第4話
いまから、30分くらい前だろうか。
私がリビングで絵を描いていると、どこからともなく私の傍に白い猫が近づいてきた。
そしてそのままソファーに飛び乗り、私の隣に座る。
何気なくその頭を撫でると、白い猫の姿は消えてしまった。
「にゃっは~」
どこからか奇声が聞こえた。いや、これは私自身が発した声のようだ。
なんだか身体が軽い。思いっきりジャンプしたら、天井さえも突き破ってしまいそうな感じだった。
それよりも――――心がとても軽くなっていた。
私はそのまま四本足で階段を駆け上がり、兄さんの部屋に突撃した。
***
不覚だった。
寝てしまっていたのに気付いて目を覚ましたら、私は兄さんの腕の中にいた。
兄さんは私を抱きかかえたまま空を仰いでいる。きっと私が目を覚ましたことに混乱しているのだろう。どうしたものかと私も少し混乱していた。
「……降ろして」
そう言うと、兄さんはそっと優しく私をベッドの上に降ろす。私がベッドから身体を起こすころには兄さんは部屋の中心で正座をしていた。
「……これは、どういうこと?」
状況は理解しているが、私は知らない振りをして説明を兄さんに求めた。
「い、いや……リビングで寝てたから寒そうだなと思って運んでたら間違って自分の部屋に入ってしまったというか……勝手に部屋に入ったらまずいと思ったというか……」
どっちともつかないような覚束ない説明をする。その言い訳だと、毛布でも掛けてくれればよかったんじゃない? で看破されてしまいそうだと思った。
「と、とにかく! 悪気は全くないんだ! だからなんとか許してもらえないだろうか!」
「…………」
床に頭をつけて謝罪の言葉を吐き出す。丁寧に言葉を選んで余計なことを言わないようにしているのだろう。私も余計なことを言わないように口を噤んだ。というかなんて返したらいいか分からなかった。
そんなことより、兄さんの部屋に入るのは初めてだ。さっきはあまり観察する余裕がなかったな、と好奇心でくるりと部屋を一周見回す。すると壁に貼ってある一枚の絵に目が留まった。
「……あの絵」
「あの絵? ああ、そう。昔、彩莉から貰ったやつな」
小学4年生くらいの時に兄さんのために書いた一枚の絵。今でも大切に飾ってあるなんて喜びが込み上げてくる。でもあの絵は若気の至りというものだ。こうして再び目にすると毒にしかならない。
「……あんな絵、早く捨ててよ」
そう言って立ち上がると、私はそそくさと兄さんの部屋を後にして自室に戻った。
立ち去ろうとする私を兄さんは呼び止めていたが、それに応じることは出来ない。
私は部屋に入り、椅子に深く腰を下ろした。
「……ふぅ」
小さく息を吐くように呟く。
静まり返った部屋に、私の心音だけが激しく脈打って響き渡る。
「……はぁ」
今度は小さく溜息を吐いた。
それでも、私の鼓動は全く収まる気配がない。
とりあえず一旦冷静になって、さっきのことを振り返ってみる。
……………………ダメだ。意味が分からない。
客観的に分析すると、私は猫の霊に取り憑かれて奇行を行っていた、ということになるだろう。猫の霊とは、さっきリビングで見かけた白いコのことだと思う。
……なんでそんなことに?
まあ、深く考えたところで理解の範疇を超えている。仕方がないので、起こってしまった事実は受け入れることにした。
それよりも問題があるとしたら――――
先ほどの奇行は、誰の意思によるものかハッキリしないことだった。
兄さんには私の意識は深いところで眠っているから覚えていない、というような説明をしていたがそんなことはない。ハッキリ全部覚えている。
記憶が残っている、という話ではない。
頭を撫でられた時の心地よさ、抱きしめられた時の温もり、力強さ。全て私自身の体験として、今も身体にその感覚が残っている。
じゃあ、あの行動の数々は私の意思?
感覚的には少し違う。思考して動いている、というよりは何も考えずに反射で動いているような感じだった。
それならば、あの行動はネコの霊の意思によるものなのか?
取り憑いたオバケだとか、除霊すると私の魂がどうとかは私が知りえない情報だ。
だとしたら、さっきの私はただの操り人形だったともいえる。
机に置かれているスタンドミラーを覗き込んだ。
「……にゃっはー」
精一杯先ほどの真似をしてみたが、鏡に映ったのはすんと冷めた表情の私だけだった。私の意志では、あんなことは出来ない。やろうと思っても出来ない。
やっぱり先ほどの行動は、私の意思は介入していない。
と、言いたいところだったが、そう言い切れない理由があった。
操り人形の状態でとった奇行の数々。私の意思じゃないとしても、不快感は全くなかった。
だって――――アレは、私の欲望をそのまま具現化したようなものだったから。
ずっと兄さんに甘えたかった。
優しく頭を撫でて欲しかったし、力強く抱きしめて欲しかった。
思い出すと、また胸の鼓動が早くなる。
普段の私では絶対考えられない奇行であったのは間違いない。
それでも、私には至福の時間だった。
一緒に暮らし始めて一週間。本当の家族になれたのだから、昔みたいな関係を取り戻したい。
でもこの疎遠だった三年間。私たちの距離は思っているよりもずっと遠くなってしまった。
もともと感情表現が苦手な私は、より一層兄さんとどう接したらいいか分からなくなっている。
さっきのネコの姿の時のように、感情を表に出せればどんなに楽なことだろうか。
「……はぁ」
何度目か分からない小さな溜息を吐く。
私の意思が少しでも介入できるのなら、ネコの姿でも私の気持ちを兄さんに伝えることはきっとない。
だって――――兄さんの隣にいるのは、私じゃないから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます