別にそれでもいいから君と……」
だから、どうか俺を……。
しかし、その答えは彼女のプライドを著しく傷つけてしまったらしい。
「――最ッ低!!」
バチンと、耳の近くで大きな音が鳴って、頬を叩かれたのだと知る。獣人は人間よりも頑強にできているから、平手打ちされたところで仔猫が引っ掻いたぐらいの威力にしか感じないのだが、じわじわと頬から身体にむず痒いような痺れが広がる。
見た目は派手で気が強そうなアビゲイルだが、その本質は繊細だ。今までの人生の中で人を叩いたことなんて無かったのだろう。
「なんで……あんたが」
そんな顔をしてるのか、って? さあ、俺にも分からない。
叩いた方の手を握りしめて、自分の犯した暴挙に怯えている君の善性が、愛おしくて、悲しいからだろうか。
そう、悲しい、はずなのに。
アビゲイルの大きな眼に涙が溜まっていくのを見ながら、昏い悦びに震える自分に気付いてしまった。
君からこんな激情を向けられたのは、俺が初めてだろうか?
「可哀想に」
俺は叩かれた頬を撫でながら、走り去って行く彼女の背にぽつりと溢す。
――可哀想に。俺みたいな男に好かれてしまって。まだ逃げられると思っているなんて。
逃がさない。
方針は決まった。父が許さないなら、セシル家の力は借りない。
アビゲイルが拒むなら、拒めないようにするだけだ。
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