第19話
「ねえ理人――――やっぱり私たち、付き合ってみようか?」
唇に触れる指先から、杏音の温もりを感じる。
半年前、あんなやり取りがあったのに今更、こんなことを言ってくる杏音の真意はなんだろうか? 何か心境の変化があったか?
いや、杏音の場合はきっとこうだろう。
俺は唇に触れた手を掴み、そして反対の手も掴んで杏音をベッドに拘束する。
両手を拘束し、杏音に馬乗りの形になった。
「ちょっとー。冗談だってばぁ」
ニヤけた顔でそう言われるかと思っていたが、杏音は口を開く様子はない。どころか目を瞑って顔を少し逸らし、無抵抗な状態にあった。
ただ俺をからかっているだけかと思って、仕返しにと本気の調子で返してみたがどうやら様子がおかしい。
これは――何をされても受け入れるってことか?
別に不能なわけじゃない。しっかり反応している。
欲のままに、勢いのままに、進んでしまったら、それこそいくところまでいってしまいそうな雰囲気だった。
しか――――どうしても、理性の方が勝る。
俺は大きくため息を吐き、両手の拘束を解いた。そして無防備なおでこに向かって、思い切りデコピンをする。
「いった!!」
杏音は額をおさえる。
突き飛ばされるか蹴り飛ばされると思ったが、杏音はいった〜と言いながら額をさすっていた。
身体を起こす様子もない。俺に馬乗りにされたままだ。
つくづく予想外と言うか、杏音の行動が読めない。
俺は杏音の上から、そしてベッドの上から降りて、定位置の座椅子の上に座った。
杏音は変わらずベッドに横になり、ボーっと天井を眺めている。
「本気、なのか?」
「……理人は、どう思う?」
少なくとも、冗談で言っているわけではなさそうだ。
「どう思う、ねえ……」
それから、しばらく沈黙した空気が流れた。
杏音と付き合うかどうか。俺の気持ちは? 杏音は本当に、俺と付き合いたいと思っているのか?
そんなに深く考えることはなかった。この思考時間はただの確認作業だ。
何度も振り返ってみても、やはり答えは変わらない。
「前に杏音も言っていただろ? この好きだって気持ちを、無理に恋愛感情と結びつけたくない、って。アレ、俺の中でもすごく腑に落ちる言葉だったんだ」
杏音は上体を起こす。俺はそのまま言葉を続けた。
「だから、今もそう思ってるし、これからも変わらないと思ってる」
それを聞いた杏音は少し首を傾けてニヤリと笑った。
「それは今でも私のことが一番好き、ってことかな?」
「当たり前だろ」
そもそもこの半年の間に、俺と杏音の心境に影響を及ぼすようなイベントは何も起こっていない。変化が無ければ気持ちも変わらない。
「あーあ。フラれちゃったなー」
杏音はわざとらしく大きく伸びをしながら言った。
「杏音は……本気で俺と付き合いたいと思っていたのか?」
「そんなわけないじゃん」
なんてことないようにサラっという。
「じゃあなんであんなこと言ったんだよ?」
「いや~、理人も健全な男子高校生なわけじゃん? 日々溜まってるならその捌け口くらいにはなってあげもいいかな~って」
おどけた様子で杏音はいう。こういう態度の時は本気で言っているわけではない。そしてそれと同時に、問い詰めても本心は語らないことも分かっていた。
だから俺はこのノリに付き合うことにする。
「杏音に世話にならなきゃいけない程溜まってねえよ」
「週何で発散してるの?」
「そんな生々しい報告するわけねえだろ」
「私は本気で心配しているわけですよ」
キッと杏音は表情を引き締める。この話題で真剣になられても余計なお世話なんだけどな。
「彩莉が理人の発散の対象にならないかを」
「そっちの心配かよ」
「私の彩莉、汚したらマジで許さないからね?」
「妹に手ぇ出すわけねえだろ」
杏音は信じられないというような疑いの視線を向ける。
「ホントかなぁ~? この前腕組んでた時とか、もっと胸があれば感触楽しめるのになーとか考えてそう」
「ないない」
「今朝だって、横に寝てた彩莉の前に理性を保つのがやっとだったんじゃない?」
「舐めるな。あの時も俺は終始冷静だったぞ」
俺の返答を聞いて、苦笑いを浮かべながら杏音は大きなため息を吐く。
「はいはい。そういうことにしておいてあげますよ」
俺も小さく息を吐いて会話の流れが途切れた。
私はそういうことにしてあげたんだから、理人もそういうことにしておいてよ。そう言われているような気がした。
昨日腕を組んできたことといい、今まで冗談でもしなかったような行動が続いている。杏音の中では、俺たちの関係を変えたいと思えるような変化があったのだろうか。
少しの沈黙のあと、杏音が口を開いた。
「これは本気で聞くんだけど、もし、私が誰かと付き合ったら理人はどう思う?」
「誰かと付き合う予定があるのか?」
「ないけど例えばの話よ」
「考えたことないから難しいな」
杏音はモテるから言い寄られたり告白されることは少なくないが、全て断っているからあまり興味がないのだと思っていた。だから誰かと付き合ったら、なんて考える機会はなかった。
俺は状況を想像し考える。
とりあえず、今の俺と杏音のような距離感でいるわけにはいかないだろう? あとはどうすればいい? うん。俺は別にすることはないのか。
そもそも、付き合うってのがどういうことか分からないから想像力が欠如しているな。
ただ確実に言えるのが、いままで当たり前のように俺の隣にいた杏音が、その場所にはいなくなるということだった。
杏音の顔を窺うと、真剣な表情で俺の答えを待っていた。
「そうだな……なんていうか……」
「うん」
「喪失感、みたいなのはあるな」
「えー? そんなに私が誰かのものになるのが寂しい」
ニヤニヤとからかうような表情で杏音はいう。
「そうだな……使わなくなったランドセルを捨ててしまった時と同じ感じ」
「17年の付き合いとランドセルが同じ扱い!? しかも捨てるって、私捨てられるの!?」
「同列で扱ってるわけじゃねえよ。あくまで感覚の話」
「まあ……理人にしてはまともな回答が返ってきたとは思ってるけど……」
やや不満そうに杏音は漏らす。
「ぶっちゃけると、俺は杏音の決めたことに口出しする権利はないし、好きにすればいんじゃね。って感じだけどな」
「あー……それ、理人らしいわ……」
杏音は呆れ顔を浮かべながらも、どこか満足した様子で言った。
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