事件釣りの取材帳~流される残響~

枝之トナナ

過ぎ去りし声

 現代の日本にもセイレーンがいるのだろうか。

 朝日が差す前に釣り竿を手に磯へ出てみれば、透き通るような歌声が響き渡っている。

『まるでオペラだ』と形容するにはあまりにもの悲しく、しかし泣き叫んでいるというにはあまりにも美しい曲調。

"はなさないで"を繰り返すだけのその歌は、私の心を捉えるには十分だったが、不思議な事に歌い手の姿はどこにも見当たらなかった。




「ああ、おめも聞いだんが」

「歌が聞ごえるようになったのはつい最近だげんど、うちのおっかじゃねえのは確かだわな」

「ちぃと気味悪りぃがなあ、他に悪さするわげじゃねえし――それに姿ねえんだきゃどうすんもねえっぺや」

「じっちゃん達の言う通りっすよ。怖がってもしゃーねえし、夜中なら走り屋連中の車の方がよっぽど怖いっての」

「んだなぁ。あいづら都会じゃ珍走団って呼ばれてんだっぺ? こっぱずかしいからこーだ田舎に来て走ってんだろうけんど、うるせえし目くらむしなあ。

 何年か前には余所のごじゃアホがバイグごとさらけてこけてなぁ、海にこう、ぼーんって飛び込んで大騒ぎになったっぺよ。

 まあ市議のセンセイががんばってくれだから立派なガードレールもできだし、ちっとは安心だわな」

「だぁな、それに歌がするようになっでから連中来ねえでよ。いきがってる奴らでもお化けは怖えんだな」

「おりゃあおめんとこのおっかの方が怖えがな」

「がはは、違げぇねえ!」


 日が昇ってからやってきた近隣の釣り人達に話を振ってみても、正体不明ということしかわからない。

 わっはっは、と笑い合う彼らに礼を告げてから、もう一度磯の方を振り返る。

 釣りと歌声に気を取られていたせいか、来た時には気づかなかったが……すぐ近くが小さな崖のようになっていて、ガードレールがついていた。

 どうやら道路がかなり近いようだ。


「ああ……お客様、磯釣りに行かれたんですか?」


 宿に戻った私を出迎えたのは、妙に落ち着かぬ表情をしたオーナーだった。

 ちらちらとこちらの目を見ては逸らし、いかにも何か聞きたげに口をもごもごとさせている。


「ええ、朝釣りをしようと思ったんですけどね。

 突然女性の歌が聞こえてきたので、驚いて手が止まってしまいましたよ」


 空っぽのクーラーボックスを開け閉めしながら、わざとおどけて言ってみる。

 しかし主人は「ひっ」と後ずさり、その拍子に足がもつれたのか尻もちをついてしまった。

 さすがに驚かせるつもりもなかった私は、慌ててオーナーを助け起こす。

 四十台前半だろう中年太りした身体は中々に重たかったが、とりあえずロビーの椅子に座らせることはできた。

 せめてのも詫びにと、セルフ式の給茶機で二杯分のお茶を汲み、片方の紙コップをオーナーに渡す。


「す、すみません。お客様にご迷惑をおかけして」

「いえ、大丈夫ですよ。それより腰を痛められてはいませんか?」

「それは……少し休めば大丈夫だと思います。今のところ、痛みはないので」

「それならよかった」


 私とオーナーはしばし茶を啜った。

 数分間の沈黙ののち、先に口を開いたのはオーナーの方だった。


「去年、十三回忌を済ませたんです」

「え?」

「妻が亡くなって――私が、手を離したばかりに」


 十三、という数字で色々察した。

 今年は2024年だ。


「あの日、私と妻は、友人と一緒に出かけていました。

 北の、海辺のホテルです。

 友人のための祝いで――私の伝手でそこのホールを借りて」


 ぽつりぽつりと語る言葉には、隠しきれるはずもない後悔が滲んでいた。

 私は「無理に思い出さない方がいいですよ」と告げたが、今のオーナーには聞こえないようだった。


「帰る途中でした。あれが起きて……車で逃げようとして、渋滞で、車を捨てて、友人と妻と一緒に。

 少しでも高い所にと急かされて、でも妻は早く走れなくて、間に合わなくて流されかけて――

 私は妻の手を握って引き上げようとしたはずなのに、気づいた時には……友人が私を引き上げて、妻の姿はどこにもありませんでした」


 そこまで言うと、オーナーはじっと自分の手を見つめた。

 がっしりとした太い指だ。


「"離さないで"、と叫んでいました。

 間違いないんです。私も離すつもりなんてなかった……なかったんだ……」


 それはそうだろうと頷く。

 ただ、人の力も、決意も、愛情も、理不尽な天災の前では無力だったというだけだ。


「あの歌は、あの時の妻の声です。間違いありません。

 妻は……妻は、私を恨んでいるから、歌を歌っているのでしょうか。

 だとしたら、私は――私は、どう……どうすれば……」

「思い詰めないでください、ご主人。

 奥様の気持ちよりも先に調べるべきことがあります」


 そう――私の考えが正しければ、これは死者の仕業ではない。

 生きている人間の悪意が成した現象だ。


「まず確認したいのですが、歌が聞こえるようになったのは現場近くのガードレールが出来た後ではないですか?」

「え? いや、あのガードレールが出来たのは去年の秋で……

 歌は、本当につい最近…………妻の命日が過ぎて、何日かしてから、です」

「なるほど。では次に、貴方を助けたご友人は何をやってらっしゃる方なんですか?」

「市議です。土建屋の次男坊で、昔から行動力に溢れた奴で……とにかく色々な事をやっていました。

 兄弟でバンドをやったり、ヨットでクルージングをしたり、パソコンを自分で組み立てて売ったり、会社を興したり。

 どれも最初は畑違いだったはずなのにそれなりに上手くやって、とうとう政治にも手を出すようになった、尊敬に値する奴ですよ」

「そうですか。それで最後に確認したいのですが――

 亡くなった奥様と、ご友人は、どのような関係でしたか?」




************




「あーなるほどわかった。

 その市議がオーナーの奥様に惚れてたけどこっぴどく振られて、オーナーを逆恨みしてたってワケか」

「勝手にありがちな推理を組み立てないでくれるか?」


 酒臭い息を吹きかけながらケラケラと笑う男に、私は辟易しつつも枝豆を一莢つまむ。

 東京に戻って早々飲みに誘ってきたこいつ――岡田徹おかだ とおるは、オカルト専門のライターだ。

 どうやら例の歌の噂を聞きつけて、近場で取材釣りをしていた私が何か知っていないかと情報収集したかったらしい。

 無論、私とて釣りライターとしてのプライドがある。

 釣り以外の話をメシの種にしたくはないし、それ故に事件の真相も口外する気は無かったが……ライターとして私の同類であるこの男は、話が別だ。

 話さずにいて下手に嗅ぎ回られるよりも、さっさと洗いざらい喋って納得させた方が後腐れが無くていい。


「で、結局事件のタネは何だったんだ?

 大方ガードレールに仕掛けがあったんだろうが……アレか? 秋田かどっかの、『しゃべるガードレール』か?」

「正解だよ。ボルト部分の塗装を削って無電源ラジオとして機能するように工作したガードレールを宿近くの道路に設置し、夜明け前の数分間だけ自宅の無線機でラジオを流したんだ。

 釣り人経由でオーナーの耳に入ることを期待してね。

 歌声は生前の奥様の声をもとに編集したもの。ほら、一時期個人製作のフェイクニュースが取りざたされてただろ? あれ見て思いついたらしい」

「なるほどなー。

 けど、故人の肉声音源なんて良く持ってたな? その市議ストーカーか? リコールした方がいいんじゃねえか?」

「リコールについては同意するが、普通にCDがあったんだよ。

 市議と奥様は兄弟――より正確に言えば姉とその弟でね。

 長兄と三人でバンドを組んで、奥様がボーカルを務めていたそうだ」


 私は、宿のオーナーから届いた手紙を思い返しながら説明する。

 私が帰路についた後、オーナーは市議に会いに行き、じっくりと話し合ったらしい。

 そして市議は自分の罪を認め、泣きながら自白したとのことだった。


「きっかけは……オーナーが中年太りしたこと、だったそうだ」

「は?」


 岡田がすっとんきょうな声を上げる。

 手紙を読んだ時の私もそうだった。


「あのオーナー、元々はスポーツマンで引き締まった体つきをしていたらしい。

 そして奥様が亡くなった後は憔悴しきって、痩せぎすといっていいほどの体形だったそうだ。

 それでも何年か経って、少しずつ食欲も戻ってきた。しかし同時に酒に頼る日も増え、それでいて一人で出かける気力は失せたまま。

 若い頃は代謝が良かったからまだどうにかなったが――」

「ああ……一気にどーんって太っちゃったわけね。

 一気にこう、お腹が、どーんと」

「そうだ。十三回忌の時、ぶくぶくに太ったオーナーを見た市議は、こう思ってしまったらしい。

 『自分は未だ姉のことを引きずっているのに、この男はもう忘れようとしているのか』――ってな」


 体形だけで思い込むというのも酷い話だ。

 だが愛憎というものはいつだって人の目をくらませる。


「"はなさないで"ってのは、奥さんの思い出を手放さないでくれって意味だった……ってコト?」

「それもあるだろうが、実際に奥様の最期の言葉でもあった」


 私はビールを煽り、顔も知らぬ姉弟の心境に思いを馳せる。

 当人でない以上、正確なことなど言えるはずもないが――辛いだろうな、という感想だけは残さざるを得なかった。


「奥様は『離さないで!』と叫んだ後、自分から手を振り払ったそうだよ」

「……え?」

「夫婦で流されそうになった。弟が夫を掴んで必死に引き上げようとしている。

 一人で二人分の人間を引き上げるのと、一人が二人の巻き添えになって三人で流されるのと――どちらが可能性として高いと思う?

 三人揃って死ぬぐらいなら、弟に夫だけでも助けてもらって、二人生きた方がいい。

 だから弟に『夫の手を離さないで、彼だけでも助けて』と望みを託したんだろう」


 アルコールの味がしたはずなのに、ちっとも酔った気がしない。

 別にビールは悪くない。

 酒でも飲まないとやってられない話だが、酒のアテにすべき話ではないというだけだ。


「あー……そりゃ、なあ……

 そりゃ忘れてほしくない、わな」

「そもそもオーナーだって忘れてなど無かったんだがな。

 最初からちゃんと腹を割って話せば良かったというか、それで終わる話だったんだが」

「怒りで頭がフットーしちゃってたワケね。

 でも無駄に能力と行動力が高いから、殴りこみに行かずにこんな手の込んだ仕掛けを作ったと。

 アレだっけ? 電波法違反の方が暴行罪より罰則軽いんだっけ? それとも違反にならない範囲の個人局でもガードレール鳴らせたとか?」

「知らんな。どっちも釣りに関係なさすぎるし、そっちの記事でメシを食う気もない。

 どうせどっかの誰かが勝手に調べて勝手にニュースにするか、じゃなきゃ、単なる地方のオカルト話として消費されて終わるだけだ」

「それもそうだわな」


 岡田はタブレットに手を伸ばすと、ささっと焼き鳥盛り合わせを注文に入れた。

「何か頼む?」と聞かれたが、そこまで腹も減っていないし、持ち合わせもあまりない。


「言っとくが割り勘だぞ」

「そっか? 話聞かせてもらったからこっちで奢ろうと思ってたんだけど」

「……じゃあビール追加に馬刺し」

「あいよっと」


 我ながら現金だと思う。

 しかしタダ飯を前にして食欲を手放せるほど無欲な人間ではないのだ、私は。

 それに幸い、太ったからといって怒るような身内もいない。

 怒ってくれる相手がいない、とも言うが。


「それにしても、中々本物のオカルトってないもんだなぁ。

 今のところ一番のオカルトがお前だから困るわ」

「はあ? 誰のどこがオカルトだって?」

「魚を釣りに行って、三回に一回は変な事件も釣るところ。

 フツーさあ、こういうのは名探偵とか死神が持ってるスキルだろ?

 いっそペンネーム変えたら? 『釣り大好きマン』から『事件釣って解決マン』に」

「ダサすぎるから却下」

「『釣り大好きマン』も十分すぎるほどダサくね?」

「わかりやすい方が良いだろう。最近のアニメだってだいたいそういうタイトルが多いじゃないか」


 などと下らない話をしていると、配膳ロボが「料理もってきましたワン」と立ち止まった。

 写真よりも盛りがいい焼き鳥と馬刺しを前に、私は思わず腹を撫で――過ぎ去りし日々の賜物と言わんばかりに増えてきた贅肉をつまんだ。

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