本編

 こうして、風にざわつく笹の音を聞いていると、子どもの頃の出来事を思い出す。


 ぼくの住む千葉県市川市には、「禁足地」と呼ばれるものがある。

 文字通り、足を踏み入れることを禁じる土地――早い話が、立ち入り禁止区域だ。


 ――八幡やわた藪知やぶしらず


 都会の一画を不自然に陣取る、おおよそ百坪ほどの竹林の森は、地名を冠してそう呼ばれている。

 あの日、まだ十才だったぼくは、学校帰りに仲の良かった友だち二人と、その場所を訪れた。


 きっかけは、前の日に見たテレビ番組だ。物心ついたときから目にしていた近所の森に、「入ると、二度と出られなくなる」という、怖い言い伝えがあることを知った。


 どうにも信じられなかった。

 森は、人や車が頻繁に行き来する国道に面していて、向かいには市役所もある。

 広さだって、覗けば、木々の隙間から向こう側が見えてしまうほどにしかない。


 ――あんなところで、行方不明になる人なんているもんか


 そう。怖いもの見たさの肝試しじゃない。

 言い伝えとやらが、どれだけ嘘っぱちか、実態を暴きたくなったのだ。


 まずは、入れそうな場所を探した。

 言い伝えはともかく、立入禁止なのは本当のことだ。表の外周は、背丈より高い石の柵で囲まれている。

 敷地内への入口らしきものもあるが、そこは、「不知森しらずのもり」という名の、小さな神社の境内だ。神社と森との境にも、当然柵がある。

 だから、柵の切れ目か、または乗り越えられそうな場所を見つけないといけない。あとは、学校に通報されたら困るので、人目も避けたい。


 ぼくらは、敷地に沿って通りの裏手へと回った。

 そこには、まあまあ条件に合う場所があった。真似する人はいないと思うけど、念の為、詳しいことは言わないでおく。


 こうして、あとは森に入るだけとなったが、いざそのときとなると、みんな少し怖気づいてしまった。


 言い伝えのこともあるが、日の光の届かない、鬱蒼とした森が――そこに足を踏み入れるのが、なんだか怖く感じた。

 厳密には、「嫌な予感」というやつだったのかもしれない。

 柵の向こうが、本当に別の世界のように思えたのだ。


 だからといって、ここまで来て引き返すのは、バカみたいだ。

 ぼくらは、腹を決めた。


 そして、ついに境界を越えようとしたとき――


「こらあっ!」


 男の怒声に、みんな飛び退いた。

 二人の友だちは、そのまま逃げ帰ってしまった。


 無理もない。

 その声は、人がいるはずのない森の中から聞こえたのだから。


 固唾を呑みながら、声のした方を凝視していると――やがて、木々をかき分けて、一人の男が姿を現した。

 無精髭の、三十代くらいのおじさんで、なぜか、お祭りのときみたいな浴衣姿だった。


 不思議なおじさんは、ぼくをまじまじと見て言った。


「なんだ……腰が抜けちまったのか?」


 そう。ぼくだけが、その場に留まったのは、肝が据わっていたからじゃない。逃げるに逃げられなかったのだ。

 ぼくが立ち上がるのを待ってから、おじさんは、あらためて強面こわもてをつくった。


「大人から、森には入るなって言われてるだろ? さっさと帰んな」


 ぼくは、おじさんも森に入っていることを指摘した。

 すると、明らかに気まずそうな顔をしたので、


 おじさんは誰なのか。

 ここの関係者なのか。

 違うなら、警察に通報してやる。


 そう言って、まくし立てた。


「あー……面倒くさいガキだな。おれは、その……ここの、番人みたいなもんだ」


 ……番人?


「おまえみたいなのが入ってこないようにさ、見張ってないといけねえんだよ……」


 歯切れが悪い。風貌からして、公職や警備員とも思えない。でも、なんとなく嘘は言っていない気がした。


 嘘といえば、「入ると、二度と出られなくなる」という言い伝えこそが、やはり嘘だったということだ。

 おじさんは、こうして平然と、森の中にいるわけだから。


 きっと、言い伝えは、みんなを怖がらせ、森に近づけさせないために捏造つくられたのだ。

 だとしたら、その昔、本当はここでなにがあったのだろう?


 ぼくは、率直に聞いてみることにした。

 きっと、この人が番人をしている理由こそが、ここが「禁足地」となった理由そのものなのだ。


 おじさんは答えた。


「さぁてな……おれも、よくはわかんね」


 がっかりだ。期待外れもいいところだった。

 どうして、番人なのにわからないのか。


 呆れていると、自称番人は意外な名前を口にした。


「まあ、おれの親は、黄門様が祟られた場所だからって言ってたけどな」


 黄門様といえば、あの黄門様に他ならない。


「そうさ。水戸の御老公こと、徳川光圀だ。黄門様がこの森の噂を聞いて、面白がって入ったら、出られなくなったって話だ」


 黄門様が、そんな小学生の悪ガキみたいな真似をするなんて、意外だった。


「黄門様が森に入ると、異形の化け物どもに囲まれ、来た道はいつの間にか消えていた。さらに、白髪の老人が現れて、禁を破って入った黄門様を叱ったそうだ」


 いい年した大人が、子どもみたいな理由で叱られて、どんな気分だっただろう。


「それから老人は、黄門様が偉いお方だから、今回だけは許してやると言って、外に出してやったそうだ。こうして、黄門様は無事に帰ることができたって話さ。めでたしめでたし」


 印籠は使わなかったらしい。

 それはいいとして、今の話では、そもそもどうして森に入ったら駄目なのかが、わからないままだ。

 黄門様を祟った者の正体――知りたいのは、そこだ。


「そうだな……。よく聞くのは、平将門たいらのまさかど絡みの話だな」


 水戸黄門と違って、当時は、まだその名前を知らなかった。


「知らねえのか? 黄門様のいた江戸時代よりずっと昔の、平安時代の武将だ。いろいろあって、朝廷と対立して大きないくさが起きた。最後は合戦場で、弓矢でこめかみを射られて討ち死にしたんだ」


 この話が、かの有名な「平将門の乱」だったことを、後の歴史の授業で知った。


「しかし、強い恨みを持って死んだ将門は、怨霊となってこの世に留まり、災いを振りまいたそうだ。その後に大流行した疫病も、将門の祟りだと恐れられたんだとさ」


 凄い話だ。

 そんな怖い人が、この森とどんな関係があるのだろうと期待した。


「で、その将門公の墓があったのが、なにを隠そう、この森だった――かもしれないんだとさ」


 ……かもしれない。

 そうだ。歴史とは、未だすべてが解明されているわけじゃない。

 確証が得られず、可能性の域に留まっている説だって、いくつもある。


 でも、この頃はそんなことも知らなかった。

 情報が曖昧なのは、単におじさんが掴まされたのが、信憑性の薄いガセネタだからだと思った。


 おじさんは、その後も、合戦のときに占いで、「不吉な土地」と認定されたという説や、神話の英雄、日本武尊やまとたけるのみこと陣屋じんやがあったという説も話してくれた。

 陣屋とは、役所のようなものらしい。


「ほかにも、まだあるぞ」


 話自体は面白かったけれど、そのどれもが、「かもしれない」で終わった。

 おじさんは、決してなにも知らないわけではなかった。それどころか、知った上でちゃんと理解していたのだ。


「結局、いろいろといわれはあるが、どれが正しいかはわかんねぇ。ひょっとしたら、そのどれでもないのかもな」


 今は、誰も本当の理由を知らない。

 それでも、人々は、未だにここを「禁足地」として恐れ、敬い、守り続けているということだ。


 なんだか変な話だけれど、おじさんの昔話を聞いてからだと、その気持ちも、なんとなくわかる気がした。

 守っているのは、森そのものよりも、古くから語り継がれてきた、この土地の伝承、歴史そのものなのかもしれない。


 ――入ると、二度と出られなくなる


 そんな、ちょっとだけ怖い、言い伝えも含めて。



「たぶん、逆なんじゃねえか?」


 ふいに、おじさんは、そんなことを言った。


「いつからか、ここに入ったやつが出てこなくなった。理由がわかんねえと、余計におっかねえから、誰々様の祟りだなんだって、理由を付けてきたんじゃねえか?」


 つまり、


 ――元から、理由もなく、人が消える森だった


 それが、理由……?


「まあ、かもしれない、だけどな」


 ……ぼくは、おじさんに反論した。

 出会ったときと同じように、おじさん自身が森に入ってることを――それなのに、無事でいることを指摘した。


「だから、おれは番人なんだって……。それだって、運良く助かってなんだけどな」


 よくわからないけれど、そんなのは嘘だ。

 ぼくを、怖がらせようとしているんだ。

 そう言って、食って掛かった。


 すると、今まで面倒くさそうにしていたおじさんが、真剣な面持ちになった。


「そんなに疑うなら……こっちに来てみるか?」


 ……こっち?


「そんで、おれの代わりに……この仕事、やってくれるか?」


 なにかを、訴えるような目だった。

 ぼくは、なにも言えなくなった。


 しばらくして、おじさんは、急に笑い出した。


「冗談だ」


 ぼくは、ふうっ……と、深く息を吐く。

 そんなぼくを見て、おじさんは笑い顔のまま、独り言のように言った。


「ガキには、かわいそうだ」


 もう、辺りはだいぶ暗くなっていた。

 ぼくは、ひとまずお礼を言って、足早にその場を離れた。


 そんなぼくの背中に、おじさんの陽気な声が届いた。


「もしも、いい年した大人になっても同じようなことをしてたら、もう止めてやらないぞ」



 あの日の出来事は、鮮明におぼえている。

 おじさんに言われた、「いい年した大人」になり、もう何年もの月日が過ぎた、今でも。


 いや、大人なのは、見た目だけかもしれない。

 自分事でもあるが、子どもの精神状態のまま、大人になってしまう人だっている。

 そして、そのうちに痛い目を見る。


 あのおじさんも、きっとそうだったのだろう。


 だからこそ、先人の忠告には、きちんと従っておくべきだったと――なんだかんだで、後悔はしている。


 風に吹かれて、笹がざわついている。

 その音に混じって、遠くから子どもたちの声が聞こえた。

 聞き耳を立てると、どうやら、ここで肝試しをしようとしているらしい。


 あぁ……。くよくよしても、しかたがない。

 子どものままの大人にも、やらなければならない仕事はある。気持ちを切り替えよう。


 それに、彼らみたいなのが、飛び退いて驚く姿を見るのも、それはそれで楽しいものだ。


 次第に近づいてくる、子どもたちの気配。

 頃合いを見計らって――


「こらあっ!」


 ぼくは、笑いを堪えつつ、森の中から怒声を放った。



 おわり

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ここが禁足地である理由 黒音こなみ @kuronekonami

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