1-8 銃撃戦

 薄暗くなるフロアに、真っ白な人工の光が点灯する。

 やたらと眩しい白い光源を浴びながら、スペードはコインを残っている指でつまみ、握りこんだままゆっくりと立ち上がった。


「交戦の意思はない。なにが目的だ……」


 スペードは降参だとばかりに――右手はコインを握り込んだままだが――両手を上げて破浪と黒服の取り巻きたちと相対する。そのとき、いまだにパチパチと電気が漏れるスペードの小指を見て、ジンはすこし興味深そうに目を細めた。


「む、その指……きみも義体者だったのか。てっきり義足だけかと思っていた。気がつかなかったよ」

「…………」

「わたしは弱いやつ、卑しいやつ、みすぼらしいやつが嫌いでね。戦場で生きてきたわたしにとって、死から目を背け逃げるやつらは単なる汚物でしかない。腐敗して、臭く、汚い。……ゲボ同然の動物たちだよ」


 ジンは腰を下げながら、キャリーケースの中身を確認しようと視線を下ろす。

 だが、ケースには暗証番号付きの施錠がされていたのか、破浪はあごで近くにいた黒服に指示を出した。黒服の男がにやけ面で、銃をこちらに向けながら悠然と歩いてくる。


「とはいえ、わたしはキミをすこしは評価はしているのだよ。一目見て分かった。歩くときの歩幅、重心の移動、心拍数、呼吸、すべてが完璧だった。それこそ、機械でも使っているのかと疑うくらいにはね。……実際、そうだったわけだが」


 おそらくは拘束して、拷問で番号でも吐かせるつもりなのだろう。

 指示を出された黒服の男はそのまま歩いてきては、スペードの背後にまわりハンドガンを突きつけた。


「わたしは強いやつは好きだ、殺しがいがある。強さこそがすべて。それはスラム出身の者たちが口を揃えて唱える絶対の規律ルールだからな。わたしもそうやって成り上がってきた」


 カチリ、と後頭部に銃口が再び当たるのを感じながら、スペードはジンの話をじっと静止したまま聞いていた。


「キミはこの街の現状を知っているかい? この街を一言で現すとするならね、それは腐敗した街だよ。我々が我々のためだけに作ったものに、うじ虫が盛んに集まっている街だ。そのせいで、日々、この街が拡大を繰り返すたびに腐臭がひどくなる」

(……なんだ、銃口が震えている?)


 後頭部に突き付けられた銃口が震えている。いや、銃を持つ黒服の男の手が震えているのか。カタカタとしきりに人工髪の毛先に当たっている。

 違和感を覚えた。

 なぜ後頭部に銃をくっつける必要があるのか。これでは、まるで銃を奪って抵抗してくれと言わんばかりじゃないか、と。


(……誘われてる?)


 いや、考えすぎかとスペードは内心、頭を横にふった。

 おそらく黒服たちは階下にいる高度に訓練された警備兵ではなく、ジン・ポーランの息がかかった直属の部下なのだろう。そのせいか、黒服たちの練度もそこまで高くないように思える。

 となれば、やることはひとつ――。


「で、長々とした独白は終わりか? オッサン……!」


 瞬間、スペードは右手に持っていたコインを上に弾いた。

 後ろの黒服の視線がコインに釣られて上を向く。直後、思いきり屈みながら後頭部に刺さっていた射線を外し、振り向きざまに背後にいた男の側頭部をぶん殴った。


「――――ッ⁉ 」


 黒服が脳を揺らされた衝撃に耐え切れず、ぐるんと白目を向いて気絶する。その隙に黒服が倒れる前に持っていた拳銃を拾い、すぐさま男の首に腕を絡ませながら背後にまわる。

 そのまま銃口を天井に向けて――



 ――――銃声。



 スペードは天井に向けて引き金を二回引いた。

 二つの空薬莢が床に落ち、甲高い音を鳴らしながら跳ねまわる。怒鳴るのは趣味じゃない。だからこそ、行動で示せる最大限の警告だった。


「全員、動くな。銃を捨てろ。……でなきゃ、こいつの頭に風穴が開くぞ」


 スペードは近くにいた黒服を盾にしながら、その男の頭部へと銃口を突き付ける。気絶しているせいか抵抗はない。そして、他の黒服たちに動揺もなかった。

 しばらくの静寂が訪れる。緊迫した空気のなか、スペードは無表情の黒服たちと白服ジン・ポーランと相対する。だが、いつまで経っても彼らが銃を捨てることはなかった。


「聞こえなかったのか? 銃を捨てろと言ったんだ」

「…………」


 なおも、静寂――。ひたいから脂汗ならぬクーラント液がほおを伝い、顎先から地面へと滴り落ちる。スペードは人質を取ったにも関わらず、何も動きがないことに焦りを感じ始める。

 次いで口を開いたのは他の誰でもない、呆れ顔でため息をするジンだった。


「はぁ、スペードくん……。きみはすこし、わたしのことを勘違いしているらしいな」


 名乗ってもいないのに名前を把握されていることに、スペードは警戒度をさらに上げると、持っていた銃口を隙なく破浪へと向けた。

 だが、返ってきたのはあまりにも眩い二つの閃光だけだった。


「なっ……⁉ 」


 一度の銃声に、二発の銃弾――。

 そんな考えが稲妻のように脳裏を走り抜ける。

 直後、それを肯定するようにして黒服の腹部を二発の銃弾が貫いた。義体者特有の強化された反射神経のおかげで、盾にしていた黒服を突き飛ばすことに成功するも、あまりにも高威力な銃弾は人質の体を貫通してなおもスペードにまで迫ってくる。


「ッ……‼ 」


 そのうちの銃弾のひとつが脇腹をかすめていき、予期せぬ違和感にスペードは思わず顔を歪めた。痛みはない。だが、義体が負傷したというのは、触覚を刺激するのが一番認知しやすい。だからこその違和感だった。体を逸らすことで直撃だけは回避するも、撃たれた人質は血を吐きながら瀕死の状態になってしまう。

 スペードはフロアの床を転がりながら体勢を直し、銃撃戦への覚悟を決めて破浪に銃口を向けた。しかし、多勢に無勢と言わんばかりに黒服たちが肉の盾となり始め、射線が通らないことにスペードは思わず唇を噛んだ。


(武器を取り出す動作が速すぎて、残像すら見えなかった。……やはり、こいつも……)


 ――義体者か。


 奇しくも、その言葉が呟かれることはなかった。

 ジンは銀色のリボルバーを隙なく片手で扱い、確かな殺気を放ちながらこちらに銃口を向けているのが見えた。直後、速射したとは思えないほどの精度で、スペードのすぐ傍を銃弾が通り過ぎていく。

 黒服たちもそれに続き、人質という盾がなくなったならばと、持っていた銃をこちらに乱射し始める。弾丸の嵐をスペードはまたもや横に飛び退きながら、せめて致命傷だけは避けようと限界まで体をひねる。後ろのガラス窓に銃痕が刻まれていく。


「…………ッ‼ 」


 そのとき、空中で体を捻じりながら飛び退いていると、再び天井が目に入った。

 銃撃戦になることを想定して、打っておいた布石のひとつ。スペードはそれに対して、歯を食いしばりながら銃口を向ける。


(間に合え――ッ‼ )


 さきほど威嚇射撃をした箇所の天井に、スペードはもう一度注視した。火災感知器と併設された消火スプリンクラー。ならびに二つの銃痕が残る箇所からは、小さくパチパチと電気が漏れている。それは紛れもなく、このフロア設備の脆弱性を表していた。

 続いてスペードは、破浪が立つ後ろの壁へと義眼を向けた。消火器。それもかなり高性能のものだ。ひとたび火に浴びせれば瞬く間に火が消えると、企業CMがヘンテコな歌とともに謳っていた。


 精神が研ぎ澄まされていく。

 スペードはその二つにのみ意識を向けると、振りまわされる腕の軌跡に沿って、二発連続の速射狙撃を行った。


 二発の銃弾は寸分たがわず、黒服たちの弾丸の嵐を抜け、天井の消火スプリンクラーおよび消火器へと吸い込まれていく。直後、銃弾を撃ち込まれた消火器が爆発し、フロア全体に大量のスモークが噴出した。衝撃で、黒服数人が吹き飛ばされる。


 続いて耳をつんざくほどのサイレンの音が発動し、ザァ――、と破損したスプリンクラーから大量の水をばらまかれ始める。照明が消えてフロアが薄暗くなり、代わりに非常事態用の赤いランプが点灯する。

 しかし、さすがに弾丸の嵐を無傷で抜けるのは無理だったのか、一つの弾丸が『バチン!』とスペードの持っていた銃身にあたって衝撃でどこかへと飛んでいってしまう。だが、スペードは意に介すことなく突進していき――視界の悪さが幸いしたのか――難なくジンの胸ぐらを掴むと、そのまま床へと押し倒した。


「あんた正気か、部下を撃ち殺すなんて⁉ 」


 スペードが馬乗りになりながらそう叫ぶも、ジン・ポーランはしきりに冷めたような顔をするだけだった。


「ふん、認識の相違とは残酷なものだな。あれはわたしの道具だ、仲間でも部下でもない。だが、反応できたのはさすが侍の国の義体者というべきか。褒めてや――」


 スペードはジンが話す途中にも関わらず、思い切り鼻血が出るほど顔面を殴りこむと、再び胸ぐらを掴んで無理やり会話を続ける。


「運び屋を舐めすぎだ。俺はそこらの運送業者と違って、そう簡単には殺せないぞ」

「……だからこそだ。貴様は分相応な適役となるだろう」

(――殺気ッ⁉  まずいっ‼ )


 直後、煙の向こうから黒服の男が走ってくる。

 銃口がこちらに向いている。トリガーが引かれようとしている。


「――――ッ‼ 」


 発砲の瞬間、スペードは全身の人工筋肉が軋むほどに首を逸らすと、思い切り地面を蹴り抜いた。直後、左側頭部のすぐ横を銃弾が掠めていくのを感じながら、スペードは男の懐へと潜り込む。


「テック起動、強化発勁ッ――‼ 」


 素早く両手をバチンと合わせると、スペードは掌底を男の腹部へと突き出した。衝撃波が男の体内で破裂する。だが、黒服はよろけながら数歩後退すると、さほどボディブローほどの威力がないことに気がついたのか、不敵な笑みを浮かべて立ち尽くす。


「なんだァ……? へへ、へ、……が、……っ、……ごぼっ……」


 しかし、へらへらとしていた男はしばらくすると、ゴボッ、と口・耳・鼻・目からどろりとした血が垂れ始め、やがて吐血の勢いと同じくして膝から崩れ落ちた。


「ほう、内臓を潰したか」


 人工の筋繊維と強化骨格から繰り出される力の放出は、人間が喰らえば対象者の内臓を破裂させ、運が悪ければ背骨までもがヘシ折れる。もし胸部に喰らえば心臓ですら破裂するだろう。だが、現代の医療技術ならば、即座に治療されれば死ぬことはない。

 そのとき、唐突にスプリンクラーが止まり、電源が復旧した。非常用電源の赤いランプが消え、代わりに、パッ、と白い光源が元に戻る。


(もう、ビルの管理AIに勘付かれたのか。さすがに対応が速い――)


 スペードは背後でいつのまにか立ち上がっていた破浪に気がつくと、隙なく徒手空拳の構えをする。


「テックで無理やり習得した偽物の中国武術か。……噂には聞いていたが、実際に努力もせず我々の技術を使われると、なかなかに腹が立つ」

「他にも柔道ジュードーとクラヴマガを導入インポートしてる。脳核にコードをぶっ刺してな。……試してみるか、オッサン!」


 真っ赤な嘘である。

 スペードには、長年、研鑽を積み重ねてきたような本物の武術家のような動きはできない。出来たとしても、それは『テック』と呼ばれる技術で神経回路に焼き増しした、偽物の戦闘技術でしかない。

 スペードはあくまでも運び屋であって、戦闘のプロである傭兵でも殺し屋でもないのだ。だからこそスペードはブラフを吐き、銃を握る手に人工の脂汗をにじませながらも、どうやってここから脱出できるかばかりを考えていた。


「なかなか、たかが運び屋にしては良い吠え方をする。……だが、わたしには勝てないよ」

「…………」

(クソッ、階下から増援の気配がする。あと十数秒で突入してくるな……)


 スペードは強化された聴覚で、かなりの数の足音が非常用階段を駆け上がってくるのを認知する。同時に、足音が鈍く低いものであることから、相当な武装をした警備兵だということを理解していた。


「気づいたか、勘の良いやつだ」


 スペードがじりじりと非常用階段のある方向に警戒し始めるのを見て、破浪はスペードが増援に気がついていることに感心したようだった。とはいえ、今さらどう足掻こうともスペードが鉄くずになるのを確信しているかのように、秘書の男は局長用のデスクにどかりと腰かける。


「で、どうする。ここはリトル・チャイナでも、高度五百メートルにある人工の離島だ。むろん、侵入者という体(テイ)のお前は、脱出することもままならずに風穴だらけにされるのがオチだとは思うが。……ま、せいぜい踊るがいいさ」


 これはただのエンターテインメントなのだと言わんばかりに歪んだ笑みを浮かべる破浪に対して、スペードは思わず舌打ちをした。

 瞬間、ぐらりと視界が歪んだ。


「…………ッ」


 有害電磁波発生装置が作動しはじめたのだ。

 時間が経つにつれ、スペードの視界にはカラフルなストライプ模様のモザイクが走り始める。ぐわんぐわんと体が波で揺れているような錯覚は次第に強くなり、鼓膜をひっかくようなノイズが大きくなっていく。じきに立っていることさえ難しくなるだろう。


(エレベーターは論外で、この様子だと非常階段も無理か。……となれば一か八か、あそこからしか……)


 爆発的な勢いで思考を巡らせながらもを飲み込み、スペードはやがてひとつの脱出方法を思いつく。視線が、無数の銃痕の残る窓ガラスを捉える。

 どうせ死ぬのが確定しているのならば、すこしでも望みのありそうな方法へとすがるしかない。たとえそれが常軌を逸した行動であろうとも、スペードにはそれを実行に移すだけの力がある。


「知ってるか、オッサン。――運び屋が嫌う行為ってのは三つあるんだ」


 フロア全体に透き通るような声で、スペードは眉をひそめるジンに向かって小指のない拳を向けた。


「ひとつは、依頼された荷物を破棄し、予定の期日を破ること」

 人差し指を上げ、義体の出力を上げる。

「ひとつは、仲間を見捨てて、裏切ること」

 薬指を上げ、覚悟を決める。

「それで、最後はなんだね?」


 スモークが晴れる。スペードの後ろで、黒服たちがこちらに気づく気配がする。

 聞いてから殺してやるとばかりに銃口を向けるジンに対し、スペードは最後に凶悪な笑みを浮かべながら指を曲げ、――代わりに中指を上げた。


「権力者に媚びへつらうことだよッ!」


 スペードはジンの近くにあったキャリーケースに狙いを定めると、左の前腕部からアンカーを射出した。先端が小さなフック状になっているそれは、キャリーケースの取っ手部分に絡まると、ワイヤーを巻き取りはじめるのと同じくしてスペードの方へと転がっていく。


【義体出力、最大】

 左手でケースの取っ手を掴んだ、瞬間、スペードの義体が蒸発した。

 いや、蒸発したと錯覚するほどの速度でかき消えた。虎の縄張りに入りこんだウサギのように、脱兎のごとく一瞬で彼らの視界の外へと出たスペードは、数えきれないほどの銃痕が刻まれた窓へと走っていく。

 だが、ひとりだけスペードの動きに合わせて義眼を動かす者がいた。


「…………」


 ジン・ポーランだった。

 やつは両手でリボルバーを握りこみながら、今度は確実な殺意でもって銃口をスペードに向けている。そのことに気づいたスペードもまた顔を後ろへと向ける。双方の視線がアイアンサイト越しに交錯する。


(撃たれるッ――)


 人造の第六感が鳴らした警鐘を信じて、とっさにスーツケースを盾にすると、スペードの体を凄まじい衝撃が襲った。


「ァ、ぐッ……」


 単なる銃弾とは思えないほどの威力に吹き飛ばされ、スペードは背中から銃痕の残るガラス窓に衝突し、勢いのままにそれを突き破った。仰向けで最初に見えたのは、夕焼けと夜が混ざりあう不思議な空だった。


「うわああああああああああああああああ⁉ 」


 直後、スペードは一瞬の浮遊感の後、後頭部をビルの斜面にぶつけ、鈍い音を放った。幸いなことに、彫刻刀のような外観のビルの構造上、途中までは角度四十五度ほどの傾斜が続くらしい。

 だが、滑落したその先にあるのは高度五百メートルもの人工の断崖絶壁である。

 スペードは歯を食いしばりながら、何とか滑落する体をどうにかできないか思考を巡らせる。銃はないが、ガラス窓に穴を開ければ下のフロアに侵入できるかもしれない。

 そう思い、拳でガラスを殴るも――


「――かたァ⁉ 」


 階下のフロアに侵入しようとガラス窓を殴るも、防弾仕様なのかと疑いたくなるほどの硬度に、スペードは思わず悲鳴を上げた。このままではマズい。あと十階分ほど滑れば、確実に高度五百メートルからの落下がはじまる。殴った拳を冷ますようにして息を吹きかけながら、スペードは思考を必死に巡らせる。

 何とかビルの突起にしがみつけないか試してみるも、突起ひとつ見当たらないビルのガラス窓は異常なほど磨かれており、スペードの体をほとんど摩擦なしに滑らせていく。そして――


「クソッ、クソッ――⁉ 」


 ついに、スペードは黒革のライダースの裾をはためかせながら、人工の岸壁から落下することになった。遠くで赤褐色の雲がなびいている。地平線にほとんど沈んだ太陽が、リトル・チャイナのビル群を燃やすように照らしている。

 だが、そんな夕日も高層ビル群に隠れるのと同じくして、街全体を囲う防護壁に隠れてしまい、スペードはとうとう滑落ではなく落下することになった。顔を舐める暴風、落下に伴い生体臓器の浮く感覚、はるか下の方で蠢くゴマ粒でしかなかった歩行者があっというまに近づいてくる。


 太陽が高層ビルに隠れたせいか、恐ろしいほどの冷気が肌にまとわりついてくる。死神の吐息のようなそれに全身をなでられながらも、ネオンが点滅する街へと吸い込まれていく。

 空路を飛ぶ反重力乗用車のテールランプは、多いとはいえ、そのほとんどが地上にある車道のすぐ上を飛ぶ低高度空路のものだ。高高度空路に車がいなければ、この高さからの落下であれば義体者でも死にかねない。

 だが、スペードはふいに遠くから眩い光が近づいてくるのを感じた。

 視界の端から、小さなヘッドランプが二つ、ぼんやりと落下軌道上に向かってやってくる。この速度なら間に合うかもしれない。そんな一抹の希望をかけるようにして、スペードは思いきりそれに向かって叫んだ。


「タ、タクシ――‼ 」



        ***



 タクシーの運転手が窓枠に肘をつきながら、気だるげな顔で運転している。運転手である中年の男は、はち切れんばかりの腹をシャツで無理やり覆いながら、しきりに鼻をほじくっていた。

 タクシーの内装はピンク色なもので統一されており、所々に日焼けして色褪せたぬいぐるみが置かれている。車窓に貼られた家族写真には男の妻らしき女性と少女が映っており、女性の顔だけがぐしゃぐしゃと油性の黒いペンで塗り潰されていた。

 ラジオからは天気予報センターの砂嵐速報が、機械音声によって延々と読み上げられている。だが、それがリトル・チャイナの道路交通情報へと変わった、そのとき――


『タクシー……』


 どこかからか、タクシーを呼ぶ声が聞こえた。

 まさか、そんなはずはないとばかりに左右の車窓を見渡すも、あるのは夕暮れの空模様と罗波那集団を含む中心部のビル群の側面だけ。

 そもそも、ここは地上の車道ではなく空路なのだ。乗客はいつも専用のアプリで確認してから向かうため、呼び止められることは滅多にない。中年の男は疲労による幻聴か何かだろうと決めつけると、再度、ハンドルを握りこみながら帰路へと急ぐ。だが――


『タクシィ――‼ 』


 今度はハッキリと聞こえた。

 同時に、上から何かが降ってくるような風切り音が、徐々に大きくなっていき――



 ――――ゴシャアッ‼



 次の瞬間、タクシーのボンネットに何かが墜落した。高度がすこし落ちる車体、ひしゃげるボンネット、長めのクラクションに、ヒビが入るフロントガラス。そして、何よりも降ってきたものの正体に、運転手の顔は限界まで引き攣っていた。おそらくは、青い血にまみれた亡霊のような顔を見たのだろう。


「だ、だずげでェ……」

「キャアアアアアアアアアアアアアアアッ⁉ 」


 ついに我慢できなくなったのか、中年の運転手は恐怖で乙女のようにビビりながら悲鳴を放った。それと同じくして、エンジンと反重力装置に相当なダメージが入ったのか、マフラー部分からプスプスと黒煙が吐かれ始める。

 直後、タクシーは中心部の歓楽街へと墜落するようにして落ちていき、やがて赤いテールランプは尾を引きながら、ネオンの海へと消えていくのだった。



        ***



「逃げられました」

「……ほう、さすがだな。まさか逃げられるとは思ってもいなかった。この国のアウトサイダーもまだまだ捨てたものじゃないらしい」


 重装備の警備兵の報告を聞きながら、ジン・ポーランは穴の開いたガラス窓から崖下のリトル・チャイナの街並みを感情の一切がない顔で眺める。

 しきりにフロアへと入り込む風に晒されるのを嫌ってか、ジンはくるりときびすを返すと、殴られたときの血反吐を床に吐き捨てた。青い血がべちゃりと音を立てて付着する。


「それに比べて――」


 そして、破浪はさらに冷めた目で倒れている黒服へと目を向ける。


「それに比べて、お前らときたら‼  わたしは〝やられろ〟と言っただけだが⁉  地に伏して、血を吐けとまでは命じていない。……立て、この人形風情がッ!」


 そう言って、破浪は内臓が破壊された黒服の腹を蹴り上げた。

 直後、びくびく、と神経を締められた魚のように痙攣した黒服が、やがて何かに操られているような不自然な動作で立ち上がった。

 口から黒い触手のようなものをチュルリと垣間見せながら、ソレは男を立たせたまま内臓を修復すべく治療を始める。黒服の顔は不自然なほどに、ニヤニヤとにやけ面をしたままだった。


「まったく、これでは義体化手術のほうがマシではないか。――汚らしい」


 よだれを垂らし、白目をむきながら笑い続ける黒服を放置しながら、破浪は壁際で待機する本当の部下たちの方へと歩みを進める。

 彼らはみな、黒服とは比較にならないほど最新鋭の装備に身を包み、軍人のような服装をしていた。赤いベレー帽をかぶった私兵たちの風格は、黒服のそれとはもはや別物である。

 黒服たちはジンの部下ではなかった。単なる実験動物のひとつだったのだ。この企業ビルのロビーにあった水槽の新生物の核を、体内に直接取り込んだ強化ニンゲンである。


「同士ポーラン、いかがなさいますか」

「なに、慌てることはない。本社へ送る動画もこれで用意できた」


 警備兵のひとりが怪訝そうに眉を顰める。


「すこし切り取るだけで、本社はおろかニューホンコン都市政府もさぞかし良い反応をしてくれるだろう。穏健派の筆頭であるソン・ラオファンが、現地の運び屋によって射殺された。同胞を殺した犯人は何としてでも見つけ出して殺せ、とな」

『全員、動くな。銃を捨てろ。……でなきゃ、こいつの頭に風穴が開くぞ』


 そこには、運び屋の青年が部下を人質に脅している映像が再生されるタブレット端末があった。角度からして監視カメラの録画記録らしい。ジン・ポーランはインテリぶった仕草でメガネのブリッジ部分を中指で上げると、バカな男だとほくそ笑んだ。


「我らが同士、ソン・ラオファンは死んだ! 臨時の局長はこのわたし、ジン・ポーランが引き継ぐとそう伝えろ!」


 直後、ポーランは声を張り上げると、そのまま部下たちに続けて指示を出す。


「だが、キャリーケースを取られたのは痛手だった。……あれの中身だけは何としてでも取り返せ! むろん、あの義体者のガキは殺してもかまわん、――行けッ‼ 」

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