第2章 アーサー編

第1話 赤い羊の囲い方

 シュセイル王国の建国記念日は、青の月と呼ばれる九番目の月の五日目である。王立学院では毎年舞踏会が開催されるのだが、最初のダンスを踊った相手と幸せな結婚をするなんて言い伝えがあるとか。


 最初のダンスを踊るのは、大抵婚約者や恋人なのだから、結婚するのは当たり前だろう。中には毎年違う相手と最初のダンスを踊っている奴もいるが、その場合はいつの最初になるんだ? 最初のダンスだけ踊れば、後は他の人と踊っても適用されるのか? そもそも幸せの尺度は人によって違うのだから、他人の思う幸せが自分にとっての幸せかどうかはわからんだろう?


 俺がそんな感想を漏らすと、馬鹿げたすてきな言い伝えを教えてくれた友人は「貴方はそういうの気になっちゃう人よねぇ」と困った顔をする。俺は話の出鼻を挫いてしまったらしい。

 学院を囲う森の奥、湖が見渡せるベンチに呼び出された俺は、目の前でもじもじしている友人――アビゲイルを見上げた。


 俺のアビゲイルは今日も可愛い。

 真紅の豪奢な巻き毛と同じくらい頬を赤らめて、意志が強そうな鉄色の瞳を潤ませる様は愛らしくて、今すぐ抱きしめたくなるのをぐっと堪える。何か重要な話があるらしいが、アビゲイルはかれこれ三十分ほど唇を開いて何かを言いかけては、やめるを繰り返している。


 勘弁してほしい。

 彼女が艶やかな桃色の唇を羞恥に振るわせるのを見ていると、理性が吹き飛びそうだ。無理やり唇を重ねてもっと恥ずかしい目に遭わせたくなる。そんなことをすれば、理性どころか俺の名誉まで吹っ飛んでしまうから、今はまだだめだと己に言い聞かせるしかないのだが……。


 ところで、これはなんの時間だろうか、新手の拷問だろうか?

 不埒な考えを鉄面皮で覆い隠し、彼女が望む通りの王子様然とした笑みを浮かべてみせれば、アビゲイルは「ううぅ〜やっぱ、無理ぃ」と呻いて両手で顔を覆ってしまった。


 なんなんだこのクッソ可愛い生き物は。俺を殺す気か? 


「アビー。黙ってたらわからない」


 まだ死ぬわけにはいかないので、用件を言うよう促してみると、アビゲイルは大きく深呼吸してから俺の隣に腰掛けた。


「うう……そうよね。ごめん。あ、あのね。建国祭の舞踏会のことなんだけど」


 俺の正面に立つより、横に居た方が話し易いらしい。湖の一点を睨みながら、アビゲイルは緊張の面持ちで切り出した。


「アーサーは、パートナー決まった?」

「……いや。いつも通りダンスはしないで、君を誘って飯でも食いに行こうかなって思ってた」

「えっ、あぁ、そうなの? そっか……」

「どうした? さっきから、何か言い難そうにしているが」


 ――なるほど。それで、あの言い伝えを持ち出してきたのか。

 彼女が言いたいことに見当がついたが、俺は冷静を装って白々しく問う。


 自惚れではなく、アビゲイルが俺に好意を抱いていることは誰の眼にも明らかだ。『その距離の近さで、なんで交際してないんだ?』と弟に言われて早五年。今日まで友人の域を越えることなく過ごしてきた。いい加減、彼女の理想の王子様でいることに飽きてきた頃だ。そろそろ友人から恋人へと関係を進めたい。


 君が誘ってくれれば、舞踏会ぐらいいくらでも行ってやるのに、言い伝えなんて持ち出して随分と遠回しな告白じゃないか。そんな言い方じゃあ、伝わらない。もっとはっきり言ってくれないと。

 俯く彼女の頬に掛かる髪の一筋を耳にかけてあげて、指の背で赤くなった頬を撫でる。きゅっと眼を瞑って恥じらう姿が可愛くて、ついついいじめたくなってしまう。


 さぁ、言え。パートナーになって、最初のダンスを踊って欲しい。言い伝え通りに結婚して欲しいと言えよ。

 のだから。


「アーサー…………私……」


 潤んだ彼女の瞳が俺を映す。縋るように手まで握られてしまったら、これはもう勝ち確定だと思っていいよな?


 しかし、俺のアビゲイルはいつも予想を超えてくる。


「私ね……舞踏会に誘われちゃったの!」

「は?」


 俺は聞き間違えたのだろうか? アビゲイルは俺を誘うつもりじゃなかったのか?


「だ、だから、パートナーになって欲しいって、誘われたの! 私、こんなこと初めてで、どうしたらいいのかわからなくて、とりあえずお返事は保留にしてもらったけど……うう……どどどどうしよう?」


 当たり前だ。そんなこと何度もあってたまるか。君に寄ってくる羽虫共は尽く叩き潰したはず。一体、どこのクソ野郎だ? 見つけ次第始末してやる。

 ただ、今はそんなことよりもアビゲイルの反応の方が気になった。


「……悩むってことは、まんざらでもないってことか?」

「まんざらでもないって言うか……一度は参加したいって思ってたから、誘ってもらえたことが嬉しくて。でも、お名前しか知らない方なのよね」

「もしかして、そいつが君の初めてのダンスの相手になるのか?」

「ダンスの先生以外だったら、そうなるわね」

「へぇ……」


 存外不機嫌な声が出てしまって、理想の王子様の仮面が剥がれそうになる。

 周りに頼れる男が居なければ、君は俺を選ぶしかなくなると思っていたのに。まだ逃げ道が残っていたなんて。もっと狡猾に、もっと周到に囲い込まなければ。君が自ずから望んで俺の手の内に落ちてくるように。


「相手の名前は? 俺の知っている人かな?」

「あぁ、えっと……」


 アビゲイルを誑かす野郎の名前なんて覚える価値も無いが、その時ばかりはしっかりと覚えた。――用が済んだら、すぐに忘れたけどな。





 三日後、再び同じ場所に俺を呼び出したアビゲイルは、大きな眼に涙を溜めながら膝の上に揃えた指先を見つめていた。


「あの人、私が誘いに応じるかどうかで、賭けをしてたんだって」

「……そうか」


 酷い男が居るものだな。と俺は神妙な顔で相槌を打ちながら、彼女の肩を抱き寄せる。


「お受けするか真剣に悩んだのがバカみたい」

「事前に分かって良かったじゃないか」

「うん……」


 髪を撫でて慰めると、アビゲイルはため息を吐きながら俺の肩に頭を預けた。

 いつも勝気で気が強そうなふりをしている君が、傷付き悲しみに沈む姿は愛らしい。こんな姿、俺以外には見せないでほしい。ただでさえ、君は魅力的なんだから。弱みを見せたら付け込みたい男はごまんと居るだろう。――ここにもひとり、俺みたいな男が。


「『もう懲りた。舞踏会なんて行かない!』ってなっていないなら、ここに当日の予定が無くて君のことを好ましく思っている男がいるんだけど、どうだろうか?」

「えっ」


 アビゲイルは身を起こして、丸く見開いた眼で俺の顔を見る。そんなに驚くようなことを言ったつもりはないが、涙が引っ込んだようで何よりだ。


「君が誘ってくれたら、喜んでパートナーを務めようと思っているんだけど」


 今度は俺が彼女の手を握って、幼い子供に言い聞かせるように眼を覗き込む。彼女の水面に揺蕩う星明かりのような灰色の瞳が戸惑いに揺れている。


「で、でも、ああいうパーティーで婚約者の居ない男女がパートナーになったら、交際してるって公言するようなものでしょう? それは……」

「交際してはいけない? 俺では不足? 俺は君に嫌われていたのか?」

「違う! 好きよ! 好きに決まってるでしょ!! …………あっ」


『今の無し!』みたいな顔してるけど、俺はしっかり聞いたぞ。寝る前に百回ぐらい思い出して眠れなくなるぞ。どうしてくれる?

 捕まえたままの手を引き寄せて、彼女を腕の中に閉じ込める。逃げようとあたふたしているけど、もう遅い。狼を招き入れたのは君だ。


「あ、アーサー? 今のは、その……」


 アビゲイルは俺の胸を押し返してふるふると首を横に振る。何が違うって言うんだ。君の眼は、君の態度は、出会った頃からずっと俺への好意で溢れていた。今更、気の迷いだったなんて言わせない。


「俺も。君が好きだよ。君のパートナーが務まるのは俺しかいない」


 湯気が出そうなほど真っ赤になった彼女の耳に、首筋に口づけて、背中に腕を回して強く掻き抱く。

 ああ、ようやく、ようやくここまで辿り着いた。今日からは友人ではなく、恋人として君を誘惑しよう。君の首筋に牙をたてるまで、あと少し。





 アビゲイルから言質を取った俺は、このまま順調に行くと信じて疑わなかった。父から十三の注文を突きつけられるまでは。

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